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●原爆投下(12)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち  


 広島の原爆による死傷者は何人なのか。この単純な質問に正確に答は出ていない。私はあるデータ(「第4章」173~4頁参照)を書いた。しかし、志水清編『原爆爆心地』(1969年)には、「アメリカでは、今なお前述の広島県警調査による死者7万8150人、あるいは行方不明を加えた9万2133人という数字が、しばしば権威ある報告にも引用されている」と書かれている。この本にはまた次のような文章がある。

 ・・・広島の平和公園に行った人なら、埴輪をかたどった原爆慰霊碑を知らない人はない。しかし、これと比べると公園の北のはずれの「原爆犠牲者供養塔」は、あまりポピュラーな存在ではなかった。この供養塔の芝生で囲まれた土まんじゅうの地下安置所には、12万から13万と推定される無縁仏の骨が、ひきとり手もないままに眠っている。このうち名前がわかっているものは2355人。あとは、氏名も性別も、死んだ場所さえわからない状態になっている。
 これら名も知れない犠牲者を、広島市が供養することになったのは、原爆が落とされた時から1年たった昭和21年の夏だった。墓碑銘は、アメリカの占領政策をはばかって、原子爆弾の文字は伏せ、「広島市戦災死役者供養塔」とし、納骨堂とは名ばかりのバラック建ての小屋に遺骨が安置された。
 このまんじゅう塚の12万から13万の死者たちは、名前が確認されないという理由で死者数にも入れられていない。21世紀のこの世にも、無縁仏は、その空白を埋めてもらっていない。そしてまた、多くの被爆患者たちが日本赤十字社により見殺しにされた。日本赤十字社の総裁・高松宮は一存でジュノー博士の申し込みを拒否したのではなかったかと私は確信する。その兄の天皇裕仁と熟慮して、ジュノー博士の申し出を拒否したのである。
 原爆で生き残った者たちにも地獄が待っていた。
 朝日新聞社編『原爆・500人の証言』(1967年)から引用する。「あれから22年、さまざまに、被爆者たちは生きぬいていた。-たとえば、広島市観音町、爆心からほんの2キロ足らずの自宅で被爆したMさん夫婦が語る22年はこうだ」の中に次なる話がのっている。

 ・・・
学校中が避難者で埋まっていました。そして、教室に横たわる血だらけの人、髪がすっかりなくなった人、片手がもげた人、が次々に死んで行きました。水が欲しいと、たったいままであえいでいたけが人が、いつの間にか静かになる。兵隊が来てだまって担架で外に運び出す。そんなのを見ても無感覚です。隣に横たわっていた全身火ぶくれのおじさんは夜中に警察官を呼んで、遺産のこと、家財の始末を家族に伝えるように頼み、半身をだき起してもらったあと、天皇陛下万歳を三唱して息を引きとりました。何百人ものけが人が、うめいている夜の校舎にノドからしぼり出すような、万歳の絶叫だけは恐ろしかった。ほとんど、顔も見分けられないほどひどい火傷を負って冷たくなった母親の乳首をいつまでも、しゃぶりつづけて泣く赤ん坊もいました。

 この話はMさんの奥さんが語ったものである。Mさんの奥さんは、地獄の底で〔天皇陛下万歳〕を聞いたのである。この死にゆく人は、死の間際に、天皇は何者なのかを知って叫んだのである。だから「ノドからしぼり出すような、万歳の絶叫だけは恐ろしかった」のである。
 私は数多くの原爆の本をひたすらに読んできた。さながら夢遊病者のように読んできた。心の整理のつかないままに、毎日毎日、1日中といっていいほどに原爆が頭から離れなくなった。多くの死者が私に書かせているとの錯覚に心を奪われつつ書いている。そして、この原爆の話をどこかで終了しなければいけないと悩みつつ書いている。
 天皇が私の心にへばりついている。

 2007年の秋、私は報道写真家福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(2003年)を読んだ。この本の「あとがき」の最後に、住所と電話番号が書かれていた。プロフィールも書かれていた。1921年山口市下松市生まれと書かれていた。「生きているのだろうか?」と思った。ある日、電話をした。はっきりとした声の持ち主だった。彼はこう私に語った。
 「そうか、原爆の本を書いているのか。明日の昼ごろか、よし、黄色い傘を玄関の前においておく。ドアを開けて入ってくれ・・」

 私が彼に会いたかったのは、彼の本を読んで、こんなに真剣に原爆と格闘している人はいない、と思ったからである。電話した翌日私は彼に会った。わたしは彼の本の中で「衝撃を受けた1人の女性」がいた。それは、「原爆乙女の怒り『私には強姦してくれる男もいないのに』」の中で書かれている女性であった。次のように書かれていた。ダイジェストする。

・・・
1955年5月、長谷川幸子さん(仮名)をはじめ25名の原爆乙女が太平洋を渡ってケロイドの植皮手術のために渡米した。広島と長崎で被爆し、顔面などに醜いケロイドの痕を残した若い女性たちだった。福島は書いている。
 「長谷川幸子さんを知ったのは、ビキニ水域における米国の水爆実験に抗議し、実験水域にヨットを乗り入れて抗議した米国人物理学者、アーノルド・レイノルズ博士とバーバラ・レイノルズが広島に移住し、『ワールド・フレンドシップ・センター』を開設(1965年)したのを取材に行ったときだった。センターは海外から広島に立ち寄る外国人のガイドや、レイノルズ夫妻を中心にした日本における国際的な平和運動の拠点で、長谷川さんはバーバラの通訳兼アシスタントだった。その彼女と福島の間に友情が芽生える。
 「お父さんが、もし幸子と結婚する男がいたら、家も建ててやる、何でもしてやると言っているのに、こんな顔では縁談がないの」
 と青春の悩みを率直に福島に語るようになる。
 彼は次のように書いている。

 ・・・
 8月が来ると彼女はいつも語った。「私は8月6日が大嫌い。毎年各社のカメラマンが『ちょっとお願いします』と言ってパチパチこの顔を撮って晒し者にし、6日が過ぎれば使い捨てです。もういいかげんにしてよと言いたくなりますが、この顔が役に立てばと我慢してきましたがもう嫌です」。そんな話を聞くと余計に写したいとは言えなくなったが、ある日、ついに取り返しのつかない過ちを犯してしまった。・・・

 福島はある日、1人のカメラマンの撮影に応じた彼女が不愉快な目に遭わされたので「1杯飲んで夕食でも食べませんか」と誘った。幸子さんは、「まだ先ほどの出来事にこだわり、ときどき指先でケロイドの襞を伝って流れる涙を押さえながら話し始めた」と福島は書いている。福島は幸子さんとネオン街に出る。
 福島は書いている。「幸子さんの顔を写させて」と言いながら前に回ってカメラを構えた。この場面を私はどうして忘れえようか。

 ・・・
 その瞬間、彼女の足がアスファルトに釘づけになり、瞬きもせず僕の顔を睨みつけた。怒りに言えた両手が僕の胸倉を掴んで激しく揺さぶりながら叫んだ。「福島さん、あなたという人は」
 後の言葉は途切れてすぐに声にはならなかった。胸倉を掴んだ手が激しく震え、間近に迫ったケロイドの顔に焦げた臭い匂いを感じて思わず後ずさりした。「写させて」と言っただけなのに彼女がなぜ激しく怒り出したかわからなかった。その当惑に、彼女は血を吐くような激しい言葉を叩きつけた。
 私はここに書くのもつらい。ただ、次の言葉をのこし彼女は福島の前から姿を消したのである。そして、福島が電話して詫びようとしても電話口にも出なかったのである。

 「・・こんな顔になって私には結婚してくれる人もいないのよ。子どもが好きだから、お母さんに抱かれた赤ちゃんに思わず声をかけるの、そのたびに何が起きると思う。どの赤ちゃんも私の顔を見たとたん、火がついたように怯えて泣き叫んでお母さんにしがみつくの。どんなに惨めな気持ちになるかあなたにはわからないでしょう」
 「よく聞いて、街を歩いていても、後ろから冷やかし半分に近付いて来た男たちが、私の顔を見たとたん、みんな声を上げて逃げるの。そのたびに死にたくなるわ。死のうとしたこともあるわ、こんな惨めな気持ちがあなたにわかるっ。福島さん、私には強姦してくれる男もいないのよ」と叫ぶと幸子さんは僕を突き放し、大声で泣きながら土曜日の夜の雑踏のなかに姿を消した。・・・


 私は、今や86歳になる福島菊次郎に、この幸子さんとのことを問うた。「幸子さんは福島さんに惚れていたんですね」。福島は沈黙を守り続けた。そして、ぽつりと言った。「うーん、いろんなことがあったんだ」

 この『ヒロシマの嘘』の中に、アメリカが広島と長崎につくったABCC(原爆傷害調査委員会)のことが書かれている。
 週刊朝日編集部編『1945~1971 アメリカとの26年』(1971年)から引用する。

 ・・・
 ABCC〈原爆傷害調査委員会〉
 Atomic Bomb Casualty Commission 原爆傷害調査委員会。いうまでもなく、沖縄、本土の米軍基地とならぶ占領軍の遣産のひとつだ。広島市民の批判、非難の風当たりをさけて、最近では「日米対等のパートナーシップ」をいいだすなど微笑をふりまいているが、加害者による被害者の調査というその性格に変わりはない。
 ABCCさし回しの車がすっと玄間につくと、看護婦が「いらっしゃいませ」と最敬礼をする。白衣に着替えて血液検査、検便、レントゲン、聴診・・。精密検査の合間には弁当がでるし、帰りには救急箱のおみやげまでつく。
 こういう特別な接待をうけるのは、2年に1回、ABCCで「成人健康調査」を受ける人たち。市民たちは、ある種の感情をこめて、お山(つまり、市内比治山にあるABCC)の。〔クイーン〕とよんでいる。・・・

 この本にはABCCの歴史が書かれている。

 ・・・
 太平洋米軍総司令部の軍医などの主張によって、終戦後アメリカはいちはやく広島に学術調査団を送り込んだが、その調査団が継続調査の必要から広島と長崎に研究所を設立、その後1948年に、厚生省の国立予防研究所が協力して出来たのが現在のABCCである。だから、ABCCはいまも広島と長崎に2つあるが、調査研究の主体は広島で、規模の上からもABCCといえば広島というのが常識になっている。
 このABCCの調査については、「最初のころは被爆者の心理や感情をよく考えずにトラブルを起したことがありました。しかし、だれかがやらなければならなかったことを、終戦直後の混乱期にあれだけの規模でやったということはやはり意味があるでしょう」=原爆病院・重藤文夫院長(67歳)
「ABCCがあったからこそ終戦直後の医学の暗黒時代にも貴重な資料が保たれた。もし、その資料が日本に渡されていたとしても、その当時の日本の状態では、すぐに散逸してしまったことでしょう。また、ABCCは過去の統計調査資料なども要望に応じて快く提供してくれる」=1970年春ABCCに移った元広島大原医研究所の志水清博士(63)・・・

 この本の中にはABCCのことが詳しく書かれている。広島に住む詩人深川宗俊さんの主張が、この本に載っている。「占領軍が駐留していたころは被爆者をもてあそんでいたくせに、今になって手のひらを返したように『世界人類のため』などとゴタクを並べて協力を要請する。そもそも原爆を落とした国が被害を受けた国に乗り込んで調査研究をやるというのは、人道上許されないことではないでしょうか」
 かのときの占領軍は被爆者にピストルを突きつけ、「アナタ、軍法会議ニカカッテモイイデスカ」とおどし、少女を全裸にして、体のすみずみまでライトで照らし出す。あげくの果てに恥毛の発育状態まで検査する。そのため少女は気が変になってしまった、という例も報告されている。
 吉川清は『「原爆一号」といわれて』(1981年)の中で、ABCCの横暴に触れている。

 ・・・
 ABCCの活動については、被爆者の不満や不安、疑惑と非難の声が絶えなかった。健康の不安におびえながらも、日傭いに出なければ、その日を暮らせない被爆者にとって、ABCCの検査に1日つぶすことは深刻な生活問題であった。しかも、治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせはしなかった。それではモルモットではないか、というのであった。おまけに検査の結果、身体に異常をきたす者まであったのである。そして、被爆者が死んだと聞きつけると、ABCCは必ずといってよいほどにやって来ては、遺体を解剖させてくれというのだ。それは、死骸にむらがるハゲタカを思わせた。実は、その上にABCCの調査の手は、被爆していない人たちの上にまでのびていた。ある婦人は子宮組織を切り取られたといい、またある嬢さんは強引な検査のために、気が狂ったというような話まで伝えられた。そのABCCは、1951年になると、規模を拡大し、設備を充実して、比治山の上に幾棟かのかまぼこ型の施設を作って移転したのであった。・・・

 吉川清は被爆者組織の「原爆傷害者厚生会」を1951年8月27日につくった。この組織が被爆者の結束をうながすことになった。
 原爆投下からそれまでの6年間、被爆者は沈黙を強いられ、差別を受けて生きてきた。国家は彼らを見殺しにしていた。吉川は「原爆乙女」とともに東京に行く。なにゆえか、彼らは巣鴨拘置所を訪問することになる。彼は怒りを込めて書いている。
 「賀屋興宣と畑俊六が登場して、あいさつをのべた。戦争責任者としての反省も、悔恨の言葉も2人の口から聞くことができなかった」
 吉川清は1947年、アメリカの通信社のカメラマンの要望に応じ、広島日赤病院の屋上で自らの被爆写真を撮らせた。アメリカの各紙は彼を「原爆患者第1号 ヨシカワ」として報道した。吉川は「原爆第1号」と自ら名のり、被爆者の先頭に立ち、彼爆者更生法のために尽力した。私はこの彼の本を読み、「よし、原爆を書こう」と思ったのである。
 このABCCを告発し続けた男こそは、原爆写真家、否、日本最高の勇気ある写真家・福島菊次郎であった。彼は次のように書いている。

 ・・・
政府は原子爆弾の被害に驚き、被爆直後に広島、長崎両市に「臨時戦災救助法」を適用した。しかし現地の惨状を無視して、わずか3ヵ月後の11月には同法を解除して30万被爆者を焦土のなかに野晒しにした。国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってはくれなかったのである。・・・

 天皇の皇弟高松宮を総裁とあおぐ日本赤十字社がすすんで原爆被爆者を見捨てたことが、はっきりとここに書かれている。
 福島菊次郎は、多くの原爆患者と接し、彼らの写真を撮り続け、この不条理の中からABCCが誕生してきたことを知る。そして彼はABCCの内部に潜入する。
 「ABCCは、1948年からの2年間だけでも5592体の人体解剖を実施した。休日なしに稼動しても2台の解剖台で1日7体解剖したことになる。驚くべき数字ではないか」と指摘している。続けて彼は書いている。

 ・・・
 この時期は被爆後5年間に5万人近くの人々が何の手当てを受けることなく放射能障害で次々に死亡していった時期である。戦後の荒廃とインフレのなかで葬式を出す金にも困った遺族の苦境に乗じ、謝礼程度の金で遺体を収奪し、死亡者の約半数を半強制的に解剖したのである。原爆を投下して20数万人を惨殺したうえに、生き残って貧苦と病苦に喘いで亡くなった被爆者まで仮借なく軍事研究の生け貧にした行為は、ナチスのアウシュビッツの残虐行為を超えるものである。・・・

 福島菊次郎は大手出版社の編集部からアメリカ大使館を通して交渉してもらい、簡単な取材許可が下りたのでABCCに行きダーリング所長に面談し内部を視察し、写真を撮る。彼は解剖台まで見る。彼は書いている。

 ・・・
 被爆者が亡くなると黒い喪服を着て花束を持って現れ、「日米友好のために」と慇懃無礼に遺体の提供を強要するABCCの日本人職員の姿がその解剖台の背後に見え隠れして、やり場のない怒りがこみ上げてきた。解剖台に運ばれて毎日流れ作業的に行われている人体実験を想像し、独立国家とは名ばかりで、アメリカの属国であり続ける国民の悲哀と屈辱を噛みしめながら、シャッターを切り続けた。〔中略〕

 しかも、ペンタゴンは放射能障害の死に至る克明なデータを収集研究するために、ABCCに「原爆の徹底的な研究のために被爆者の治療をしてはならない」と禁止した内部通達まで出していたことが2002年に公表され、現在なお約1万8000人が追跡調査対象になっていることもわかった。
 この報道をより衝撃なものにしたのは、ABCCの実態が初めて明らかになったのに、国も反核団体も被爆者も一切反応せず、抗議する姿勢も示さなかったことである。アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国は、もはや「医療行為」でもない、被爆者の遺体を切り刻まれる非人道的行為に抗議する勇気すら失ってしまったのだろうか。・・・


 読者よ、この福島菊次郎の「アメリカに生殺与奪の権を委ね切った国」という怒りの言葉を、私は書き続けてきたのだ。誰がどのように国家の生殺与奪の権を、誰に委ねたのか。その点に焦点を続って私は書いてきた。
 原爆はどうして、広島と長崎に落ちたのか? その問いもこの点にあるのである。日本という国はスキャンダラスな国である。そのスキャンダラスな体制を隠蔽し続ける限り、福島菊次郎が絶叫してやまぬ真実が私たちの心に突き刺さるのである。

「君、スリーマイル(TMI)原発事故のことを知っているか?」
 福島菌次郎は突然、私に問いかけた。
 「君、あのとき(1967年)、アメリカ政府が放射能予防薬5万人分を急遽現地に急送した、という臨時ニュースが流れた。私はそのニュースを聞いてピンときたんだ。広島・長崎で10万人のモルモットから抽出した放射能障害の予防薬と分かったんだ。
 俺は厚生省の役人に言ったんだ。『至急米国政府と交渉しろ。予防薬をとりよせろ』。そいつは何と言ったと思うか。『国立予防医学研究所だ』というんだ。
 俺はな、被核団体、被爆者団体、そしてマスコミまで回って説いたんだ。
 『てめえら命がおしくねえのか』と怒鳴ったんだ。
 いいか、君、ABCCで抽出された薬はガンや発育障害を予防する薬として広くアメリカで売られているんだ。チェルノブイリ原発事故のときにも使われたんだ・・」

 福島は現在86歳。ガンの手術を3回もして痩せ細っている。体重36キロ。アパートの1室で、広島で被爆した朝鮮人の悲劇を書き続けている。視力もおとろえている。
 「君、俺は1日1日を生きている。この本を書き終えるまでは死ねないんだ。・・また来い。ドアは開けて待っているからな」

 日本人には、たまには、ごくたまには、福島菊次郎のように、会いたくてたまらない人物がいる。狭いアパートの一隅に自らが制作したという棺桶が立てられていた。

 ★迫りくる恐怖、生き抜いた原爆患者たち    <了>

  続く。

 




●原爆投下(11)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★国際赤十字社、もうひとつの顔 


 私はここで1つの事実を指摘しておきたい。今まで書いてきたようにジュノー博士は聖者である。これは真実ではあるが、国際赤十字社が別の面を持っていることも真実なのだ。
 敗戦直前の8月8日、東郷茂徳外相は国際赤十字社との最終合意に達した。天皇の資産をスイスの銀行が最終的に受け入れたのは、この国際赤十字社の尽力によった。また、太平洋戦争中、陸軍の配下の昭和通商という会社の依頼を受けて、赤十字のマークをつけた病院船がアメリカの密貿易船と交易をしていたのである。私たちは、アメリカと日本が戦争をしていたから、アメリカと日本の貿易は完全に止まっていたと思っている。ここにも赤十字が深くからんでくるのである。

 大佐古は、ここで終戦の年にSCAP(連合軍最高司令官)の下の公衆衛生福祉局で働く、アメリカ赤十字社のセックスミス女史による日赤本社での数々の暴挙について触れているが、ここでは省略したい。大佐古はビベール氏に次のように言っている。

 ・・・
「ジュノー代表の広島救援が実現しなかったのは、GHQが原爆の破壊能力をソ連に知らせまいとしたからです。彼らは、広島の被爆者が原爆症で毎日のように死んでいくのを知りながら放置していたんです。もし、救援が行われていたなら、少なくとも9月以降の死亡者10万人の生命は助かっていたでしょう」
 「そうでしょうね。これはICRCのオピニオンではありませんが、私には、GHQはICRCを通じて、国際的に救援の手が伸ばされることを嫌っていたように思われますね」
 時計は5時半を過ぎていた。ジュノー博士の広島救援に対する私の疑問は、ビベール氏の誠意のある調査と回答で、今まで分からなかった方程式に根が与えられたかのように、鮮やかに解明された。私はビベール氏に「ジュネーブで予想外の大きな収穫があり、ジュノー博士は予想以上の人だった」ことを伝えて、深甚なる謝意を述べた。・・・

 ここにも、指摘しておかなければならないことがある。大佐古がこの本を書いた1970年には、「GHQが原爆の破壊能力をソ連に知らせまいとしたから」という大佐古の分析も納得できるような国際情勢だった。だが、私は原爆に関するソ連の膨大な資料を調べている。アメリカの政府高官がソ連側にウランに関する資料も、ウランさえも提供し続けた資料も持っている。アメリカとソ連は大戦中も、冷戦中も深く結ばれていたのである。ヒトラーがシェル石油の供給を受けたようにである。日本も、アメリカ船籍を持たぬアメリカの船から石油を買いつけていた。その決済はスイスの国際決済銀行(BIS)で行っていたのである。
 この世に勃発する戦争には、複雑な裏があることを理解しなければ、広島と長崎に原爆が投下された意味を理解しえないのである。ソヴィエトヘの配慮と原爆患者への薬の提供、この間に因果関係は全く存在しない。
 『ドクター・ジュノーの戦い』の中で、ジュノー博士がマッカーサーと最後の会見をする場面をもう1度読んでほしい。マッカーサーとジュノー博士との間に深い友情が生まれたことが分かるのである。では、どうして、GHQがジュノー博士の申し出を拒否したのか。去りゆくジュノー博士に
マッカーサーは、「世界の人々の純粋な声を、もはや武力ではなく、精神の名において結集できるのは一体誰なのか」とジュノー博士に訴えるのである。
「恐らく赤十字かも知れない・・」
 私はマッカーサーもジュノー博士も、大いなる武力に敗れたと信じている。
「誰に敗れたのか」、それはアメリカの国に巣食う、原爆を製造した元凶たちにである。
 私はマッカーサーが語った言葉の1部を省略しておいた。ここに書くためである。

・・・赤十字は世界の中で特異な位置を占めている。普遍的な信頼を勝ち得ている。その旗はすべての国民、すべての国家に尊重されている。今やその真価は十分に発揮されるべきである。問題の核心に迫るべきである・・・

 マッカーサーとジュノー博士は協力しあい、問題の核心に迫り、そして敗れたのである。
 ★マッカーサーとジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。この日本赤十字社の総裁は天皇裕仁の弟の高松宮であった。明確にしたい。天皇裕仁と高松宮がこのジュノーとマッカーサーの申し出を断わったのである。
 どうしてか? スティムソンとの約束(「私には確約がある」の発言)が怪しくなったからである。天皇は自分自身の安全が脅かされだしたからである。
 大佐古の2冊の本は、大部分は一致しているが微妙に異なっている。前著(1979年)に比較して後著は明らかに追及のトーンが落ちている。ここでは後著に欠落している部分を記す。

・・・
 ICRCを辞去した私は、東浦氏の車の中でもう1度、ビベール部長の発言の意義を考えた。
 GHQは広島の地獄図絵が世界の国々に知られることを恐れたことはほぼ間違いない。そういえば、ファーレル原爆災害調査団は東京に帰るとすぐ「原爆で死ぬべき者は死んでしまい、原子放射能で苦しんでいる者は皆無である」という公式発表を行なった。また9月19日には、広島と長崎の被爆実態を国際社会から秘匿する目的で、〔日本に与える新聞準則〕を発している。「報道は厳格に真実を守らねばならない」としながらも「占領軍に対して破壊的な批判を加えたり、不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」と言い、連合軍の動静についても公表されぬかぎり「記述や論議してはならない」と厳命した。その結果、新聞、ラジオをはじめ出版を含む日本の言論界は原爆の報道、論評を一切タブーとしなければならなくなったのである。・・・

 この大事な文章が、20年後の本の中ではすっぽり落ちている。何が大佐古にあったのかは分からない。この文章にも注釈が必要である。原爆投下をトルーマン大統領、バーンズ国務長官の範囲内で追求しても何も見えてこないと私は書いた。(同様に)マッカーサーの面から、プレスコード(新聞等の報道規制)を見ても真実は見えてこないのである。

 マッカーサーは当時、アメリカ陸軍省の支配下にあったということである。マッカーサーは陸軍長官の命令に従わなければならなかったのである。プレスコードも、そうした規制の中でつくられたのである。従って、ジュノー博士の申し出をマッカーサーは受け入れたが、陸軍省が拒否したと考えなければならない。重要事項は陸軍省に報告され、陸軍長官からの決議を待って処理されたのである。ファレル原爆災害調査団の報告の公式発表は、マッカーサーが遵守しなければならないものとなった。敗戦国の天皇との交渉が行われた。それが大佐古がたびたび書いている「リエゾン・コミッティ」(連絡委員会)である。正式には「終戦連絡事務局」である。
 松本重治の『昭和史への一証言』(2001年)から引用する。

・・・
そのころ、占領軍との交渉の窓口になったのが終戦連絡事務局ですね。
松本: 終戦連絡事務局は、総司令部の機構に応じた日本側の受け入れ態勢ということで、連合国軍の進駐に先立って先方からの要請でつくられたのです。外務省の1角に設けられ、朝海浩一郎(駐米大使など歴任)、萩原徹(駐フランス大使など歴任)ら半分は外務省の人間でした。奥村勝蔵もそこにいました。
 日本政府としては、総司令部の民政局と交渉することが多いのですが、民政局長のホイットニー(少将)、局次長のケーディス(大佐)などがいろいろしゃべることを、マッカーサーの意向、指令ととって、そういうように吹聴されるのを吉田〔茂〕はいやがっていました。・・・

 松本重治が神戸一中の5年生のとき白洲次郎は2年生。神戸一中の同窓生である。松本は同盟通信社で有末精三中将のアメリカ向け謀略放送の仕事に専念していた。その松本を吉田茂の依頼で終戦連絡事務局に誘ったのが白洲次郎である。2人はもっぱら民政局長ホイットニー(マッカーサー司令部のナンバー2)と交渉した。従って、あの日本赤十字社の「原爆被爆者見殺し宣言」も、彼らの交渉の結果に他ならないのである。

 どうして、謀略放送を流し続けた松本重治がアメリカの代理人となって、近衛元首相を自殺(?)に追い込む役割を演じたのかも、この1件の中に見えてくる。有末精三中将はウィロビーのGⅡ(GHQ参謀第2部)に入りこみ、日本人の摘発に乗り出す。大屋中佐は、有末の子分となり果てていく。畑元帥だけは仕方なく巣鴨プリズンに入るが命に別条はなく、シャバに舞い戻ってくる。大型プロジェクトである原爆産業はかくて大繁盛となっていくのである。
 この項の最後に、マッカーサーとの会見の後に、ジュノー博士の次なる文章があるので記しておきたい。

 ・・・
赤十字国際委員会は、戦時中自由に使われたジュネーブの大ホテルに、今や常設されている。赤十字の旗が翻る元のカールトン・ホテルの中では、熱烈な活動が展開されている。アーゾンランの病院で、私が国際委員会の勧誘を初めて受け入れてから、夢にまで見た大きなビルが遂に出現したのだ。
 しかし、ある夜私が帰着したのはモワニ邸であった。・・・

 理想はいつも裏切られるものである。ジュノー博士は書いている。「すべての国、すべての社会で、自分の戦いより、第3の兵士として自らの名誉を重んじる人々が続出することを期待したい」と。彼が広島で、幾度となく都築教授の言葉を引用し続けたのは、兵士は〔第3の兵士となれ!〕という意味ではなかったか。

「心を開かねばならない・・すべてを理解しなければならない・・」

 以下、高松宮宣仁(のぶひと)親王の『高松宮日記』(1997年)からジュノー博士に関係する記録のみを抜粋する。

・・・
〔1945年〕10月25日(木)曇、風
 1830 国際赤十字代表招宴(ジュノー博士。ミス・ストレーラ。ペスタロッチ、アングスト、ビルフィンガー博士、徳川社長、中川、島津、徳川義知、芦田厚生大臣、保科女官長)
 〔同年〕11月15日(木)雨
 950~1200 日赤社 赤十字デー、祈念式、慰霊祭、講演(ジュノー国際赤十字代表ムーア米赤十字代表)
 〔同年〕12月28日(金)晴
 1500 島津副社長(「ジュノー」ヨリ「Ratiion*」 1箱持参。(*米国の軍用携行食糧) 
〔1946年〕4月9日(火)晴
 ジュノー邸、コクテルパーチー(島津邸二立寄ツテユク)、1730~1830。
 〔同年〕4月10日
 1500 ジュノー帰国ニツキ茶会(徳川社長夫妻、中川、島津、義知夫妻、与謝野秀、永田、鈴木*。夕食(島津、義知)
 *鈴木とは鈴木九萬。終戦連絡事務局横浜局長。

 なお、東京に帰ったジュノー博士に広島で同行した医師の松永勝は4回上京し、ジュノー博士に会っている。松永勝医師は広島の窮状をジュノー博士に訴え続けたのである。しかし、原爆被優者を日本赤十字社は裏切ったのである。
 広島と長崎の被爆者に、「お前たちはくたばってしまえ」と言った人々に対して、読者よ、拳を握りしめて、天誅を加えよ。それらの人々は、この高松宮の日記の中にも、日記の外にもいるのである。

 『入江相政日記(第3巻)』昭和21年1月25日の項に、ジュノーの天皇謁見の場が書かれている。入江相政は当時侍従であった。

 1月25日(金)暖 6、50
 昨夜から今朝にかけて何と暖かいことか、今朝などは曇ってゐるがまるで春霞のやうだ。令子は元気に出かけて行く。歩いて出勤。入浴。理髪。赤十字極東代表ジュノー謁見。午后1時泰宮、盛厚王、照宮御参。〔以下略〕

この入江相政日記にはジュノーについての注解が附記されている。

 ・・・ジュノー=マルセル・ジュノー。スイス人の医者。赤十字代表として日本の捕虜収容所の状況視察のためシベリア経由で終戦直前の8月9日、日本についたが、広島原爆のことを聞き9月8日広島に入り被爆状況を調べるかたわら治療に当たり、世界に救援を訴えた。のち赤十字国際委副委員長。36年没。

  ★国際赤十字社、もうひとつの顔   <了>

  続く。
 



●原爆投下(10)
 ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★ドクター・ジュノーの懸命なる闘い  


 私は前項の中で、日本政府が「ポツダム宣言の条件につき受諾を申し入れる一方、スイス政府を通じ原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛ての抗議文を提出した」と書いた。
 国内では8月15日までは新型爆弾としか新聞に書かせなかった国家が、スイス政府を通じ、「原爆使用は国際法違反である」とアメリカ政府に通達したのは、御前会議が大きく混乱し、天皇の裁断を得たうえでの妥協的なる措置であったのかもしれない。この後、終戦の詔書で天皇が原爆について触れるが、国家として、原爆の道義性を触れることはなくなっていく。

 このスイス政府を通じての「原爆使用は国際法違反である」が海外で大きな反響を呼ぶのである。しかし、このことも日本国民は一切知らされることはなかった。その1例は「日本に対する原爆攻撃は、残虐非常な殺人」(8月10日付、イヴニング・スター紙)である。
 中島竜美の雑誌論文「〈ヒロシマ〉その翳りは深く 被爆国政府の責任の原点を衝く」(1985年)から引用する。ドクター・マルセル・ジュノーが描かれている。私がこのジュノー博士を知るようになったのは中島のこの評論を読んだのが最初である。

 ・・・日本国内では戦争終結など思いもよらず、人びとは新型爆弾へのいいしれぬ恐怖心をつのらせていたころ、短波放送で世界のニュースをキャッチしていた人たちがいた。日本在住の数少ない外国人グループがそれである。
 8月10日夕刻、焼野原の東京をたって軽井沢に向かう1台の自動車があった。
 赤十宇国際委具会駐日主席代表マルセル・ジュノー博士を迎えた日本派遣員の人たちだ。ジュノー博士は、捕虜の身体保全と傷病兵の救護を目的として、戦火の旧満州・新京(現在の長春)を日本軍機で脱出、前日羽田に着いたばかりであった。
 翌朝、静かな森の中の日本家屋で目を覚ましたジュノー博士は、日本のお手伝いさんから1通の電文を手渡された。派遣員の秘書の1人カムラー氏からである。
 「親愛なるジュノー博士、BBCは今夜(注:8月10日)、日本のポツダム宣言受諾を報じました。遂に平和が来ました。人びとはトラファルガー広場で踊っています」(『ドクター・ジュノーの戦い』マルセル・ジュノー著、丸山幹正訳)
 ジュノー博士はこのときまで、日本への原爆投下について何も知らなかったが、その後かかわりをもつようになる広島での動きは、また後で述べるとして、米軍が「8月10日をもって事実上の戦争終結」としている、もう1つの証拠を紹介しよう。
 それは、アメリカの原爆製造を担ってきた、マンハッタン計画の動きである。大統領直属のマンハッタン管区代表・グローブズ少将が、そのころテニヤンで原爆投下部隊の指揮をとっていた副官のファーレル准将に、原爆兵器の効果を調べるための調査団結成を命じたのが8月10日(現地時間)であった。
 その後、〔マンハッタン管区調査団〕は、ファーレル准将以下50人からのメンバーで結成され、日本上陸の機会をうかがうことになる。この調査団は、後につくられる米太平洋陸軍軍医団や、米海軍技術団、および米戦略爆撃調査団等調査グループの先達として、占領下の日本政府と接触していくのである。・・・

 日本は8月15日を一応終戦(敗戦)とする。しかし、欧米では、日本が無条件降伏を受諾した8月10日を終戦とするのが普通のようである。すでに8月10日に、アメリカの日本に対する終戦工作が始まる。そのとき、日本政府がスイス政府を通じて「アメリカの原爆投下は国際法違反」という電報をアメリカ政府に打電したことが、マンハッタン管区調査団の派遣となったのである。ファレルの調査団が「広島と長崎に残留敗射はなし」の結論を出したのは、原爆投下による世界中の世論を抑えるためであった。日本政府は沈黙を守るようになっていく。
 マルセル・ジュノー『ドクター・ジュノーの戦い』(1991年。スイスでの原書出版は1947年)から引用する。

 ・・・
 広島と長崎に2発の原子爆弾が投下されてから3週間が過ぎていたが、破壊された街と数知れぬ犠牲者の運命について、事実上まだ何もわかっていなかった。アメリカのラジオ放送は、この新兵器の準備とその途方もない威力について大々的に報じていたが、原子爆弾の破壊作用についての情報は恐ろしい予言の他何もなかった。
 「70年間、市街は放射能で汚染され、すべての生きものは生存不可能であろう」・・・

 この予言ないし風聞は、長崎よりも広島で広く流布していく。この予言を打ち消すべく、ファレル准将やローレンス記者が論陣をはるのである。続けて彼の本を読んでみよう。

 ・・・
 アメリカのジャーナリストが1人、飛行機で広島に近づき取材に成功したのを私は知っていたが、彼の報告は直ちに発禁処分を受けた。爆弾炸裂後、米軍偵察機が何度も街の上空を飛んでいたが、その恐るべき破壊力のデータは、軍上層部と科学者の手中にあった。
 日本も他の理由から、彼らに敗北をもたらした大破壊については、全く沈黙を守っていた。東京の新聞は、人々を降伏に備えさせるため、数日間原爆の破壊力について大きく報道していたが、それが一切禁止された後は、大破局の実際の規模についての正確な報告は全くなされていなかった。・・・

 この間の状況も1部書いた。8月23日付の読売新聞は「死傷19万を超ゆ、広島・長崎の原子爆弾の残虐」との題で、広島と長崎の真相に迫る記事を載せている。
日本の言論機関がアメリカの原爆を非難し続けたのは1ヵ月にも満たない。9月15日付の朝日新聞は、当時新党結成に動いていた鳩山一郎に1問1答をし、発禁処分となった。
 「・・・〔正義な力なり〕を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。極力米人をして羅災他の惨状を視察せしめ、彼ら自身、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること、日本の独力だけでは断じて復興の見通しがつかぬ事実を素直に披瀝し、日本の民主主義復興、国際貿易加入が米国の利益・世界の福祉と相反せぬ事実を認職せしむることに努力の根幹を置き、あくまで彼をして日本復興に積極的協力を行わしむるごとく力を致さねばならぬ」

 まさに正論である。これはプレス・コードの出る前である。敗者の正論は勝者にとっては常に脅威となる。鳩山一郎は公職追放され、あのヨハンセン・グループの醜怪なる人物の吉田茂が首相になっていく。吉田は戦前から戦後、そして生涯にわたってアメリカの原爆投下を陰から支援し続けたからである。
 ジュノー博士の本をさらに読み続けよう。

 ・・・
 広島の住民にとって、この突然の惨劇が何を意味するか我々にわかり始めたのは、日本の津々浦々に広まって行った人々の口承による情報からであった。我々の秘書の1人でノハラという二世の日本人が、時々我々に日本人の間でどんな話が交わされているかあらまし語ってくれた。多くの避難者が家族のもとへ逃れている。彼らの情報は信じられない程悲惨である-穏やかな空から突如として日もくらむ閃光が放たれ、地震などとは比較にならない程超現実的な現象が起きた。それは熱風と烈火の台風ともいうべきで、突如として地表を一掃したかと思うと後に火の海を残した。
 誰も死者の数を知らなかった。5万だという者もいるし、20万だと主張する者もいる。負傷者の数もそれと同数だという。負傷を免れたかに見える人々も、突然奇妙で不可解な症状を呈し、毎日数千人が死亡している。・・・

 ジュノー博士は、「9月1日になって始めて外務省は私に、原爆作裂後の広島の写真数枚を見せた」と書いている。「・・烈火に打ちのめされハンセン氏病の如き生存者の唇からまだ死の絶叫が聞えてくる」とジュノー博士は書いている。続けて読んでみよう。

  ・・・
9月2日午前8時、日本の警官が、まだ東京の検閲査証が押されていない電報の写しを、我々の鳥居坂の別荘に持って来た。ビルフィンガーが8月30日広島に到着し、次のような報告を送って来たのである-
 「・・恐るべき惨状・・町の90%壊滅・・全病院は倒壊又は大損害を被る。仮設2病院視察、惨状は筆舌に尽し難し・・爆弾の威力は凄絶不可思議也・・回復したかに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す・・
10万人以上の負傷者が未だ市周辺の仮設病院にあって器材・包帯・医薬品の完全な欠乏状態にあり・・連合軍上層部からの特命を重大要求として求め、直ちに街の中心部に救援の落下傘を投下するよう要請されたし・・緊急用品次の如し、大量の包帯・綿・火傷用軟膏・スルファミド・血漿及び輸血用器材・・緊急行動を要す・・」

 ジュノー博士はこの電文を手にして、マッカーサーがいた横浜商工会議所に出向いていく。フィッチ将軍たちに面会する。4人の将官が協議し、「これをお借りします。マッカーサー将軍に見せたいのです」とジュノー博士に言った。続けて読むことにしよう。

 ・・・その5日後の9月7日、私はサムズ大佐の呼び出しを受けて再び横浜に行った。
 「米軍が直接救援活動を組織することは出来ません」彼が言った。「しかしマッカーサー将軍は、15トンの医薬品と医療器材をあなたに提供することに同意しました。その分配方法については、赤十字の管理と責任に委ねます」
 そして最後につけ加えた。
 「調査委員会は明日広島に発ちます。その飛行機にあなたの座席を用意してあります」・・・

 ジュノー博士は9月8日、ニューマン将軍、ウィルソン大佐、それに原爆製造の技術者の1人、物理学者モリソンと同乗した。広島から25キロ離れた岩国に着陸した。「他の5機も近くに整列した。すぐに15トンの医療品が降ろされた。私はその管理を、日本人の海軍大佐に委ねた」とジュノー博士は書いている。ジュノー博士一行は宮島に宿泊する。
 続けて読んでみよう。

 ・・・日本の学者が2人我々に加わった-医師の本橋博士と東京帝国大学の最も主要外科医の1人都築正男教授である。
 都築教授は、きらきらと光る知性的な眼をした熱血漢であった。彼は英語を話し、彼の考えはしばしば短い激烈ともいえる言葉で表現され、それに身振りが加わって強調された。
 「広島・・ひどいもんだ・・私にはわかっていた。22年も前に・・」 ・・・


 『ドクター・ジュノーの戦い』の「訳者あとがき」には都築教授についての説明が付されている。「原爆投下の22年も前に行われた都築正男博士のウサギを用いた先駆的実験が、学問的にはデトロイトで学会報告がなされていたにも拘わらず、国家権力によっては、その学問的成果が人道的に全く生かされえなかった事実を、今日の国家の指導者も強く反省すべきである。この都築博士の実験報告こそは、アメリカの原爆投下が国際法違反であるという立場に、充分な論拠を与えるものである」
 都築教授は8月29日に、陸軍軍医学校、理化学研究所らのメンバーとともに広島に向かった。陸軍病院・宇品分院に救護所を開設、軍人軍属中心の被爆者医療と併せて、研究調査機関として体制を整えていった。

 ジュノー博士の本を読み続けてみよう。広島が描かれている。9月9日早朝-2人の日本人通訳がついた。1人はカナダ生まれの伊藤嬢、もう1人はアメリカ生活20年のジャーナリストであった。伊藤嬢とジャーナリストは広島の惨状を訴え続ける。ここでは省略する。

 都築教授は我々を先導しながら、皆に聞こえるよう大声で話した。激しい興奮のため、言葉はとぎれた。
 「心を開かねばならない・・すべてを理解しなければ・・」
 彼は壁の残骸を示したが、それは地面すれすれに15乃至20メートルも続いていた。
 「諸君、ここは病院のあった所です・・ベッド数2百・・医師8入・・看護婦20人・・患者もろとも全滅です・・まあいい! 構うことはない! ・・原爆めが!」
 時々私には言葉の終わりしか聞き取れなかった。
 「心を開いて・・言う事はたくさんあります・・次に移りましょう・・」
 [ここでは銀行が半壊しています。原爆投下後2日して他の街から行員が来て、その夜、金属のレールに掛った絹のカーテンの部屋で泊まったのです。2人とも貧血で倒れました」
 アメリカ人の物理学者たちがノートを取り、放射能が消えたことを確認するため、検出器を設置している間、都築博士は医師を連れて病院を回った。そこでは恐るべき惨状が我々を待っていた。・・・

 この「アメリカの物理学者」たちが、マンハッタン管区調査団のメンバーである。ジュノー博士は「放射能が消えたことを確認するため」と、見事に彼らの隠謀を暴いている。彼らの調査書が公式のアメリカ政府の報告書となっていくのである。彼らはマッカーサーには内密に広島に入ったのである。
 マッカーサーの承諾した調査団は、司令部軍部医務顧問A・オーターソン軍医大佐の提出した上申書にもとづき、米軍紀司令部軍医総監B・デェット准将による調査団であり、彼らとジュノーは一緒の飛行機で広島へ向かったのである。マッカーサーは、原爆被害の調査を調査団に令じていた。彼は真相を知るうとしていた。そして薬品や用具を飛行機五根分ち送りつけていたのである。
 ジュノー博士の心の叫びが聞こえてくる文章が続いている。

 ・・・最初に訪れた仮設病院は、半壊した校舎の内に設置されていた。地面に80人の負傷者が横たわっていたが、彼らを雨や夜の冷気から守るものは何もなかった。蝿が何匹となく群をなしてむき出しの傷口にたかっていた。薬のびんが数個棚の上に散らばっていた。包帯は粗末な布で代用していた。5、6人の看護婦に出来る手当てはこれだけであったが、それには、20人余りの12才から15才位の少女が協力していた。
 都築教授は、血だらけの人々の前で身をかがめた。彼は意識の朦朧とした婦人を示したが、顔は熱波に打たれて焼けただれていた。
「血液感染だ・・白血球がほとんど消滅している・・ガンマー線だ・・防ぎようもない・・今晩か明日死ぬだろう・・原爆めが!」〔中略〕
 彼の声はますます大きくなった。
 「この人々は・・すべて死の宣告を受けた! この人は壊疽性咽頭炎、この人は高度の白血球減少症だ。ほとんどの患者には輸血が不可能だ。血管が破れる・・」
 我々は庭の奥にある小屋に行った。ホルムアルデヒドのガスで目がしみた。都築教授はおおいを取ると、ほとんど炭化した死体が2体横たわっていた。
 「我々は心を開かねばならない!」
 彼の言葉を聞いていると、我々は大実験室にいて、モルモットの代わりに何千もの人間を解剖しているのではないかと錯覚する程であった。解剖された器官や、組織学的切開、臨床的、病理解剖学的実験結果から作成された統計表などを彼が我々に示しだのは、正に彼の情熱的な科学的探究心のゆえであった。
 「顕微鏡で見ると、高度の充血から筋肉萎縮や変質に至るまで、すべての点について観察出来る。死因は白血球減少及び通常の併発症-細菌感染・敗血症などーを伴う高度の再生不良性貧血と思われる」
 都築教授は私の方を向いた。彼は広汎な出血の見られる脳髄を手にすると、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言った。
 「昨日はウサギだった・・今日は日本人だ・・」

 調査委員会は原爆の破壊調査を継続するため長崎に向かった。私は運んで来た医薬品の分配を指揮するため広島に残った。
 私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た。
 崩れかかった駅の正面には、大時計の針が爆裂によって8時15分を示したまま止まっていた。

 新時代の到来が時計の上に記録されたのは、人類史上これが初めてであった。
 この証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか・・・

 ここで、広島でのジュノー博士のルポは終わっている。彼は、アメリカの捕虜を本国に送還させたこと、彼の友人のヴィッシャー博士夫婦がボルネオで殺害されたこと・・を書くが、広島・長崎のことには一切触れていない。
 「我々の飛行機が羽田飛行場に着陸してから4ヵ月が経過し、日本における私の任務も終わりに近づいた」と書く。そしてまた、「私が東京を発つ数日前の感謝祭の日の朝、対外関係を担当しているアメリカの将校ベイカー陸軍代将が私に、マッカーサー将軍が国際赤十字派遣団を歓迎したい意向であると伝えた」と書いている。では、マッカーサーがジュノーたち国際赤十字派遣団を迎えて語った言葉を、ジュノーの本から引用する。

 ・・・
 「人命と人血の至高の価値が忘れられている。しかも人の尊厳までも」
 「武力は人間の問題の解決にはなり得ない。武力は無力である。それは最後の極め手にはなり得ない・・私のようなプロの殺戮者がこういうと奇妙でしょうが」
 「現在の武器と、開発中の武器とで、新たに戦争が起これば、価値あるものは何1つ残らないだろう」
 [余りにも多くのものが失われた。肉体の消耗は余りにも大きく、ここ20年か25年は次の大戦は起こり得ないだろう。しかしそれから後はどうなるのか。我々が人類を人類自体から守るため、全力を尽くさなければどうなるのか」
 マッカーサーは仕事のあることを告げに来た将校を、既に2度も追い払っていた。後は20分も話し続けていたが、その声は一層切迫したものとなった。
 「赤十字は控え目すぎる。影に隠れすぎている。その活動は負傷者を救助したり、物質的援助を組織するだけに限定されるべきではない。目的が限定されすぎている。もっと積極的になるべきだ・・」
 そして彼は現実主義者らしく、最後を次のように締めくくった。
 「唯一の問題は、この考えを弁護し、この信条を流布するに足る手段を投入出来るかどうかを算定するだけである・・資金はあるか・・人材はあるかを」・・・

 「あの証拠品を保存するのは、どの博物館であろうか」を最後に、ジュノー博士は広島・長崎の文字さえ書かないのである。何があったのか?
 訳者は「増補販に寄せて」(1991年)の中で、「1978年9月16日、日本の新聞は『ジュノー博士が原爆投下後の広島、長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した』という内容のニュースを社会面トップで報じた。私は訳者あとがきに書いたように、翌年9月にジュネーブ入りした。その時に面会したミシェル・テステュ博士には、この報道の事実関係も質した」と書いている。
 訳者丸山幹正はジュネーブで多くの関係者に会う。しかし、米軍が関与したことを証明するような資料を発見できなかった。
 しかし、この謎に挑んだ大佐古一郎によって、あらぬことが明らかにされるのである。

 ★ドクター・ジュノーの懸命なる闘い  <了> 


 *************

  ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」  


 『ドクター・ジュノーの戦い』の邦訳書の初版は1981年である。私がこれから紹介する、大佐古一郎の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』は1979年に出版されている。前著の出版より2年前である。大佐古は、1912年に広島県に生まれる。中国新聞社論説委員を最後に広島で暮らしていた。
 大佐古は中公新書から『広島昭和二十年』という本(* 1975年8月 264p. - 中公新書 : 404)を出した。その中で「ジュノーの死」を書いた。広島を襲った台風で、ジュノーが宿泊した旅館で死者が出た。そのときにジュノーが死んだと大佐古は信じていた。その大佐古は「松永産婦人科・松永研究所 医学博士 松永勝」と会う。そこで大佐古は広島を襲った台風で死んだのは別人だったことを知る。松永勝こそ、ジュノー博士が「私が東京に帰る日の朝、若い日本人の医師が汽車まで見送りに来た」と書いた、その人であった。
 松永は大佐古にジュノー博士とすごした4日間の出来事を語る。大佐古はそこからジュノー研究に没頭していくのである。
 『ドクター・ジュノー武器なき勇者』(*新潮社1979年)から引用する。松永医師が大佐古に、次のように語ったのである。

 ・・・
 あのとき、私たちは備蓄した薬を使い果たし、1滴のアルコール、食用油を探し回るほど絶望的な状況の中にあった。そこヘジュノーさんは、まるで神の使いのように15トンの医薬品を持って現われました。そうして、外科医として患者を診たり、私たちに放射能障害の治療方法をアドバイスしたり、廃墟にDDTを撒くよう尽力して下さった。お陰で、どれだけの人が三途の川から引き返したでしょう。幾万人の重症者や軽い病人が救われたでしょうか。ところが広島の為政者はもちろん、被爆者にもこの事実はまったくと言っていいほど知られていないんです。せめて広島のジャーナリストにわかってもらいたかった。でもきょうあなたにお話しでき、広島にきた甲斐があったというものです。・・・

 大佐古は松永勝医師から、「回顧談」というノートを見せてもらう。その中の1部を引用する。加藤氏とあるのは通訳である。

 ・・・私はハッとして助手席から後ろを振り向くと、〔ジュノー〕博士の視線は前方の兄姉以外に何もない死の町を見詰めていた。私は被爆以来、どこかに忘れてきたものを眼の前に突きつけられたような気がした。
 この人は、「残酷なカタストロフィ」と言った。カタストロフィとは、文字通り。〔破局〕である。博士は目の前に広がる惨状に〔人類の終焉〕を見ているのだ。
 確かに私たちはいま、途方もなく巨大な暴力に理性まで破壊し尽くされて、虚説と昏迷の世界に捨てられている。博士はその私たちの魂の底にまだかすかに生き続けている人間性を呼び起こし、神をも恐れぬこの悪魔の所業に鋭い怒りを燃やせと説いている。
 加藤氏も同じように感じていたのだろうか、博士への信頼を、形に表わさずにはいられないとでもいうように、氏の周辺の悲惨な被爆体験を次々と話した。

 ジュノー博士は病院、そして救護所を訪れて、患者の診察をし続ける。続けて読んでみようではないか。

 ・・・ジュノー博士は、このような患者の眼球や口腔をあらため、ピンセットを手にして傷口やケロイドを入念に診たうえ、被爆した地点を本人に尋ねた。そして、屋内で被爆し、全身にガラスの破片が突きささっているため隅の壁にすがったままの婦人を発見すると、傍に近づいて行き、やさしく声をかけた。
 「もう少し頑張るんですよ。2、3日中にいい薬がきますからね」
 私が、この方は国際赤十字社からこられたと告げると、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝むような仕草をした。・・・

 私たちは知らねばならない。私たちが苦しいときに、私たちに救いの手をさしのべてくれる人こそが神であり仏であることを。だから、婦人は包帯を巻いた両手を合わせて拝んだのである。私たちをかのとき裏切った、現人神は神でもなければ人でもない。

あの広島でジュノー博士に語った都築教授の言葉を平成の世でも忘れてはならない。
 「我々は心を開かねばならない!」
 心を閉じていれば、何も見えず、悲劇だけが私たちに襲いかかってくる。その瞬間に私たちは、都築教授が、突然しわがれ声で恐ろしい言葉をはき棄てるように言ったとおりとなるのだ。
 「昨日はウサギだった・・今日は日本人だ・・」

  「松永という未知の医師から、とつぜん電話がかかってきたのは、台風の季節がようやく終わろうとしている昭和50年9月下旬の日曜日だった」と、この大佐古の本は始まっている。彼が広島カープの野球中継の放送に耳を傾けていたときである。彼は当時62歳か63歳である。この大佐古は松永という医師に出会い、人生が一変する。どうしてか。ジュノー博士に人間の荘厳さを発見したのである。人間はかくあるべきであるという姿を発見したからである。
 『ドクター・ジュノーの戦い』の中で訳者が「1978年9月16日、日本の新聞は・・」と書いている。大佐古の『ドクター・ジュノー武器なき勇者』の出版は1979年12月10日である。大佐古はこの新聞の記事を読んでいる。私は途中をほとんど全部省略したい。大佐古は、「ジュノー博士が原爆投下後の広島・長崎を救援するため、ヨーロッパ各国で救援活動を組織しようとしたところ、米軍が圧力をかけて、これを阻止した」という不可解な謎を見事に解いたのである。その場面へと読者を案内する。広島カープの放送を聴くのを愉しみとしていた男は情熱の男へと、大変貌を遂げていたのである。
 大佐古はジュノー博士の住んでいたジュネーブを訪れる。そこで、ジュノー博士の1族と会う。この場面も省略する。以下の引用はその後の場面である。

 ・・・
 時計は正午をかなり回っていた。ジュノー氏宅を出た東浦氏と私は、ビベール氏に通訳まで願ったことに厚く礼を述べたあと、4時半に再びICRC〔国際赤十字社本部〕で会うことを約束して別れた。
 約束の時刻に東浦氏と私の2人はICRCに着いた。ビベール氏はオフィスで受話器を耳にしており、甲高い婦人の事務的な声が室内に響いていた。ビベール氏は、ICRC設立以来の記録が収蔵されている地下室と話し合っているようだった。
 受話器を置くとビベール氏は言った。
 「ようやく大佐古さんの主要な2つの質問にお答えできます。古文書課には厖大な記録があり、日本人の名前や医薬品の名称にわれわれがなじめなかったりで意外に手間取りましたが・・」 氏は1枚のコピーを私に渡した。
 「これは1944年9月8日に発信し、10日に着いたものでICRCへ報告された軽井沢の駐日代表部からの現地採用雇用についての8日分給与の明細書です。お尋ねの冨野康治郎氏はこのリストに出ております。氏は遭難する1年前には、事務局長のような役職に就いていたようです、野原と言う日本人職員に次ぐ高い給与を受けています」・・・

 以下は大佐古が1989年に出した『平和の勇者ドクター・ジュノー』から引用する。前掲書と内容は変わらないが理解しやすいと思うからである。大佐古が宮島の台風で死んだと思っていたのは冨野康治郎であることを発見したのである。さて、次に大事なことが書かれている。

 ・・・
 私は、広島の空白の中に埋まっていた謎の遭難者の姿が、やっと印画紙のようなものの上にくっきり浮き出たことに満足した。

 ビベール氏は、次の新しいメモを見ながらゆっくりと言った。
 「それでは、ICRCの広島救援が実現しなかったことについて、ICRCの資料に基づいてお答えしましょう。ジュノー代表はですね、広島県や広島赤十字病院ヘICRCの救援物資を送ることを約束しました。救援物資というのは、病院を再建するプレハブのような鉄骨や窓ガラスとか医薬品、それに食糧品などのことです。彼は東京に帰ると、広島を救援することが急務だとするジュネーブヘの要請文を起草しましたが、その電報を打つことはできませんでした。★GHQがその打電を許可しなかったからです。GHQは『打電の必要はない』と言ったんです。その理由はGHQと日本政府間のリエゾン・コミッティ(連絡委員会)で、★日本側委員が『広島救援の必要はない、我々が独力でやる』と言ったからだというのです。
 ・・このことは、後日ジュノー代表から文書で報告されています。結局、ICRCへの要請電報はこなかったんです。その詳しい資料はいまあなたへ差し上げる訳にはいきませんが、以上のことが言えるのは、私どもがここにある資料から読み取ることができるからです。このような内容のドラフト(草案)は、日本を占領していたGHQが許可しないかぎり、具体化する見込のない状況下にあったのではないでしょうか」・・・


 私はこのビベール氏の言葉を重く受けとめた。「なんたることだ! これは」と思いつつ読んだ。また、あらぬ怒りが心の中でふつふつと燃えだしていた。大佐古も私以上の憤怒の心を持ってビベール氏の話す内容を聞いていたのである。以下の彼の文章にそのことが表れている。

 ・・・
 「その連絡委員会の構成や日本側委員の氏名は分かりませんか?」と私が質すと、ビベール氏は静かに答えた。
 「連絡委員会の内容は、ここでは分かりません」
 私にはその委員の推測はついた。戦争中は軍閥、財閥に迎合して戦争に協力し、敗戦後は事大主義、事なかれ主義の環境の中で、親方を日の丸から星条旗に取り変えて、被爆者の苦しみをよそにぬくぬくと生き伸びた連中だ。ジュノー博士叙勲に当たって、ことさらジュノー博士と広島の関係に目を向けまいとした政治家か外務省の役人たちに違いない。

 やはり、予想していたとおり、GHQは原爆投下後1ヵ月経ってもなお毎日のように死者が出ている広島の地獄図絵を、ICRCを通じて世界中、とくにソ連に知られることを恐れて、打電を妨害したのだ。
彼らはプレスコード(新聞準則)で日本国内の言論、報道を弾圧したばかりでなく、人道と博愛の赤十字活動まで抑圧していたのだ。・・・

  この大佐古の文章には納得しかねる箇所がある。彼は1981年に出た初版本を読んでいない。マッカーサーとジュノー博士の交流の深さを知らない。GHQはたしかに打電を妨害した。しかし、これは間違いなく、アメリカ政府の命令に応じただけである。アメリカ政府の代表は誰だか説明しないが、ファレル准将の可能性が高い。彼が日本側の誰かに、ジュノー博士の打電を取り消すように言ったのである。GHQはアメリカ政府を代表するファレル准将か、その一味のものに対し、NO! と言えなかったのである。
 次に、大佐古自らが驚くようなことが書かれている。

 ・・・

 ジュノー博士がジュネーブヘ打電しようとした広島救援要請のドラフトが、GHQの手で揉み消されたことを明らかにしたビベール氏は、さらに言葉を続けた。
「広島救援の必要がないと言ったのはリエゾン・コミッティ(連絡委員会)だけでなく、★日赤でも『そのようなものをもらっても仕様がない』と言っています。・・それは誰が言ったのかは分かりませんが」

 「えっ、なんですと・・」
 私は耳を疑った。
 GHQの言うことに迎合して事なかれ主義に終始した政府の役人はさておいて、人間を苦痛や死から守り、敵対意識のもっとも激しい戦場でも、敵も味方もなく傷病兵を同じ人間として取り扱う最高の善心の持ち主である日赤が、よもやそのようなことを言ったとは考えられない。
 「そんな馬鹿なことはないと思います。それはGHQのデッチあげでしょう。あなたはそれを事実として受け取られますか?」
 「ただ、ジュノー博士のレポートに、そのようなものがあるということをお伝えしただけです」とビベール氏は冷静に言った。

  ★「昨日はウサギだった、今日は日本人だ」  <了>

  続く。 




●原爆投下(9)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ●日本政府も認めた公式見解「広島・長崎に放射能なし」  


朝日新聞(1945年8月12日付)に次なる記事が出た。

 ・・・
1、8月9日午前11時頃敵大型機2機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。
2、詳細は目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込。・・・

 この記事は「西部軍管区司令部」の発表である。西部軍管区司令部は広島の第二総軍の指示によって出したのである。彼らは、あくまでも真実を隠そうとし続けた。
 仁科芳雄は広島原爆投下後の8月6日、広島に入り、原子物理学の面からの調査をした。この件については簡単に記述した。ここでは、彼が雑誌『世界』1946年3月号)に寄稿した「原子爆弾」から、長崎について書かれた文章を引用する。

 ・・・
長崎の場合
 広島に数日間居って8月13日に飛行機で長崎に向った。長崎には半日滞在したばかりであるが、上空から見た様相は広島と同様であった。
 長崎の被害は広島と大体は似てゐるが、後述の様に両者の爆弾は異なってゐてアメリカ側の報道によると長崎の方が2、3倍強いといふことである。実際その通りで少し注意するとすぐその差が解る。例へば煙突も広島ではあまり倒れてゐないが長崎では爆心附近では残ってゐるのが少い。火災について云へば長崎では中心が少し焼けてゐるだけで広島ほど広範囲ではない。又中心附近の家や瓦の破片が、長崎の方が余程小さい。これは恐らく爆風が強かったからであろう。長崎の威力の強かったことは、瓦などの溶けてゐる範囲が、広島の場合よりも1.6倍も爆心から遠くまで及んでゐることからも判る。これ程威力が強いのに長崎で死傷者数が少なかったのは、地形の関係である。長崎は長い町で両側は丘陵であるため被害範囲が狭かった。その上爆発の中心が町の北の方に寄ってゐた結果、広島ほどの害を受けなかったのである。ただ妙なことに人の骨の放射性は長崎の方が弱い。これはどういふわけか更に検討を要することである。
 植物に対する影響も長崎の方が顕著である。これは長崎には爆心に近い植物が丘陵に沢山あって、観察に都合がよかった為でもあるが、ともかく植物学上興味ある結果を示してゐるやうである。これは妊婦に対する影響と同様に今後長期間に互る調査が必要であらう。
 爆弾投下の状況も広島と大同小異で、矢張3機のB29で北方から来てゐる。その高度もやはり9000米附近で、警戒警報解除後に来たことも広島同様である。
 爆発した点の高度は少し低く約500米で、被害半径は爆弾の強度が強いので長崎の方が大きい。・・・

 仁科芳雄が書いているように、長崎に落ちた原爆のほうが強力であった。
 しかし、アメリカ軍は、あえて長崎の中心街をはずし、北方の三菱兵器工場と日本のカトリックの総本山ともいうべき浦上地区を目標に原爆を投下した。
 私は三菱兵器工場を中心に原爆投下の原因を追求したが、後半では浦上天主堂に的を絞って、「なぜ長崎か?」を追求してみようと思う。

 長崎の原爆による死者は広島に比較して少ないとはいえる。しかし、長崎市原爆資料保存委員会は独自の検討の結果、1950年7月に、死亡者7万3884人、重軽傷者7万4909人と推計した。決して少ない数字ではない。アメリカ軍は「都市から去れ」のビラを撒いた。あえて、市街の中心地をさけて北方に落とした。それでもこの死者と被爆者の数である。私が幾度も幾度も書いてきたように、広島の投下後ただちに日本は無条件降伏すればよかったのである・・せめて・・。
 しかし、私は姉妹書の「国外篇」でこう書いた。

 「原爆は、2種類がつくられた。その1つはウラン爆弾であった。それは威力が小さかった。もう1つのプルトニウム爆弾は威力が強かった。どうしても両方を落とさないと、アメリカは、ロックフェラーとモルガンに申し訳ない事態に陥ることになる。それが、広島と長崎への原爆投下の理由であった」

 「国外篇」に書いたことが現実化された。そのためには、落とされる側の全面的協力が必要なのは自明の理である。日本人は半世紀以上すぎても、この自明の理を理解しえていないのである。第二総軍の創設も、長崎港にいた1000人ものアメリカ人の捕虜が、あの瞬間だけ姿を消すのも、すべて自明の理なのである。少し余分に書くならば、あの摩訶不思議で信じられない真珠湾攻撃も原爆を誘導するためにとられた1つの出来事と知れば、自明の理となるのである。巨大産業誕生の背景にはいつも戦争があったことを知れば、すべては納得がいくのである。
 だが、納得しえぬ条理がある。それは、日本全土が1部の都市を除き、不条理の空襲を受け、数百万人という犠牲者を出したことである。
 『米軍資料 原爆投下の経緯』の中にある「ファレル准将の覚え書き」を引用する。

・・・
長崎の予備調査は、広島の場合よりも一層驚くべき結果を示した。爆風は遥かに強力であった。半径2000フィート(600m)以内の重構造の工業建築物、ガスタンク、多くの鉄筋コンクリートの建造物の破壊は遙かに強い力が働いたことを示していた。爆風と火による大製鋼所の破壊、爆風のみによる魚雷工場の破壊は、爆発時に巨大なエネルギーが放出されたことの著しい証拠であった。全ての場合に、鉄骨や建物は爆発点から反対側に押しやられていた。労働者の住居がずっと遠くまで破壊されていることは、爆風のエネルギーが広島の2倍あったことを示した。・・・

 この「ファレル准将の覚え書き」には、とても言じられないことが書かれている。その部分だけを列記する。

・・・日本の公式報告は、爆発後に外部から爆心地に入った者で発病した者はいないと述べている。
 予備調査の日以来、われわれの医学的および科学的要員は、放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった。・・・

 このファレル准将の報告書のこの2点が中心となり、アメリカは広島と長崎に残留放射能はなく、原爆投下以降の死者と放射能汚染は無関係とする立場を取るようになる。次章では、このファレル報告書がもたらした点に触れる。ファレルの報告書の中には次なる1文が入っている。

・・・
ロバート・R・ファーマン少佐は、原子関係の分野における日本人の知識、活動および資源に関する情報の収集を担当した班の長であった。私が日本を離れた時点で、彼の調査は進捗し、日本人が原子の分野では僅かな進歩をしたかあるいは全然進歩しなかったこと、また彼らの資源は、鉱石およびその他の物質において、極端に微々たるものであったことを結論するに充分であった。・・・

 この文章は日本の原爆製造の調査報告書ともいうべきものである。ファレルたちは日本の原爆製造にいたる過程も調査した。その結論のみがここに書かれている。私が書いたように、日本の原爆製造でアメリカ側に役に立った情報は、理論物理学者湯川秀樹の「核分裂によるエネルギーの計算」のみであった。だから湯川秀樹はシカゴ大学のコンプトン研究所のために尽力したのである。

 長崎原爆で忘れてならないのは、長崎医科大学の潰滅である。長崎医科大学は戦前、西日本唯一の総合医科大学であった。
 かつて長崎大学教授を務めた小路俊彦は『長崎医科大学潰滅の日』(1995年)の中で次のように書いている。

 ・・・
 基礎キャンパスの惨劇
 出席学生全員死亡の5教室
生理学講堂では清原寛一教授(長崎医大卒、40歳)により学部1年生に講義が行われていた。講義が始まって間もなくB29らしい大型機の異常に高い爆音に引き続いて「ピカッ」と眼もくらむ閃光が教室内を走った。つぎの瞬間すさまじい爆風とともに木造の講堂は一瞬にして倒壊、さらに熱線のため炎を上げて燃え出した。何か起こったかも分からぬまま多数の学生は圧死か熱線による火災で焼死した。後に判明したところでは33名の学生は倒壊炎上する教室から何とか説出していた。もちろんガラス破片創、打撲傷、骨折、熱傷(以下火傷と表現する)を受けた重傷者が大部分だが、なかには傷1つなく、途中で拾った自転車に乗って下宿に帰りついた学生もいた。
 しかし、1の矢の爆風、2の矢の火傷を逃れた幸運な学生たちには、急性放射線障害(以下急性原爆症と略す)というとどめの3の矢が待ちかまえていた。33名中21名は、被爆後1週目の16日までに死亡しているが、その症状は汗の出ない高熱、嘔吐、下痢、血便、のどや舌の腫れ、紫斑、急激な衰弱、意識混濁などである。なかには最後まで意識がはっきりしており、母や家族の名前を繰り返し呼んで息絶えた者もいたという。

 結局33名全員が死亡したが、死亡日時不明の8名を除きすべて被爆後2週間以内であった。当日、生理学講義出席者数は記録も焼失して不明だが、生存者の届出はなく、原爆死亡73名の数字がそのまま出席者数とみなされる。すなわち死亡率は100パーセントである。・・・

 この基礎キャンパスは4教室あり、410名の生徒が講義を受けていた。その生徒全員が被爆死したのである。これを見ても、この原爆のすごさが理解できよう。
 この本に「遺族の手記から」が載っている。その中に、土橋弘基(医専1年生)の父、土橋清英の手記の1部を引用する。

 ・・・
 やっと学校裏手の丘で、神の慈悲により、弘基の哀れな姿に遭遇することが出来ました。眼鏡も帽子もありません。ただ破れたボロボロの被服をまとっているのみです。歩行も不自由な程衰弱していましたから、援護して10日後、愛宕町の自宅に収容する事が出来ました。
 本人の話によれば、階段教室で授業中、原爆の閃光と同時に建物が潰れ、全員がその下敷となって、一瞬その場は阿鼻叫喚の修羅場と化し、断末魔の唸り声が聞こえた。けれどもその後は人事不省に陥り、一切記憶はない。夕刻近く覚醒したので、全力をふり絞って頭上の障害物を押しのけ、同僚4人が脱出に成功した。しかし一帯は火の海で帰宅することも叶わず、すでに日没後で山伝いに帰ることも出来ないので、止むなく4人で裏山で1夜を明かすことにした。非常な渇きを覚え、空腹を訴えたが、勿論給水も食糧もなく、仕方なく附近の畑にあった南瓜を生食して、飢を凌いだといっておりました。
 自宅では家族全員で看護に努めましたが、原爆症でしょうか、飲食物は嘔吐を催して受け付けません。日々衰弱の一途をたどり、1週間目の8月16日、家族の見守る中に永眠教しました。
 本人は中学卒業後文科系に進むことを志望していましたが、医学は長崎が発祥の地であり、医科に入学すれば自宅から通学も出来て安心だからと私が勧めた所、親思いの素直な弘基は私の意見を受入れて、長崎医専に入学した次第であります。文科系に進んでいれば原爆死を免れていたのに、私がそれを拒否して医科にやったばかりに死んだのです。弘基は私が殺したようなもので、誠に申訳ないと思い、毎月16日(死亡の日)には必ず香を焚き灯明を点じて謝罪を続けています。この精神的悩みは、私の生ある限り、永く尾を曳き続けることでありましょう。(昭和43年4月『忘れな草』第1号より)・・・


 広島の瀬戸奈々子さんの死とはまた異なる土橋弘基さんの死である。しかし、この死には1つの確実な共通点が存在する。それは国家の殺人による死という点である。土橋弘基さんが講義を受けていた頃、アメリカの捕虜1000名たちは何処かで「神隠し」されていたのである。彼らアメリカ人を救うために数万単位で長崎の人々は、一瞬のうちに、そして後遺症で死んでいったのである。この原爆投下を受け入れて「原爆殺し」を行った連中すべてが戦争終結後に生き延びて、権力と富を独占していくのである。

「弘基さんのお父さん、あなたが弘基さんを殺したのではありません。あなたの、親思いの素直な弘基さんは、『原爆殺し』を仕掛けたアメリカと、『原爆殺し』を受け入れた日本の国家によって殺されたのです」   


  2008年2月20日、私は小路俊彦氏(長崎医大名誉教授)に会った。外国人の捕虜について尋ねた。「私は全く知りません。長崎に外人の捕虜がそんなにいて、被爆したり、死んだのですか」と唖然としていた。長崎でも語られない物語となっているのだ。
 『ナガサキ昭和20年夏』をもう1度引用したい。ジョージ・ウェラーは次のように書いている(日付はない。しかし1945年9月のある日である)。

 ・・・
 広島で助かった医師が次のように話してくれた。
「主たる影響は血流に表れるようです。赤血球と白血球が死ぬと言われていますが、私たちはそうは思いません。死んでしまうのは血小板なのです。血小板って分かりますか?」。
私は知らなかった。「血小板は血流の3番目に重要な成分で、血液を凝固させる作用をします。あそこの男の人を見てください」そう言って紙のように青白い顔をし、壁にもたれているやせた人物を指さした。必死な様子の親族がひざまずいて彼を囲んでいる。「あの人はすでに結核を病んでいて、少し喀血していました。爆心地から400メートルほどのところで被爆し、倒れましたが見かけではけがした様子はありません。ですが、被爆数日後から咳がひどくなり、喀血もひどくなったのです。調べたところ、血小板が死滅していました」。
「何とかできないのですか?」と尋ねると、医師は自分の力不足を謝るように目を伏せ、「何も」と答えた。
 長崎で私が得た最も価値ある知識は、心臓、肺、腎臓、肝臓、胃、各臓器に対する放射線の影響の注意深い分析結果だった。すべての場合において多少の損傷が見られたが、多くの場合、ほとんど原形を保っているのに、患者は取るに足りないかすり傷からの出血が止まらずに死んでいる。・・・

 それから月日が流れるにつれ、彼らの多くが死んでいった。
 泰山弘道は『長崎原爆の記録』の中で、「見よ、この長崎原爆が与えた凄惨さを」のタイトルのもと、患者の写真つきで、死者のことを書きつらねている。まさに地獄絵図さながらである。写真は泰山弘道が自ら撮影したものである。その1例を記す。

 ・・・
 女性(48歳)
 職業 農業
 傷病名 全身爆傷兼破傷風
 8月9日収容す。顔面、前胸部、右肩胛部、左側胸部、右前膊、左右下肢全面は糜爛す。リバノール湿布を行った。
 8月18日に至り破傷風の症状が現れたから、破傷風血清20回を脊髄腔内に注射したが、8月19日午後11時15分重症に陥り、8月20日午前零時15分遂に死亡した。・・・

 私は「ファレル准将の覚え書き」の中の「放射能に関して長崎につき詳細な検討をした。そしてこの地域内のどこにも測定可能な放射能を見出さなかった」という文書の1部を記載した(198頁参照)。しかし、長崎の放射能被害は甚大であった。
 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』(1985年)に長崎について次のように書かれている。



 ・・・原子爆弾の爆発によって生じるアイソトープは約200種類に達し、その大部分は放射性である。長崎西山地区の土壌の分析の結果、ストロンチウム89(半減期52.7日)、バリウム140(半減期17.3日)、ジルコニウム95(半減期65.5日)、ストロンチウム90(半減期27.7年)、セシウム137(半減期30年)、セリウム144(半減期285日)が検出されている。このほか核分裂をまぬがれたプルトニウム239も見出された。・・・

 これは1945年10月3日から7日にかけて実施された調査の結果である。ファレル准将は「広島と長崎に測定可能な放射能なし」と、GHQのマッカーサー司令官とトルーマン大統領に報告書を提出する。日本政府は、このファレル文書を認めるのである。それは、「広島と長崎には原爆患者はいない」との宣言を日本政府がしたことを意味する。スイスの国際赤十字が原爆患者に薬を与えようとするのを★日本赤十字社が拒否するのである。私は次章でこの顛末を書き、彼らを、原爆患者に薬を与えるなと拒否した連中に、たった1人で天誅を下す。


  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ   <了> 


 ****************

  ●第5章 見棄てられた被爆者たち

 ★原爆はどのように報道されたのか  


 日本政府は敗戦(「終戦」ではない)の8月15日まで「原子爆弾」という言葉を用いず、その使用さえ禁止していた。しかし、9日のソ連参戦の後の御前会議で、天皇の裁断で、条件つき(天皇制は護持されるとの条件)でポツダム宣言を受諾した。この間に広島と長崎に原爆は投下されていた。
 日本政府は不思議な行動をとる。スイス、スウェーデン両政府を通じてポツダム宣言を受諾する一方で、スイス政府を通じ、原爆使用は国際法違反であるとする米国政府宛て抗議文を提出、同様の趣旨を赤十字国際委員会にも伝えた。この赤十字国際委員会にアメリカの原爆を非難する抗議文を提出したことが、後に大きな問題となる。

 1945年9月3日、広島にニューヨーク・タイムズなどのアメリカ従軍記者が入った。そして、この米従軍記者団は広島記者団との1問1答に応じている。「・・われわれはヨーロッパ、太平洋の各戦線を従軍したが、都市の被害は広島がもっとも甚大だった」と語っている。
『ナガサキ昭和20年夏』を書いたジョージ・ウェラーは、この広島を視察する記者団には加わらず、密かに鹿児島の鹿屋に入り、そこから汽車を乗り継いで長崎に入る。彼は同書「第1部」の「長崎に1番乗りして(1966年回想)」の中で次のように書いている。

 ・・・「長崎」という文字を目にすると、いつも脳裏に、1945年9月6日のあの街の光景がよみがえる。この日、私は終戦後外部からやってきた最初の欧米市民として長崎市に入った。私以外の報道記者で、当局の指令をかいくぐって広島や長崎に入りこんだ者はまだ誰もいなかった。原子爆弾の効果については、3日のあいだに落とした2発で戦争を終結させた、という圧倒的な事実しか分かっておらず、地上における原子爆弾の威力はどんなものかみんなが知りたがっていた。
 なにしろ、やっとのことでマッカーサー司令部の検閲官、広報係将校、MPの監視の目を逃れたのだ。当時マッカーサーは日本の西部全域について報道陣の立ち入りを禁止していたので、長崎にもぐりこむときには、第2のペリー提督になったような気がしたものだ。自分がいること自体が禁じられている土地、いまや天皇とマッカーサーという、絶大な力を持った2人のミカドのいる土地である。・・・

 この引用文には「訳注」として「著者が長崎入りした時点では旧帝国憲法下の体制は生きていた」と付け加えられている。私は訳者の文章の意味がわからない。旧帝国憲法が新憲法下になろうとも、間違いなく2人のミカドが日本を支配していたのである。
 この『ナガサキ昭和20年夏』の「第7部」は「ウェラー特派員報告の背景 ジョージ・ウェラーの子息、アンソニーの回想(2005年)」である。この中で子息アンソニーは、父ジョージ・ウェラーを回想している。

 ・・・それから20年後、1984年、77歳のとき、ウェラーは次のように書いている。
「『最後の審判の日』のように彼〔マッカーサー〕の怒りが私の上に落ちた。私はすでに、ヤルタ協定はアメリカの恥辱だとした記事を通そうと試みたことがあった。だが長崎のほうがそれよりももっと激しかった・・マッカーサーは4年にわたる『彼の戦い』が、自分の知らないところで計画され、自分の命令なしに投下された2発の爆弾でけりがついてしまった、という事実をねたんでいた。このため、彼は一般市民に対する放射能の影響という人類の得た大切な教訓を、歴史から消し去るか、少なくとも検閲で可能なかぎりうやむやにすることに、最大限努力する決意でいたのだ」・・・

 また、アンソニーは次のようにも書いている。「彼〔マッカーサー〕のまわりには非常に有能なスペシャリストで、しっかりと指令されることをひたすら求めるものと、ごますり、とくに彼の行う検閲と闘うことをあきらめた取材記者が集まった。どのような将軍も彼以上のものを欲するものだが、マッカーサーとほかの将軍との違いは、彼はほしいものを得るために、ためらわず窓ガラスを割った点だった」

 私はW・L・ローレンスの『Oの暁』を姉妹書「国外篇」で紹介した。彼は長崎爆撃のときには、その原爆投下機に同乗し、記事まで書いている。しかし、ここでは一切引用しない。ただ、彼が本の最終部で、原爆讃歌をしているので記すことにする。

・・・結局は、原子力というこの広大な新しい大陸を開発したのは、アメリカの人民である。運命は今まで固く監禁されていた。「宇宙の戸棚」の鍵も、われわれに与えることによって、その責任をわが人民の上においた。そしてアメリカ人民はこの責任に対して誠実を守らなければならないし、またその誠実を守るであろう。われわれは、この大陸をわれわれ自身のために、また全人類のために、潤達な新しい理想郷にまで開発し耕して、かつて見られなかった富裕な健康な、そして幸福な新しい世界をもたらさなければならない。
 しかし、時刻はなお、九時十五分(広島爆撃のとき)であり、なお十二時OT分(長崎原爆のとき)である。もはや日本時間ではない。世界時間である。文明世界の九時十五分である。歴史の砂時計の十二時OT分である。
 私は、このニューヨーク・タイムズの記者で国際金融寡頭勢力の回し者ローレンスの文章を読みつつ、湯川秀樹が、彼ら勢力の金をふんだんに使い、京都会議を主催し、世界連邦思想を広めようとした意味を理解した。
 原爆を日本時間の中でなく、世界時間の、否、歴史の中に位置づけようとするバグウォッシュの会議の意味を理解した。
 1945年9月3日、W・H・ローレンス(W・L・ローレンスとは別人)が従軍記者団を引率してきた。従軍記者たちは、広島にほんの数時間いただけだった。

 9月12日、ニューヨーク・タイムズに、W・H・ローレンスは記事を書いた。広島と長崎は、「文明における新時代発祥の地」となったのである。この〔発祥の地〕をもとにして、恐怖を一方で煽ったのが、湯川秀樹、バートランド・ラッセル、アルバート・アインシュタインらの世界統一連邦政府構想である。
 トルーマン大統領は、新聞・雑誌・放送関係のすべての編集者に対して「内々」の書簡を送った。「原子爆弾の、実戦に関する情報はいかなるものであれ、陸軍省が特別に認めたもの以外は秘密にすべきである-」
 しかし、従軍記者の中でも、ジョージ・ウェラーのように、アメリカ政府の方針に逆らう者がいた。ウェラー同様に逆らった記者の1人がロンドン・エクスプレスの極東通信員ウィルフレッド・バーチェットであった。9月3日、W・H・ローレンス1行が数日間の広島での形ばかりの視察を終えた後、バーチェットは、同盟通信社の長谷川才次外信局長からの連絡を受けた広島支局の中村敏と歌橋淑郎の両記者、それに通訳の伊藤朝子の3人とともに広島を取材した。
 以下は、今堀誠二の『原水爆時代』(1959年)からの引用である。

 ・・・
バーチェットは広島から東京に帰ってから、帝国ホテルでアメリカ占領軍の原爆調査関係者の会議に出席した。
「会議は終りにちかづいていた。しかし、その会議が広島からの私の電報  -原爆の後障害で人びとは死んでいったという-を否定することが主目標であったことはあきらかであった。准将の服装をした科学者が、原爆放射線-私が説明した症状を呈する-の問題はありえない。なぜなら、爆弾は、『残留放射線』の危険をとりのぞくために、相当の高度で爆発させられたからだと説明した」
 なお「准将の服装をした科学者」とはマンハッタン管区調査団長の1人であるトーマス・F・ファーレル准将である。この会議でファーレル准将はバーチェツトが広島で見聞した原爆放射線の後障害をことごとく否定した。「スポークスマンは顔を青くして『君は日本の宣伝の犠牲になったのではないのかね』といって、腰をおろした。おきまりの『サンキュー』で会議は散会となった」とバーチェツトは記している。・・・

 ファレル准将は広島から東京に帰ったときの記者会見でも、残留放射能の存在をすべて否定した。私がたびたび引用した「ファレル准将覚え書き」がグローブス将軍に届けられ、この「覚え書き」がアメリカ政府の公式見解となっていくのである。
 国際金融寡頭勢力の回し者、W・L・ローレンスは9月12日付の、ニューヨーク・タイムズに次なる記事を書いた。

 ・・・
この地球上で最初の原爆爆発の現場であり、新時代の文明の揺藍の地である、ニューメキシコの歴史的実験場は、8月9日の爆発以後も人が死んでいくのは放射能のせいであり、広島に入った人たちは残留放射能のために新しい病気にかかっているとの日本の宣伝に対する効果的返答を与えた。こうした言い分は誤りであると反駁するために、軍はかたく閉ざされていたこの地域をはじめて新聞記者や写真家に開き、記者らは自分自身の目で放射線技師の1団が持ってきた放射線測定器のメーターを読み、原爆計画と深くかかわっている指導的科学者から専門的証言をきいた。・・・

こうしたなかで、9月19日にプレス・コード(言論及び新聞の自由に関する覚書)が出てくる。

 このコードの第3項は「公表されざる連合国軍隊の動静および連合国に対する虚偽の批判または破壊的批判および流言は取り締まるものとす」である。原爆に関する情報は一切報道してはならないということになっていく。

  それはGHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーによる指令であり、なによりもトルーマン大統領の指令であった。スティムソン陸軍長官の意向がこの背後に見えてくる。この広島・長崎に原爆を投下することにより、原爆産業を拡大しようとしていたロックフェラー、モルガン、そして国際金融寡頭勢力にとって、放射能汚染による破爆者たちの死が存在するということは、あってはならなかったのである。彼らはアメリカ政府を動かし、マッカーサーを動かし、ついには日本政府と日本の言論機開への口封じに入るのである。
 この結果は悲惨という言葉以外にないものを生み出していく。国家が「原爆患者は存在しない」と発表するのである。原爆による放射能汚染は広島と長崎には存在せず、従って原爆患者は存在しないから、海外からの患者への薬は要りません、と発表するのである。
 あの広島と長崎で、家を焼かれ、食べるべきものもなく、ましてや薬さえないときに、日本という国家は、彼らを★見殺しにするのである。私は次項でこの国家の犯罪を描き、半世紀以上たった今日において、この国家を殺人罪で告発する。


 ★近くはエイズ薬害訴訟で私(ブロガー)はいやというほど「再現劇」をみせつけられることになった。厚生省(当時)の責任者(郡司)と被害者(川田龍平氏)の対談(ETⅤ特集だったと思う、今ビデオを捜している)ほどグロテスクなものはなかった。対談で郡司は「天皇の戯画」を演じきった。
 これについては、ビデオを再見して後、詳述します。

 ・・・↑と書いたが番組は1999年7月4日放送の「NHKスペシャル」でした。


 長崎の医師・秋月辰一郎が『死の同心円』で書いた文章を再び引用し、告発の理由とする。

・・・
やがて、私はぽつりといった。
 爆弾で、財産も家族も失った君たちに、いま、国家もなくなったのだ。
 ・・・

 国家がなくなってもよい。しかし、なくなったはずの国家が、原爆を落としたアメリカの手先となって、財産も失った者たちに、国際赤十字社が提供しようという薬を、与えないで下さい、という権利があるというのか。
 私がたった1人で、汚れちまった、かの時の、あの天皇を天にいただく国家を告発する理由がここにある。

  ★原爆はどのように報道されたのか   <了>

  続く。 




●原爆投下(8)
 ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★「県庁員幹部二死傷ナシ」は何を意味するか  


 私は『米軍 原爆投下の経緯』の中に出ている「ファレル准将の覚え書き」の中の「宣伝活動」について記述した(「第3章」 133頁参照)。その「宣伝活動」の中に「原子爆弾の記事と写真を載せた日本語新聞のコピーは50万枚を撒布すること」とあるのを書いた。この中に「ラジオ・サイパン(OWI)からは規則正しい間隔で宣伝放送をすることとも書かれていた」とも書いた。この2点は長崎での証言では、私の知る範囲ではなかった。私の勉強不足である。しかし、「人口10万人〔以上〕の日本の47都市に、9日間にわたって1600万枚のリーフレットを投下すること。これらの都市は全人口の40%以上を占めている」というのを知ることができた。
 家永三郎・小田切秀雄・黒古一夫編『日本の原爆記録1』(1991年)の中に、「長崎22人の原爆体験記録」がある。
 以下はその中に収められているものである。

 ・・・あの日あの時 旧三菱兵器製作所・太田実
 7日の新聞は、「広島に新型爆弾を米軍が落した」と簡単に書いていた。
 其の頃、長崎の上空には、毎日午前9時頃大きな風船が飛んでいたが、風の方向を調べる為に飛ばしていると言う事は知っていた。
 日本軍かと思っていたが、新型爆弾に関係があるのではないかと思っていると、7日の15時頃、米軍機がビラをまいて、「皆さん、我が軍は昨6日広島に原子爆弾を落しました。それで、皆さんの親、子、兄、妹、知人など20万人近くもけがをされました。この爆弾は1発でこれだけの力があります。この爆弾が落ちたところは、70年間は草も木も生えません。上空で爆発するので其の力は、直径20キロメートルもあります。皆さん、この次は★8日に長崎に落とす予定です。皆さん今ならばまだ間に合いますから早く戦争を止めるように言って下さい」というようなビラを落してゆきました。・・・

 「翌8日には、原子爆弾は落されず、9日ほっとした気持でいる内に・・」と太田実は、爆心地での惨状を描いている。アメリカ軍はたしかに長崎への原爆投下を予告していた。しかし、日本政府は、広島の原爆投下の報道を厳禁した。太田実の「広島に新型爆弾を米軍が落した」程度のものであった。「ファレル准将の覚え書き」にあるようにラジオ・サイパンからも放送が続けられていた。第二総軍が長崎の軍司令部にこのことを伝えた記録もない。ただ、大本営が8月7日15時30分に次のように発表している。

一、昨6日、広島市はB29少数機の攻撃により、相当数の被害を生じたり。
二、敵は、右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり。

 この程度の発表なのである。
 私は広島の被害は人工的なものであると書いた。その中心にいたのが第二総軍であると書いた。長崎には第二総軍の下に長崎要塞司令部があり、谷本陸軍中将以下、豊島参謀(少佐)、民防主任金子中尉、その他下士官、兵などがたむろしていた。この他に連隊区司令部があり、司令官は松浦少将であった。憲兵隊司令部もあった。隊長は弥富大尉であった。
 彼らが長崎市民に情報を与えたかを私は調査をした。しかし、彼らは知っていながら(知らないとは言わせない)、長崎市民に何1つ情報を与えていないのを却って、私はやっぱりそうか、と思った。彼らのトップは、市民に何1つ原爆投下の情報を与えるなと、第二総軍からの厳命を受けていたのである。
 その証拠の1つがある。前記と同じ、「長崎22人の原爆体験記録」の中の「その日の新聞記者」がその証しとなろう。

「その日の新聞記者」の中で中尾幸治は8月8日の夜に、軍の幹部から、官僚とともに新聞記者として宴会に招かれる。そこでK大尉から説明を受ける。中尾幸治は次のように書いている。

 ・・・その夜、K大尉は「いまついた大本営からの秘密情報」として、この爆弾を「原子爆弾」と説明した。不幸にして化学的に無知である私には、「原子」という語は知っていても、「原子爆弾」という語は初耳だった。そこで、この日本語のいたずらを指摘して、電報受付者のあやまりであり、これは「原子力利用の新兵器」であると主張したが、工学士のK大尉はこれを一蹴して、あくまでも、原子以外の「新化学分子」の発足(ママ)だといきまき、かつは恐怖の情ありありと苦悶した。・・・

 長崎に原爆が落ちるから逃げろ、とアメリカ軍は予告し続ける。日本の天皇がいる大本営は秘密情報としてほんの少数の軍人のみに知らせ、市民たちを無知のままにおく。★私はこれを「原爆殺し」というのである。長崎市民は死なずにすんだのである。
8月8日の夜、宴会の場をもうけたのは、8月5日の夜の広島・偕行社での宴会ともかさなってくる。彼ら軍の幹部は、秘かに、彼らに逃げろ! と言っているのである。官僚や記者たちに恩を売っているのである。
 中屋(尾)幸治は反省をこめて次のように書いている。

 ・・・しかし、新聞は、いずれかの1紙を見れば事足りた。なぜなら、各紙とも大本営報道部提供のニュースで全紙面を埋めているのに過ぎなかったからだ。そしてそのニュースとは、支配者たちが如何にして国民を瞞着(まんちゃく)させるかに苦心した、ねつ造のそれであった。また、それを報道する面にのみ止まらず、これを編集する面においても、支配者の圧力がひどかった-私の例においても-・・・

 私が書いてきたことを、中尾幸治は見事に裏付けてくれている。「支配者たちが如何にして国民を瞞着させるかに苦心した、ねつ造」の最大の虚構が原爆の投下だったのである。「大本営報道部の提供のニュース」には日本の降伏のときまで、何1つ原爆は出てこない。支配者たちは全て知りつくしていたのに、である。支配者たちとは、明確に表現するならば、皇居の地下室に集合していた天皇裕仁とその子分たる参謀たちのことである。彼らはアメリカと密謀していたのである。どうしてそれが分かるのか? それは、戦後、彼らは、彼らのために動いたヨハンセン・グループ、キリスト教のクエーカー・グループとともに東京裁判で、1部の例外を除き、皆が無罪となるからである。

 長崎原爆もまた、広島原爆と同じように、第二総軍の総指揮の下に原爆が落とされたのである。原爆投下のニュースが完全に封殺されただけではない。軍と県が一致して原爆投下を推進していた姿が見えるのである。
 戸田秀『ドキュメント被爆記者』(2001年)を見ることにしよう。

 ・・・当時、長崎県庁では、空襲警報が発令されると知事を本部長、警察部長を副本部長、警察部各課長及び衛生課長を参謀とする「長崎県防衛本部」が組織されることになっていた。この本部は、立山町の旧武徳殿下の山腹に掘られた立派な横穴壕に設けられており、市内の新聞記者たちは、あずき色に緑のラシャを縫いつけた派手な「防衛本部付報道班員」の腕章を付けて、横穴壕の1室に集まりそれぞれ情報の収集に当たっていた。・・・

 では、長崎原爆投下前日の様子を同書に見てみよう。文中の「支局」とは同盟通信社の長崎支局である。

 ・・・翌8日、長崎要塞司令部からの軍用電話で、広島の新型爆弾に関する情報が支局へ入ってきた。
 1、新型爆弾は落下傘をつけており、地上5~6百メートルの上空で一大閃光を放ちさく裂する。
 1、熱線のため露出した人間の皮膚はビランし、木造建築物は粉砕される。
 1、戦訓としては、白色の着衣を着た場合火傷が少ない。横穴壕を至急増築すること。
 これらの予想外の内容に、いまさらのように通信社の記者たちはみな驚いていた。
 午後になると、県の溝越防空課長から、
 「明9日午前11時、防空課長室に集まってもらいたい」
 という電話が入ってきた。新型爆弾に対する戦訓を広く発表したいと言うのである。しかし、佐原たち支局員が一番不審に思ったのは、通信社の方で独自の情報が入らないことであった。・・・

「明9日午前11時、防空課長室に集まってもらいたい」に注目してほしい。この数分後に原爆が落ちるからだ。これは偶然ではありえない。
 松野秀雄の『あの日のナガサキ』(1985年)には次のように書かれている。

 ・・・中山記者は、防空壕の入り口に立っていた歩哨に同盟通言記者であることを告げ、防空壕の奥深く入って行った。防空壕は諏訪神社の森に向かって横穴を3本掘り、中をつないでいた。つまり、入り口が3つあるE字型になっており、知事室、参謀室、防衛本部室、同盟通信の無線室(同無線は原爆のため一般通信網が壊滅したあと、重要な情報源となったので後で詳しく説明する)、電話交換室などがあり、80人ぐらい収容できた。・・・

 松野秀雄(当時同盟通信社南京支局勤務)はこの本の中で、9日11時に以下の主たる人々が防空課長室にいたと明記している。

 非戦闘員総退去対策会議 永野若松(県知事)
 警察部防空課長 溝越源四郎
 特高課長 中村博正
 県内政部教学長 藤本藤治郎
 佐世保市長 小浦純平

 これらのメンバーは原爆投下のことを話したことは間違いのない事実である。それは、原爆投下寸前に、放送局が、このニュースを流しているからである。
 『ドキュメント被爆記者』から再度引用する。

 ・・・爆弾が爆発した瞬間、見通しが悪くなり、市内の電話線を始めとする一切の通信網は切断されていた。もとより電灯線も切れていたのである。
 これは後になって分かったことであるが、この新型爆弾投下の前に、放送局のマイクで「長崎市民の皆さん、退避、退避、総退避」と叫んだそうであるが、この放送を何人の長崎市民が聞いたのであろうか。また、たとえ聞いたとしても、この放送は時間的にみて全然効果のない放送だった。
 ラジオの叫ぶ。〔総退避〕を聞いた時、爆心他の人々は強烈な爆風と数千度と言われる熱線に身を焼かれていたのである。・・・

 知事、陸軍、警察、特高も原爆投下の日時を正確に知っていたのである。しかし、これを発表する勇気を持たなかったのである。
 次に、長崎の証言の会編『地球ガ裸ニナッタ』(1991年)の中に記載されている「防空情報及空襲被害状況」を記すことにする。
 この中に、長崎県知事・永野若松が防空総本部長官、九州地区総監、西部軍事管区参謀長に宛てた文書が載っている。

 ・・・昭和20年8月9日 第1報
 1、本日1053、敵B29 2機ハ熊本県天草方面ヨリ北進シ、島原半島西部橘湾ヲ経テ長崎上空二侵入。1102頃、落下傘附新型爆弾2個ヲ投下セリ。
 2、右爆弾ハ広島市ヲ攻撃セルモノヨリ小型ト認メラレ、負傷者相当アル見込ナルモ広島ノ被害二比較シ被害極メテ軽微ニシテ死者並二家屋ノ倒壊ハ僅少ナリ。
 追而 県庁員幹部二死傷ナシ ・・・

 長崎県知事が宛てた第1報の受取人はすべて、第二総軍司令官・畑元帥の部下であった。かくて、広島同様、長崎の原爆投下もスティムソン陸軍長官のスケジュール通りに大成功に終わった。なお、「追而」の中の「県庁員幹部二死傷ナシ」について触れておく。県庁舎は全焼した。多くの県庁員が火炎地獄の中で死んでいった。永野若松知事は幹部県庁員のみを救ったのであった。
 泰山弘道の『完全版長崎原爆の記録』(2007年)を紹介したい。泰山弘道は長崎に原爆が落ちた当時、大村海軍病院の院長であった。彼の遣稿が没後50年にして出版された。・・・

 かくて鎮守府から来た書類や本院から提出する書類を閲覧して指定の処に捺印しては金網かごに納めていたが、その書類の中に〔敵は広島爆撃に際し特殊の新爆弾を用いた、その威力大なるものがある、今後もこの種兵器を使用するかもしれないから警戒せよ〕とあった。私はこの特殊爆弾が原子爆弾であると想像しながら書類を読み続けていると、午前11時を柱時計が告げて間もない時刻に、左側の摺硝石がピカッと光ったと思う瞬間に、院長室から玄関に下る階段の窓ガラスが破れてカランカランと音を立てた。私は原子爆弾だと直感して、いきなり「空襲、総員待避」と怒鳴るように命令を下した。・・・

 長崎市と隣接する大村のこの海軍病院に原爆被爆者が続々と運び込まれてくる。泰山弘道は次のように書いている。

 ・・・担架にて収容せられたる患者は顔面黒こげとなり、1部表皮が剥離して、赤い血の滲む皮下組織を露出し、頭髪は褐色に焼け縮れ、着衣は1人残らず裂け散り、焦げて地色などは識別すべくもなく、男女の性別すら外観上では全く識別不可能なほどの惨状を呈し、何を尋ねても応答なく、呻吟する力もなく、わずかに呼吸するのみである。〔中略〕
 見るに、誰1人履き物を穿いた者はいない。男女とも着衣は残らず引き裂かれボロボロとなり、殊に上半身は裸出し、何か背の方に薄き布片がぶら下がりているのを見ると、これが人間の皮膚である。屠牛場において牛の革を剥ぎかけたものを見る如く皮下組織が露出しているのに、負傷者は元気に歩を進めるのである。これを見た上級の軍医が大したことはないと云うから、私はこのあとに来る障害はまだ判らないから丁寧にいたわり、治療するよう説明した。
 この時の混雑や惨憺たる光景は、地獄か修羅場の絵巻物そのものであった。・・・

 「このあとに来る障害はまだ判らない」と泰山弘道が上級の軍医に言ったとおり、多くの被爆音が放射能汚染により、バッタバッタと死んでいくのである。この本の中に、守衛長が病院の庭で拾ってきた、アメリカ飛行機より撒かれたビラが載っている。その全文を記すことにする。

 ・・・
 即刻都市より退避せよ
 日本国民に告ぐ!
 このビラに書いてあることを注意して読みなさい。米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その1発を以てしても優にあの巨大なB-29 2千機が1回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考えなければならないことであり我等は誓ってこのことが絶対事実であることを保証するものである。
 我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯1箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
 この無益な戦争を長引かせている軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に、我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
 米国大統領は曩(さき)に名誉ある降伏に関する13ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承諾しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我らは慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。然らざれば我等は断平この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀な武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであろう。
 〔即刻都市より退避せよ!〕
 ・・・

 このビラをもし、天皇の大本営が新聞紙上に出す許可を与えていれば、どこの都市に原爆を投下しようとその被害は最小限にくい止められたであろう。天皇の大本営はこのビラを軍隊、警察、特高、憲兵をフルに稼動させて回収した。そして「アメリカのデマにだまされるな。デマを吹く奴は留置所にぶちこむぞ」と嚇したのである。しかし、少数の人々は、退避したにちがいない。
 かの時の皇室、かの時の政府、かの時の軍隊は国民の味方にあらずして、アメリカの味方であったのだ。


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  ●第4章 悲しき記録、広島・長崎の惨禍を見よ

 ★アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた  


 長崎市内の医師・秋月辰一郎は『死の同心円』(1972年)の中で次のように書いている。

・・・「国破れて山河あり 城春にして草木深し」
 かつて古人はこう詠んだが、詩情を感じる余裕はなかった。国破れて瓦礫残り、幾万の人々が焼けただれて苦しんでいるではないか。
 家野町、住吉町から井樋の口(いびのくち)、長崎駅まで約5キロ、延々とつづく瓦礫である。松山町付近では、こまかく砕かれた瓦の色は赤か黄に変じて、軽石のように小さな孔があいている。松山町から遠ざかるにつれて、瓦礫は大きくなり、色は黒に変わっていく。熱と圧力の強さを示しているのだ。
電柱も松山付近のは木炭そのものだが、遠ざかるにつれて燃えかけた薪のようになり、傾斜もゆるくなる。市街電車も一定の間隔をおいて焼けただれているが、松山町に近づくと骨組みだけであとは何一つ残っていない。一瞬に火を吹いて電車は鉄骨になり、乗客は炭素になってしまった。
 東洋一を誇った浦上天主堂のドームもまったく見えない。櫛の歯の欠けたような、煉瓦の棒杭になっている。その下の丘では刑務所のコンクリート塀が倒れかけている。その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ。・・・

「その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ」と書かれている。私はグローブス将軍とスティムソン陸軍長官が、長崎のもう一つの捕虜収容所のことで、話し合っている場面(「第3章」141頁参照)と、ジョージ・ウェラーが『ナガサキ昭和20年夏』の中で「二つの連合軍兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されている」と書いたことにも触れた(138頁参照)。「日本軍は収容所の一つを三菱の巨大な兵器製造所のまん中に設置し、もう一つは長崎港の入り□に設置した」と書いた。
 しかし、原子爆弾でオランダ人7人と、イギリス人1人の8人だけが死んだとも書いた。
 私は、三菱の巨大な兵器製造所の真ん中に設置した収容所のことについては書かなかった。この収容所のことを書かねばならない。
 『日本の原爆記録11』(1992年)の中に収録されている「長崎の証言(第8集)」から引用する。
 「怒り悲しみは国境をこえて  長崎捕虜収容所被爆」の語り手は田島治太夫である。この物語はかなり長い。ダイジェストして読者に伝えたいと思う。

 田島治太夫は大正9年生まれ。島原出身。昭和17年、中央大学1年のとき、召集を受け、長崎の捕虜収容所に勤務することになる。彼が勤めた第14分所には480名前後の捕虜がいた。他に、飯塚、長崎など他の3、4ヵ所に千人近くが分けられた。彼のみが英語ができたので捕虜らと対話をし続けることになる。捕虜は主にインドネシア人で、インドネシア・オランダの混血や、イギリス人、オランダ人であった。捕虜は長崎の2つの収容所のうち長崎港の中に収容されたのはアメリカ人たちで、三菱兵器製作所近くにつくられた捕虜収容所にはアメリカ人がいないということになる。アメリカ軍は、この三菱を中心としたところにあった収容所について調査したにちがいない。原爆投下の前に、田島は、アメリカ人に対する彼らの語を伝えている。この部分を引用する。

 ・・・彼らは「私たちもアメリカ人はきらいだ」と言うんです。
「同じ連合軍なのにどうしてか」ときくと、「アメリカ人は自分が利益になるときにはいかなる援助も資金も借しまない。だけど一旦自分が不利益になると、スパッと手を切る」と言うんですよ。つまり、個人主義、利己主義で信用できんというわけです。それをきいて、はっと思ったんです。・・・

 彼ら捕虜たちも分散させられて、造船所でも働かされている。原爆投下の直後、「どこからか15、6人の捕虜たちが現われてきたんです。造船所に行ってた者たちだったと思います。ケガをしていたけど、みんな元気でした。私の方にやってくるので見ると、彼らもよごれ、やつれているんです。それで『おお・・』と大声をあげて、お互いに生きていることを喜びあったのです」ということになる。
 三菱で働いていた者、病気で隔離されていた者、ことごとくが原爆死した。造船所から奇跡的に帰ってきた捕虜10数人をつれて田島は死線をさまよう。劇的なシーンに読む者の心は熱くなるのだ。そして、
彼の証言を通じて、謎の1つが解き明かされる。長崎港近くにあった捕虜収容所の★アメリカ人の捕虜たちは原爆投下の瞬間には、捕虜収容所にも造船の工場にもいずに、何処かに行っていたということである。これが戦争であるという一言では決して結論を出しえない、暗黒の深淵が見えてくるのである。その問いはただ1つ。何のための戦争であったのか、ということである。それでも「生存者は3人ぐらいはいた」と田島は書いている。原爆投下当時、田島の収容所にいた人数は書かれてはいないが、千人ぐらいはいたのではなかろうか。彼らは爆心地近くにいながら、仕事でふり分けられていたからである。
 田島は次のように書いている。この田島の言葉は重い。

 ・・・焼跡の遺体の中には、私のもとで働いていたボイラーマンや大工をやっていた捕虜たちの真黒な遺体がまじっていました。また、同じ病室にいた者や同じ所内〔三菱兵器製作所〕勤務の捕虜たちの遺体がつぎつぎに出てきました。捕虜としてはるばる日本に送られてきて不遇な生活を送ってきたうえに、最後は味方のアメリカの原爆に会って死ぬなんて、言葉にもつくせない悲劇だと思います。たまらんですよ。そりゃあ。・・・

スティムソンがグローブス将軍から、この田島のいる捕虜収容所の存在を聞かされたのが7月31日。それから調査が行われ、アメリカ人がいないことを確認のうえで、長崎原爆投下のゴー・サインが出たことになる。長崎港に収容されている捕虜たちは、長崎原爆の投下が決定する前から、その瞬間だけは、何処かへ消えることになっていた、ということになる。これは、太平洋戦争最大のミステリーであろう。

 もう一度、田島の声に耳を傾けよう。真実が語られている。

 ・・・原爆という大きな問題についても、この人間性の立場から考えていくことが国際間の問題として非常に重要だと思うんです。それが、捕虜収容所という、各民族が寄り巣まった戦争の縮図のような場所で一緒に生活してみて、私が痛感した1番の問題ですよ。私ももちろん、戦犯の被疑者として2、3ヵ月呼ばれました。しかし私は自分の主体的な判断でやってきた事柄ですから、すべてのことが解決されるんですよ。だが、もし私が単に相手を猛獣として非人間的に扱っていたら結果は逆だったでしょうね。・・・

 田島のこの言葉の中に、原爆投下の最も深い意味での理由が書かれている。読者よ、彼は「相手を猛獣として非人間的に扱う」な!と訴えているのだ。

  私が湯川秀樹を糾弾する理由がここにある。彼は世界連邦思想を唱えた。戦争が起こるから、これを防止するためには一つの政府で強制的に人間を支配する、というのがこの思想の基底にある彼らの驕りである。平和を説く者は、平和という思想のもつ驕りに酔いしれている。私たちは、すべての人の、特に弱者の視点に立って「相手を猛獣として非人間的に扱っ」てはならないのである。
 原爆は個人主義、利己主義から生まれてきたのである。その個人主義、利己主義の生んだ原爆を日本の政治機構が甘受したがゆえに、原爆が広島と長崎に落ちたのである。死なないで、幸せに暮らせたのに、どうしてこんな悲劇が日本を襲ったのか、その根本原因を私は書いてきたし、これからも書き続けようと思う。

 2008年2月19日、私は長崎原爆資料館図書室に行った。そこで私は数々の資料のうちで、『捕虜収容所補給作戦 B29部隊最後の作戦』(奥住喜重・エ藤洋三・福林徹共著、2004年)を見つけた。3人の自費出版であろう。印刷所は大村印刷(山口県防府市)とあった。この本の中に「長崎三菱造船分所」の記述があるので記すことにする。

  ・・・1943年4月22日、福岡捕虜収容所第14分所として長崎市幸町に開設、使役企業は三菱重工業長崎造船所。終戦時収容人員195人(蘭152、豪24、英19)、収容中の死者113人、このうち7人が原爆で、1人が空襲で死亡した。・・・

  もう1冊の本がある。『戦時外国人強制連行関係資料集(I)俘虜収容所』(林えいだい監修)である。1990年に明石書店から出版された。その中に、「福岡俘虜収容所法務関係名簿〈西部復員連絡局〉」を発見した。1949年10月25日に作成されたものである。この本に書かれているほとんどは法務関係者の名であるが、その中に長崎西彼杵郡香焼村に置かれた香焼2分所の記事がみえる。長崎湾の入口にあたる場所で、そこに三菱造船所があった。前記の『捕虜収容所補給作戦』から引用する。

 ・・・
 香焼分所
 1942年10月25日、八幡仮捕虜収容所長崎分所として、長崎県西彼杵郡香焼村(現在・香焼町)に開設。1943年1月1日、福岡捕虜収容所長崎分所に改編。3月1日、第2分所と改称。使役企業は川南造船香焼造船所。終戦時収容人員497名(蘭324・米5・他8)。収容中の死者72人。・・・

 長崎三菱造船分所(第14分所)は幸町にあり、原爆投下の中心地の近くである。この分所のうち7人が原爆死と書かれているのも不可解である。しかも、終戦時収容人員195人と書かれている。ウェラーは「長崎港にある二つの連合国兵士捕虜収容所にはおよそ1000人が収容されているが・・」と書いている。終戦時、二つの収容所を併せても692名(うち米5名)。アメリカ人兵士は5名しか収容所にいない。4百名近くの兵士が終戦の後に何処かから帰ってきたことにならないのか。確かなことは、爆心地にあった長崎三菱造船所分所で、たった7人しか原爆で死ななかったということである。この分所のごく近くにあった三菱重工捕虜収容所では350名以上の死者が確認されているのである。
 もう1度、ウェラーの本から引用する。7人の原爆による死者についての記録である。

 ・・・原子爆弾で、捕虜の指揮をしていたキック・アールダー中尉(ジャワ、バンドン出身)を含む7人のオランダ人とイギリス人1人が死んだ。記者は6日午後、彼らの収容所を訪れた。外部の人間が訪れるのは数年ぶりのことだ。・・・

 ウェラーは8人の原爆死としているが、『捕虜収容所補給作戦』では7人の原爆死となっている。ウェラーの本の正確さが理解できよう。終戦時収容人員195名のうちに、アメリカ人は含まれていない。しかし、1945年9月7日、ウェラーが訪れたときにはアメリカ人の収容者がいたのである。アメリカ人の1人は、ウェラーに次のように語っているのである。

 ・・・アメリカ人「B29が食料と一緒にいつもサイパンの新聞を落とす。その中でシナトラという男のことが記事になっているが、そいつは何者で何の商売をやっているんだ?」・・・

 ここまで書いてきて、私は次のように考えるようになった。
三菱重工業長崎造船所にいたアメリカ人たちは、原爆投下の直前に、香焼村にあった第2分所にひそかに移された。終戦後、また、14分所に移された。それはスティムソン陸軍長官の処置であった。従って、爆心地にいた捕虜たちは、この間、そこにいなかったのである。オランダ人、オーストラリア人、イギリス人も移された。7人だけが不幸にも残された。原爆投下後、アメリカ人たちは後れて移動した。
 長崎三菱造船分所に入った捕虜たちの1部が三菱工業内(爆撃目標地)の捕虜収容所に移された。
このときに、アメリカ人は1人として移されなかった。この事実をスティムソン陸軍長官は知り、第14分所の全員(重病患者を除く)を移動させたのである。
 前記の「元福岡捕虜収容所派遣所々在地一覧表」には「分所勤務者名簿」が載っている。私が引用した『日本の原爆記録11』の田島治太夫は、第14分所の所員であった。
 彼は、三菱重工業内の捕虜収容所に回されたのである。ここの大半の捕虜は死んだことになる。ここにはアメリカ人が1人もいなかった。スティムソン陸軍長官の長崎原爆投下作戦の見事な成功であった。

 秋月辰一郎の『死の同心円』から再度引用する。前に紹介した「・・その内側では、数百余の囚人が灼熱の火に焦げて死んだのだ」の続きである。

 ・・・電線は低く垂れ、その下の瓦礫の砂漠には破裂した水道管が水を吹き上げている。煙突の煙は絶えて、すべて「くの字型」になった。廃墟と化した長崎にとって、終戦といってもなんの動揺もなかった。動揺すべきものは存在しない。すべてが焦げて、傷ついて、死んで、壊れていた。
 「これから日本はどうなるのです。病院は、私たちは・・」
 入院患者も職員も、不安そうに問いかけてくる。
 「米英は鬼ではない。人間さ。昔の戦争と違うんだ。これ以上君たちを苦しめることはないだろう。これ以上不幸にはならないよ」
 見通しは立たないが、これだけは自信をもっていった。

 同盟通信の号外で、玉音放送の内容を知ったのは、16日の夕暮れだった。私は草の上に立って、川野君が持ってきたザラ紙の号外をひろげた。だれかがうしろからローソクを照らしてくれる。そこには、日本の追いつめられた現状が、天皇の言葉として書いてある。歩くことのできる負傷省や患者は、近くに円形をつくった。
 「・・敵ハ新二残虐ナル爆弾ヲ使用シテ、惨害ノ及ブ所、真二側ルベカラザルニ至ル・・戦陣二死シ、職誠二殉ジ、非命二斃レタルモノニ想ヒヲ致セ八五内為に裂ク・・」
 最初は声をあげて読んでいた。しかし、しだいに声がつまる。
 「遅い、あまりに遅すぎる。なぜこんなになるまで、国民を戦いに駆りたてたのだ!」
 読みながら、こんな叫びが心中に起こる。とぎれとぎれに最後まで読んだ。看護婦のすすり泣きが聞こえてくる。〔中略〕
 やがて、私はぽつりといった。
 「爆弾で、財産も家族も失った君たちに、いま、国家もなくなったのだ」
 すべてを奪われてなにかすっとした。これ以上失うものはなにもない。

  ★アメリカ人捕虜だけがどこかへ消えた  <了>

   続く。