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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)

  -公武合体理念から乖離した江戸幕藩体制の流転     ◆落合莞爾 

 
 ★公武合体思想と國體観念の正しい理解 

 
 江戸日本の開国に向けての政治運動は光格天皇の御宇に胚胎したが、その基づくところの政治理念は本来は公武合体思想であった。公武合体運動とは、教科書歴史の説くところでは、「弱化する幕府権力を朝廷の権威を以て強化せんとする目的で安政ころから起こった政治運動」とされているが、この見方は狭きに過ぎ、況や皇室と将軍家の縁組を以て公武合体と解するなぞは失当というしかない。

 「國體」とは国の本来あるべき姿の謂いである。(「国民体育大会」との混同を避けるため、敢えて旧字体を用いる)。日本列島には古来、「日本社会はいかなる時代にも万世一系の天皇を芯核として成り立つ」との国家観念が伝わってきた。ここにいう「万世一系」とは明治憲法の法学的概念とは異なるが、それはともかく、この国家観念から派生する「永久不変なる國體に対し、天皇から統治権を委託された政体は時代により変転する」との政体観念をも含めて、國體観念というのである。

 公武合体の「公」とは國體の根底にある精神的権威のことで、具体的には天皇及び側近の公家衆を意味する。また「武」とは天皇から大政を委任された政体すなわち世俗的権力のことで、具体的には幕府将軍と幕藩体制を意味する。中世キリスト教世界では、王権神授説により皇帝と教皇が権威と権力の場を棲み分けたが、社会の進化の過程で精神的権威と政治権力の分離が進むのは、蓋し歴史の通則であろう。公武合体思想とは要するに、「公武の分離を前提に、両者における政治的価値観の合致とそれに相応する政治機構を常に求める政治理念」になろうか。

 武力による全国統一を果たした織・豊両氏は、公武合体理念による近代的国家体制の樹立を目指したが、両氏に替った徳川政権は歴史法則を逆行して、半ば郡県制度的な専制国家体制を樹立したのは、専ら国益上の見地からで、強固な貿易統制策を必要とした当時の世界情勢に対応したものである。すなわち室町末期から、国産銅地金が多量の金銀を含有したまま南蛮紅毛の貿易商によって不当に安く海外に流出しており、これを放置すれば日本社会の経済基盤の崩壊は必至であった。さらに重大な国家問題として、教科書歴史は今も黙殺するが、多数の邦人男女が九州沿岸から奴隷として秘かに輸出されていた。

 
 ★硝煙目当ての奴隷輸出 隠蔽ざれた国辱的史実

 
 室町時代は世界史上の大航海時代でスペインーポルトガルら南蛮人による洋上貿易が発展したが、主たる貿易品目の一つは男女奴隷で、南蛮人が奴隷狩りの形で原住民を拉致した例も他国にはあるが、輸串王は多くの場合当地の部族長で、他部族ないし領内の下層民を以て輸入品の代価に宛てたのである。当時の日本では火薬が必須輸入品で、戦国大名が何より必要とした鉄砲には煙硝が欠かせない。鉄砲そのものは国産を始めたが、硝石は国産しないから、その入手のために各大名はあらゆる努力を払ったのである。

 戦国大名たちはポルトガル商人と同根の宣教師に諂う(へつらう)ため、キリシタン布教の解禁はもとより自ら進んで洗礼を受け、領民の奴隷輸出さえ行ったが、すべて煙硝を入手するための手段であった。今日民主党の菅政権が、経団連が必須とするレアメタルの確保のために、中国政府による領土侵犯や邦人の公然拉致を黙認しているのと同断である。

 室町時代は勿論のこと、元和堰武の後にも、外様大名の多い九州地方では領民の奴隷輸出が秘かに行われたが、室町時代の記録にも江戸時代の稗史にも何ら記さない。これは当の領主も恥を知っていたからで、新政体江戸幕府もこれを国辱と感じ、ひたすら隠蔽を図った。明治政府もまた皇国史観に反する処から隠蔽したものと思われる。

 しかし数代にわたり政体が必死に隠蔽したので、さすがの白柳秀湖も気付いていないようであるが、薩摩の坊津を始め九州各所には、今も奴隷輸出の伝承がはっきりと残っている。吉薗周蔵も家人に対し「東南アジアの各港で、その昔性奴隷として売られてきた日本女性の末裔を数多く目にした」としばしば語ったと聞く。この国辱的史実を、専ら自虐史観に立つ戦後文化人が黙殺しているのは不可解であるが、マルクス史観と中華思想が混淆した敗戦史観に頼り過ぎて、真の日本史が見えないのであろうか。

 
★「島原の乱」はキリシタン征伐のためではなかった

 
 三代家光の治世に生じた「島原の乱」は、教科書歴史ではキリシタン信徒による宗教一揆と説明されるが、実態は領主松倉重政・勝家父子の暴政に対する百姓の反乱であった。幕府から一揆の原因を問われた松倉勝家が、「領民のキリシタン信仰の強固なるに因る」と弁明したのは、一揆の指導者がキリシタン大名の旧領主小西行長と有馬晴信の浪人だったことを利して、自らの暴政を糊塗せんとする強弁に過ぎない。当時のキリシタン勢力を過大評価する巷間史書も多いが、日本人の宗教観・社会観が元来一神教と相容れざることは、明治維新から今日に至るまでの、信教の自由を保障された日本における一神教の教勢推移が明白に証明する。白柳が「キリスト教の禁制などはその頃もうすでに完全に行はれて、ほとんどその必要を見なかったこと、島原事件の前後、幕府によって発布された法律を子細に点検して見るとよく分かる」という通りで、江戸幕府には、島原一揆に関わった数万人を、キリシタンを理由に皆殺しする必要なぞなかった。

 松倉勝家がキリシタン征伐の名目でルソン遠征を企てたことと謂い、勝家のキリシタン弾圧の残虐さを誇張した宣教師の態度といい、また数万人もの一揆勢を皆殺しにする一方で松倉重政を密殺した幕府の態度といい、いかにも不目然さが付きまとうから、島原の乱には、奥底にもっと重大な秘密があったのではないかと思う。

 有名な「島原の子守歌」は、明治時代に島原半島から大勢の「カラユキさん」が出国した証拠であるが、この地は室町時代から邦人奴隷の密輸出港であった。江戸初期に転封してきた新領主松倉氏は南蛮貿易に熱心で、ここを拠点に領民男女を密輸出していたのである。奴隷商人と宣教師は同根であるから、妄想を逞しくすれば、「かの島原信徒たちは、奴隷輸出を免れんがために、進んで洗礼を受けた」とも考えられる。

 一説には、この時のキリシタン数万人は李氏朝鮮国へ追放され、朝鮮半島にキリスト教徒の多い原因を成したというが、もしそのような事実があったのなら、国辱と幕府権威の失墜を避けるため、江戸幕府には松倉氏と領民の双方の口を封じる必要があったことになる。

 ともかく、国家経済の根幹たる金銀と、国家の基本要素たる人民を、硝石入手のために流出させるのは、国益を損する上に、政体としてこれ以上ない恥辱である。これを防止するためには、各藩の自由貿易を禁じなければならず、徳川の初期三代はその目的で強固な貿易統制策を全国的に実施した。そのために権力の中央集中を実現した新政体が幕藩体制で、貨幣浸透の歴史法則を逆行した重農主義を経済基盤とし、且つ譜代大名が幕政を独裁する郡県制的な専制主義を政治制度としたために、幕藩体制の本質は「武」が「公」を凌ぐものであった。 

       続く。
 

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