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続・落合論文
 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(4)
 ・・元帥・上原勇作とは何者か
  
 1)上原勇作の軍歴ー大陸軍事探偵行と欧州視察

  陸軍・工兵少尉上原勇作が渡仏したのは明治14(1881)年6月。
 最初はグルノーブル工兵第四連隊の隊付になり、翌年フォンテンブロー砲兵学校に入学し、在学中に大尉に進級した。この間明治17年に、参議陸軍卿兼参謀本部長の職にあった陸軍中将・大山巌が、中将・三浦悟楼、少将・野津道貫、大佐・川上操六、大佐・桂太郎ら陸軍高官を従えて兵制視察のため欧州を巡視した際、9月10日のツール運動要塞の見学に同行を命じられた。
 これは、上原中尉の応援団であった、野津か川上が仕組んだものだろう。

 4年半にわたる留学を終えて、上原が帰国したのは、明治18年12月23日で、間もなく陸軍士官学校教官を拝命し、19年12月には、東京湾の防衛のために設置された臨時砲台建築部の事務官に補せられ、技術方面を担当した。
 欧州(フランス)仕込みの知識を実地に適用しようとしたが、気候の違いにより、そのままでは用を為さない。上原は、再度渡仏=再検討の必要を感じた。

 その後の経歴を『上原伝』には、下記のように記してある。

 明治20年3月2日
 臨時砲台建築部の命により、対馬、馬関に出張。
 明治20年11月28日
 相州横須賀地方に出張を命じられる。

ところが、神坂次郎に『波瀾万丈』という著書がある。
南洋における日本人娼館の経営で知られた樺山(村岡)伊平次(1867-1945)の伝記だが、それによると伊平次は、商業視察の名目で北支から満洲にかけて旅行する上原勇作大尉の従者を依頼された。目的は大陸辺境の軍事探偵行で天津の滝領事の紹介であった。
(落合注*外務省資料では、当時天津領事は波多野承五郎)
 
 明治20年6月23日、天津を出発した二人は、行商に身をやつして、以後5ヶ月の軍事探偵行が始まる。
 北京、熱河、から内蒙古を通り満洲に入り、吉林、長春から奉天とあらゆる都市を探って歩いた。その記録を手帳に残した伊平次は、晩年になり波乱を極めた人生を追懐して、一冊の回想録をものした。虚実入り混じったものと神坂は言う。
 伊平次はしかし単なる女郎屋ではなく、陸軍の諜者でもあった。諜者たるもの秘密手記を残す常法で、樺山回想録の元になった手帳に残された『伊平次日誌』は、ほぼ真実を記したものと見てよい。

 元帥、「日本工兵の父」と讃えられる上原の偉業を伝える『元帥上原勇作伝』は、上原大尉が伊平次と同行した6月23日から11月までの5ヶ月間の行動を一切省いている。
 伝記編纂に際して、北支探策行を意図的に秘匿したのは、諜報活動が、たとい数十年前でも軍事機密に属するからか、あるいは偉大な元帥に似つかわしくない卑劣な行為を伴うからか、それは分からない。

 もっとも、軍人の伝記に限らず、およそ「伝記」とはご都合主義のものである。そもそも根底にある手記・日記の類が真実を記していないのは、誰しも都合の悪い行為は記録せず、まして発表したくないからだ。
 例の『石光真清の手記』を、世人が稀有の軍事探偵の記録として高評価するのは好いが、本当はそこに何を書かなかったか、が重要なのである。それを行間から見抜く洞察力こそ伝記解読の要諦なのだが、戦後の平和空間を生きてきた本邦史家、権威に弱い作家にはまず無理だろう。

 いくら隠したつもりでも、思いがけないところから真相が暴露される。それは、当事者の中に例外がいて真相を記録にとどめた場合である。例外者とは、身辺を嘘だらけで固めざるを得ない諜者のことで、彼らはいざという時に自分を守る目的で、真相を秘密日誌に残す習慣があり、本稿が対象とする『周蔵の手記』はそのような性質のものである。
 『石光真清の手記』には、元となった「秘密の手記」は燃やしたと述べられている。
 諜者の手記は表面上詳細な偉人伝よりも資料的価値が高い。樺山の手帳もその例であり、とにかく上原勇作の伝記に<裏面>があることを証明することになった。

上原大尉は明治22年3月19日、臨時砲台建築部長・男爵小沢武雄中将の欧州派遣の随行を命じられる。上原、34歳。
 欧州巡視の拠点は、フランスで、上原は日記に毎日の行動を記録している。
 八ヶ月の長期にわたる巡視行の中で、後に述べるポンピドー関連の私的行動があった筈だが、一切記していない、実情は分からない。

 明治23年1月に帰国、5月9日をもって少尉に任ぜられ、10月22日には臨時砲台事務官をやめて第五師団付となり、工兵第五大隊長に補せられた。
 第五師団長は、陸軍中将・野津道貫であった。

 (4)-1)終  

 
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