カウンター 読書日記 ●朝日と読売の火ダルマ時代(5) ― 第一章
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●朝日と読売の火ダルマ時代(5) ― 第一章
 
 ★朝日と読売の捩じれ関係 

 
 朝日を辞めた記者は二つのグループに別れ、鳥居素川は戦争成金の勝本忠兵衛をパトロンにして、新興の大正日々新聞を大阪で創刊した。出資金は200万円で朝日の資本金を凌駕しており、新聞史上でも特筆される紙面作りをしたが、大阪朝日と大阪毎日が連携して大妨害したので、その犠牲で僅か8ヵ月後に倒産するに至った。
 別のグループは松山忠二郎と行動を共にして、彼が社長に就任した読売に大挙して移ったが、社長就任の抱負を『新経営の読売新聞』と題して、松山は1919年(大正8年)10月1日の紙面に、次のような新路線への志向宣言を書いている。
 
 [創刊以来45年、半世紀に近い年月、本紙が果たして来た歴史を論じ、従来の〈穏健〉の特色を保つと同時に他面〈機敏〉の実を挙ぐ、また、〈趣味的〉〈家庭的〉なるに加えて、〈実務的〉〈社会的〉たらんことを期す・・・」
 松山社長は読売の元主筆たった五来素川を論説委員に迎え、彼の広い国際感覚に期待をかけたし、時事新報から千葉亀雄と万朝報から伊藤亀雄を引き抜き、大庭編集局長の下に再建に取り組んだ。当時の新聞記者は言論とペンの力で仕事をし、仕事の出来る人間にはスカウトの声がかかり、実力が評価されれば簡単に新聞社を移ったので、人材は指導者の理想に従って動いたのである。
 少し遅れて大正日々の残党も読売に集まり、白虹事件の時に朝日にいた主要記者たちは、東京に全員が結集して元気を取り戻した。そして、読売は大正デモクラシーの梁山泊になり、1923年(大正12年)の関東大震災までつかの聞の夢を飾った。
 松山社長のリーダーシップの下に再建が進み、読売は紙面の刷新や人事の適正配置を試 みて、理想的な新聞作りのために全力を傾けた。松山は東京専門学校政治科を卒業して朝日に入り、最初の海外派遣留学生としてコロンビア大学に学び、国際派の経済記者として信用があった。
 4年半続いた彼の社長在任期間の成果は、3万部だった部数を4倍の13万部に伸ばし、銀座に鉄筋建ての新社屋の建設まで及んでいるし、朝日を仮想の敵とみなして果敢な挑戦を試み、政治、経済、外交の記事に力を注いだ。だから、大正デモクラシーで朝日が築いた実績は、松山社長と行動を共にした脱藩記者たちにより、読売の看板の下に受け継がれていたと考えれば、朝日と読売は一種の捩じれ関係にあった。
 しかも、新聞は表題ではなく中身にあると考えるなら、松山社長と共に新聞を編集したスタッフ全員に、大正デモクラシーの理想が生きていて、それが読売の歴史を一瞬の光輝で照らしたのである。
 1922年(大正11年)に読売は創刊50周年を祝い、合計7回の記念号を発行したが、当時の状況を『読売新聞百年史』は次のように書いている。
 [その第一回5月23日付で、かつての主筆高田早苗は、「私は文学新聞とすることには成功したが、政治新聞とすることは、多年の努力にもかかわらず思うにまかせなかった。面白いが雑誌のような新聞といわれた。いま松山君の時代になって、従来の長所を失わず、しかも立派なせいじ新聞となって、新聞らしい新聞として、私の夢が実現した」と祝いの言葉を贈っている。高田のユメは松山の願いでもあった。松山の新経営から三年、その希望と計画は着実に実っていた。新聞らしい新聞、政治と言論にも強い新聞とするために、松山は大庭とのコンビで政府はじめ各方面に論戦を挑んでいった。・・]
 新聞が果たす使命の筆頭にくるのは、早く正確な情報を読者に提供するに際して、全体の中で問題の正しい位置づけを行い、読者に信頼される紙面作りをすることだ。東京朝日や東京日々に大きく差をつけられていたが、松山社長時代の読売は最も活気に満ち、新聞の原点を見据えた報道をする新聞であり、日本の新聞史の数頁飾ったことは間違いない。

 
 ★言論扼殺と御用新聞の時代への門出

 
 読売の社長に松山が就任した1918年の末は、米騒動の影響で平民宰相の原内閣が誕生し、大正デモクラシーが勃興し始めた時期で、出版やジャーナリズムが急速に発達した時でもある。1918年に800種だった新聞は2年後に倍加し、雑誌や単行本も続々と出版されたように、これがデモクラシー運動の推進力になった。また、出版ジャーナリズムの目覚ましい発達は、普選運動に続いて無産政党運動に発展して行く。だが、その反動で1919年に陸軍省に情報係が発足し、翌年にこれが新聞班にと改組されていき、ロシア革命の影響を防ごうとするために、警察の治安対策はその姿勢が陰湿化を強めた。
 そうした状況の中で朝日が白虹事件で攻撃され、編集陣の一部が大正日々の創刊を通じて、勢いに乗り報道活動を展開しようとしたが、営業妨害にあって挫折させられたことは象徴的だ。その経過を『日本新聞百年史』は次のように書いている。
 [大朝、大毎両社、が提携して、極力この新聞の発展を妨げた。平素、仲の悪い両社も共通の敵出現となって、手を握ったわけである。第一に、電話の架設から電力の引き込みまで妨害して、工事のはかどりを妨げた。(中略)両社の販売店には厳命して、大正日々の取り次ぎを禁じ、いやおうなく新規販売店の設置に巨額の経費を投じさせる。京都、神戸、和歌山などの隣接地には深夜、新聞専用電車を運転しているが、当局を圧迫して大正日々だけは積ませない。しかたなく毎夜トラック特便をもって、各方面に発送せねばならぬ始末である。四国行きの新聞は船のデッキ貨物となっている。大正日々の梱包は毎夜のように海中に投げ込ませてしまう。大広告主に向かっては、おどして大正口々への広告契約を妨げるなど、至たれつくせりの妨害ぶりであった・・・]
 せっかく新規に発足した大正日々は破綻して、それを買収したのが大本教の出口王仁三郎だが、この大本教もその後の大弾圧で粉砕されている。大正日々の破綻の主因は同業新聞の妨害だが、その背後には国家権力の魔手があって、その後に続く言論弾圧の波状攻勢を通じ、大正デモクラシーを圧殺して行くのである。
 こうして鳥居主筆に率いられて大正日々を創立し、華々しいデビューをしたグループは挫折して、言論活動の封殺におけるモデルケースになった。そして、この事件と関東大震災を契機に言論界の切り崩しが始まって、次の犠牲者になるのが松山の読売であり、続いて日本の新聞全部が完全に制圧され、侵略戦争の宣伝機関化して行くのである。

 
 ★歴史の本質と行間に書かれた新聞社史

 
 松山社長の下に旧朝日の中核が勢揃いし、読売が目覚ましい発展を遂げたとはいえ、1919年から22年にかけての時期の日本は、社会全体が激動に支配され続けていた。東京での普選デモや朝鮮での独立運動に続き、各地の鉱山や八幡製鉄所でストが起こったし、20年3月には戦後の経済恐慌が始まって、物価の低迷と不況の社会情勢が定着していた。
 新聞の社会面は不況や疑獄事件で埋まり、「宮中某重大事件」や安田善次郎の暗殺に続き、東京駅頭で原首相が右翼テロで暗殺され、保守化の中で暗い沈滞した話題が増加した。
 しかも、政治批判を封じるために『過激社会運動取締法』が上程され、この時は審議未了で衆議院を通過しなかったが、この法案は『治安維持法』の先駆けをなすもので、社会 は急速度に血生臭い[昭和維新]路線に傾き、右翼テロルの嵐が日本を包み込んでいく。
 こうした中で松山社長の読売は健闘を続け、発行部数では朝日の1割に満たなかったが、それでも読者は4倍余りも増加していた。だが、[宮中某重大事件]の時の嵌口令批判のために、当局の忌偉に触れて発売差し止めを受け、この年だけでも差し止めは4度目であり、読売は当局に狙い撃ちの標的になっていた。
 だが、加わる圧力にもかかわらず読売は健闘し、紙面の刷新と経営の近代化も実現して、売上げの伸びで新社屋の建設にも取りかかったが、関東大震災の痛手をもろに受けてしまい、松山は読売を手放さざるを得なくなった。
 その時に巧妙に立ち回ったのが正力松太郎であり、政界の支援と財界の資金を背景に読売に乗り込み、批判精神を持つジャーナリストを追放して、腹心の警察官僚で新聞を支配の道具に作り変えたが、買収の背後にあった権力側のエ作については多くの謎がある。警視庁のナンバー2だった正力が社長になり、その資金の提供者は内務大臣だった後藤新平で、関東大震災が大きな役割を演じている。正力が朝鮮人やシナ人の大虐殺に密接に関与し、大杉栄の虐殺に後藤新平と甘粕正彦が絡み、阿片と結ぶ謀略工作の臭気が漂う中で、満洲に延びる人脈が登場するプロセスを通じ、その後の新聞の運命を御用化に導くことを思えば、この動きはメタレベルで意味深長である。

 特に関東大震災を使って正力が試みた中国人虐殺事件で、指導者の王希天を取り逃がしてしまい、渡辺という日本人の偽名を使って逃亡した王には、憲兵大尉の甘粕のコネクションがあった。中国人虐殺に対して中国政府が調査団を派遣し、日本政府が試みた徹底的な隠蔽工作の一環として、読売を正力の隠れ家にする陰謀があり、その背後に番町会グループが存在したとなれば、昭和史は大きく書き改められる必要がある。
 それにしても、『読売新聞八十年史』の大見出しの[松山のばん回策ならず]や、『読売新聞百年史』の[社長松山の改革実らず]などの記述は、正史や社史に特有な情報操作を予想させている。前任者の功績の過小評価や抹殺を通じ、後任の功績を過大に見せる作為だけでなく、権力は強引に歴史を書き直すものだ、か、言葉の上だけで事実の抹殺は難しい。それでも、大きな陰謀を隠蔽する目的のために、より小さな疑惑を積み重ねて砦を築き、重層の迷路を構築するのは常套手段になっている。

 
 ★改竄される歴史と捏造された社史

 
 聖徳太子の時代に藤原不比等が歴史を改竄したり、司馬遷が『史記』に列伝スタイルを持ち込むことで、編年体で記述する歴史を小説風にしたように、歴史を後の時代の者が都合よく書き改めることが多い。その点て新聞の社史も例外ではあり得ないし、読売新聞社 が発行している3種類の社史も、『八十年史』、『百年史』『百二十年史』の記述の差異を分 析すれば、編集時の権力者の心理が解読できる。
 明治政府による皇国史観もその一例だが、歴史は後の権力者に都合よく書き換えられ、その判読自体が一種の謎解きの楽しみを提供する。都合の悪いことは出来るだけ触れずに済まし、嘘の記述や捏造より罪が軽いとして、時におやと思う操作を発見したりするが、それを読み取る眼力を備えた者にとっては、正史の恣意性の解読は高尚な遊びになる。 猪瀬直樹は『土地の神話』(小学館)の中に、[東急が白木屋を正式合併したのは昭和31年1月である。300年の伝統を誇る暖簾がはずされ東急日本橋店に衣替えがなると、五島はさっそく『白木屋三百年史』の執筆を三鬼陽之助に委嘱した]と書いているが、後継者が歴史を書き直すのは世の習いである。
 大震災を契機にして行き詰まった以外に、松山社長の経営上の失敗で破綻したと強調しているのは、読売のねじ曲げられた運命を検討したり、日本のジャーナリズム史を考える上で重要である。組織体の情報の認知が意図的に歪められ、自己中心的に書き換えられていることを、この読売の社史がか物語っているからである。
 この操作は歴史一般に共通していることだが、新しい覇者の登場は歴史の書き換えを伴い、柔軟性や客観性を放棄した形で正史が編纂され、新しい英雄譚が誕生して流布して行く。だから、書いてある内容の中で意味と存在論を読み取って、メッセージをより上位のレベルで解読することが、歴史や正史としての社史を読むノウハウになる。
 新聞の歴史は社史を基礎資料にしているが、社史の行間と交替劇の背後を読むところに、冴えた史眼と呼ぶに値するものがあるし、そういう眼で新聞の社史を読み直してみると、興味深い暗黙知の世界が味わえるのである。 

 
 ★「歴史の検証」 『歴史の書き変えと社史の信憑性』

  
 一般に正史と呼ばれる歴史は作られたものであり、書いた時点の支配者にとって都合のいいように、意図的に脚色されている場合がほとんどで、権力者の自己主張に基づく顕彰碑の一種として、正当性と権威付けを試みた記録になっている。だから、ほとんどの場合、が自己の権威を謳歌するために、前の支配者がいかに良くなかったかをあげつらったり、前任者の功績を過少評価する傾向がある。
 極端な例が大化改新クーデタ事件であり、歴史の隠蔽と改竄を計った藤原不比等は、『古事記』と『日本書紀』で過去の抹殺と歴史の捏造を試みた。『記紀』は天武天皇の正当性を主張するために、天武王朝の時に作られた歴史書であり、正史として王朝に不都合な事実を書き改めて、歴史の塗り替え作業で作られたものである。

 *参照(特に最近の号)➔ ★金王朝の “深い深い謎”    
 

 不比等は音韻学的には史(ふひと)であって、歴史を伝える役割を担う立場にあったが、中大兄皇子(天智天皇)と父親の藤原鎌足の立場で、2人の行為を正当化するために歴史を書き変えている。
 明治時代になって試みられた皇国史観も同じで、歴史を天皇家の都合に合わせて書き直し、孝明天皇暗殺を隠し万世一系の虚構を押し出したが、その伝統は個性の強い社主を持つ企業に影響し、正力家や村山家を持つ読売や朝日の場合は、社史編纂のスタイルにそれが伝わっている。
 日本の企業の社史を取り揃えている点ては、シカゴ大学の東アジア図書館は米国随一であり、そのコレクションを使って比較考証したお陰で、多くの興味深いことを学ぶことが出来た。道楽で得た結論を使って断言して見るなら、日本のメデイアで社史に積極的に関心を向け、関連記事をよく活字にしているものに、大日本印刷で発行する『ねんりん』と雑誌『マネジメントがあり、日経も小島直記の『社史にみる経営思想』を連載した実績を持つので、この辺が社史に関しての日本の権威筋である。

 その点で朝日や読売の社史ほどではないが、他社の社史にも共通性があることを知るために、中興の祖に当たる人物を持つ新聞として、1968年(昭43年)から1976年(昭和51年)までの8年間にわたり、日経を指揮した円城寺次郎社長に目を付け、『日本経済新聞社110年史』のチェックを試みた。
 ジャーナリズムに不可欠な批判精神の脱落があるので、[財界の官報]とか[経団連の機関紙]と形容され、時には『野村新聞』と揶揄されたりする日経は、『日本に異議あり』(講談社)で佐高信に[日本切り抜き新聞]と決めつけられている。しかも、[ジャーナリズムの批判精神を捨てたが故に、急成長したのではないか]と勘ぐられている。
 これは積極路線を推進した円城寺次郎社長が、やり手経営者と政府の諮問委員の2足の草鮭を履き、財界活動をし過ぎる新聞人と言われたことに、毀誉褒貶の入り交じった評価の原点を持つからである。
 日経の社史は1986年(昭和61年)に出版されており、「リクルート事件」で辞任した森田社長時代に出て、グラビアに合弁事業の契約をした森田社長の写真が、見開きの2頁を使いカラーで掲載されている。そして、ダウ・ジョーンズ社(DJ)の協力で森田社長が、DJ社のW・フィリップス会長と協定に調印とキャプションに書いてある。だが、この契約を始め日経の躍進の功績のほとんどは、社史の記述において巧妙にカットされているが、円城寺社長時代のものであることは杏定できない。
 政治に深入りして佐藤首相のブレーンになり、「二木会」の有カメンバーだった円城寺の振る舞いは、ジャーナリストの心構えとして失格だったが、日経の経営者としては中興の祖だったのは事実である。だから、当時の事情に詳しし日経OBに取材を試み、インタビューで真相の一端を引きだそうと試みた。
 日経のケースを通じて社史の持つ性格を理解し、朝日や読売の場合はもっと酷いと気づき、歴史の復元は一筋縄では行かない点に関して、再確認する上で参考にして頂ければと思う。なお、対談の相手の名前は仮にAさん(
*初代日経ワシントン支局長・大原進)ということで、実名を伏せたこのインタビューは全体の一部である。
 
 ★都合の悪い過去は隠蔽したがる歴史の傷痕

  
F 社史とか正史を読んでいてよく分かることは、それを編纂した時に権力を握っていた者に、都合のいしことが拡大されて書いてあり、都合の悪いことは上手に粉飾されるとか、黙殺されているケースが非常に多い。色んな新聞社の社史を読んで見だのだが、歴史が権力者の手前味噌の固まりなのと同じで、新聞社の社史も恣意的だと言えますね

A 個性が強くて自己主張したがる社長だと、得てしてそういうことに成りやすいわけです。誰だって失敗や不名誉は記録に残したくないから、どうしても手柄は大きくなりがちになるし、他人の功績まで自分の手柄にするのが人間なんだな・・・。

F 正力が読売の中興の祖であるのは確かにしろ、『読売新聞八十年史』、『読売新聞百年史』、『読売新聞発展史』のどれを取っても、同じようなトーンで正力を称賛しているし、松山社長はダメ男になっているんですよ(笑い)。

A 一番最初に書いて定着した歴史が、それ以後の路線を決めてしまうのです。

F しかも、日本の。ジャーナリズム史にとって無視できない、読売争議についてはほとんど触れておらず、正力にとっては夕刊発行や大阪進出の方が、読売争議より危機の度合が高かったと書いてある。要するに、読売が発展する上での勧善懲悪の物語が、正力にとって認めることができる歴史であり、戦時中に軍国主義を煽ったことについては、表面的な記述しかしておらず、その責任を反省する気配はほとんどありません

A 戦時中の日本の新聞は全部が右向け右で、勢揃いして軍国日本を賛美したのだから、それを徹底して反省するのは難しいし、社史でその点はとても触れ得ないでしょうな。反省ばかりしていられないというのも、現場で忙しくやる者の正直な気持ちだから、適当に粉飾せざるを得ないのも確かでしょう(笑い)

F それと共に社史を読んで気になったのは、刊行された時の社長の手柄が強調され過ぎて、本当に貢献した人のことを余り触れてない。日経の社史が森田社長時代に出たためか、中興の祖として財界で誰でも知ってしるのに、円城寺社長の功績が余り書いてない。
その点を同じ時期に仕事をしていた立場で、具体的にコメントして欲しいのだが、先ず円城寺という人は日経にとって、どんな具合に評価できる人物でしたか?

A 古い話から始めなければならないが、彼は日経にとって初代ニューヨーク特派員であり、戦時中とトいか戦争が始まったために、交換船で日本に帰って来ているわけです。しかも、表面上は英語を喋らない姿勢を貫いていたが、彼ほどアメリカ人に敬愛された人物は少なかった。あなたは財界べツタリだと批判するだろうが、一万田スクールの3羽鳥とも呼ばれていたし、経済部長の小汀利得に可愛がられたので、トントン拍子に出世して日経のプリンスでもあった。まあ、カンの良い幸運な経営者として絶品でしたが、今では、若い社員で名前も知らない人がいますよ。怪しからんと怒っても始まらないが・・・

F 社史で見ると彼の業績はコンピュータの導入で、データ・バンク構築での貢献が主体だと書いてあるが・・・

 
 ★社史が事実さえ記録しない罪

 
A とんでもない!コンピュータの導入なんてどこの社でもやったし、そんなものは部下が担当することであり、社長としての円城寺の最大の貢献は、日米間の関係を確立したところにあった。『日経ビジネス』や『日経サイエンス』のように、マクグローヒル社から翻訳権を手に入れたり、ダウ・ジョーンズと特別契約をして、事業面での関係を緊密に保ったこともある。また、ノーベル賞を受けたサミュエルソンやレオンチェフに注目して、彼らがノーベル賞を貰う前に日本に連れてきた点で、目のつけ所の良さは特筆に値しています。それくらいは社史が記録に残してもいいのに、それがどういう訳か完全に省かれているんですよ。

F 円城寺が君臨した時は日本経済が上り坂だったから、色んなことに手をつけて発展 の契機を作っただろうし、何をやっても成功した時代かも知れない。それで、積極的な経営路線に勢いがついたのだろうが、目経の多角経営を推進したやり方は、ジャーナリズムであるよりメディア産業を育てる上で、一種のパイオニアだったと言えそうです。
 新聞は経営第一よりも理念や理想が必要だから、経営面での功績は私は余り評価しないが、ジャーナリストとしての円城寺はどうだったのですか?

A 経済部長としてそれなりの見識を持っていたし、後で日本経済センターなどを作ったように、先を見通すやり手だったのは確実です。

F それで、正力が読売のために催物を企画して、営業の面で成功しているのと同じように、彼も何か特別な企画でもやらなかったのですか?

A その辺のことはよく覚えていないが、彼はアマチュアとして美術の鑑識眼がありオランダで一番有名な画家のレンブラントの絵を借り出して、日本に持ってきたような話もありました。あれなんかは経済交渉でヨーロッパに行った時に、ついでに持って来たということだった。そんな話は幾らでもあるが、彼が何といっても人物だったのは、勲一等の勲章を断わったことでしょう。

F その話は夏目漱石の文学博士の辞退と似ているし、叙勲を拒絶して石見の人として死んだ森林太郎と同じ動機なら、その心意気は大いに評価していいですね。
 勲章が欲しくて社長や会長の座にしがみつく、財界の老害族たちに対しての教訓として、木端役人に尻尾を振るなという意味で、それくらいは社史に書いたらいいのに・・・。

 
 ★世代の変化で断絶する意識

 
A そんな叙勲は個人の問題で大して意味はないが、マグローヒルやダウージョーンズとの提携交渉は、彼が精力的にやって実現したのであり、今日の日経の発展への布陣になっています。それだのに、彼が死んだときの日経の死亡記事でさえ、中国やソ連のことばかり書いてあって、アメリカに関しては一言も触れていなかった。
 彼が社長になって最初に取り組んだのがマグローヒルとの提携の話であり、向こうが対等出資と主張したのに対して、日経が51%を握ることで押し通したし、最初の1年目から黒字にしている。それにダウ・ジョーンズと広告提携をやって、日経の国際化を実現しただけでなく、日本経済研究センターために大貢献しているのに、そんな事実もあの社史には全く書いてないんだな。

F 世の中なんてそんなものと違いますか。それに日経は社史に対して大きな発言をしていて、各社の社史について色んなことを言っているのに、自分の所の『日本経済新聞社110年史』の出来具合は、実にお粗末な印象を与えるのは皮肉ですね。

A われわれOBがあの社史を読んだ感じでは、あんな無味乾燥な内容のものしか作れない所に、現在の日経の不甲斐なさが象徴されている。

F 果たして、円城寺路線の影響なのかは分からないが、倫理観に欠け何が重要かの識別力に乏しく、広告主や権力者に追従するだけという感じであり、日経人の主体性の無さが目立っていました。また、後継者の育成が指導者の資質という点でも、その欠陥がずっと続いているみたいであり、出世した連中には碌な人材がいなかったと思います。

A いつもながら手厳しい批判だが、今の発言はやけに激しいじゃないの・・。
 それに最近のことになると愚痴に聞こえて嫌だが[明治は遠くなりにけり]という言葉と同じように、何となく円城寺が築いた時代は去った感じで、ダウ・ジョーンズとの関係もギクシャクしているらしい。だから、アメリカ側は全くけしからんといった調子で、日本の役人と同じ口調で相手を見下し、[経済大国日本]という鼻息ばかりが強い。しかも、若い人たちがアメリカさんと一緒にやったのでは、出世の妨げになると考えるようになり、そんな判断で経営するのがいいと考えるなら、われわれ老兵は消えて行くしかないね。

F しかし、口をつぐんで消えて行かないで欲しいですね。

A そう言われると、黙っていられなくなる。挑発された勢いでこの際つけ加えてしまうと、われわれの後輩たちが作った社史にしろ、あんなものなら出さない方がマシだというのが、わが日経の情けない社史の実態なのです。

 ************

 

 第一章  <了>

 第二章『読売王国を築いた巨魁の奇吊な足跡』
 へ <続く>。

 


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