カウンター 読書日記 ●朝日と読売の火ダルマ時代(4) ― 第一章 <続>
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●朝日と読売の火ダルマ時代(4) ― 第一章 <続>
 
 ★大阪の朝日と東京の読売 

 
 大阪で1879年(明12年)に創刊した朝日は、報道を中心にした小新聞として始まり、最初は4頁で印刷は3000部だったが、商都の情報紙として着実に発展している。
 朝日が発展したのは社主の村山竜平の経営手腕であり、そのことを田中浩は『近代日本のジャーナリスト』(御茶の水書房)の中で、次のように分析している。
  [村山竜平は1881年(明14年)木村平八から朝日新聞を譲渡されて以来、一貫して新聞経営に専念し、同紙を日本の有力紙に発展させた。新聞を一つの営利事業として確立した最初の人物ともいえる。 (中略) 村山は自らの理念的新聞像を高く掲げたり、あるいは新聞の営利性を強調して、率先指導するタイプの経営者ではなかった。彼は自らはくを語らず、様々な人材を使いこなし、組織化することによって朝日新聞を形成していったのである」
 こうして大阪で始まった朝日は1883年(明16年)に、発行部数で全国第1位を達成したし、1888年(明21年)に東京の[めざまし新聞]を買収して、それを改名して京橋で東京朝日の創刊が実現した。だが、朝日は新聞としてあくまで大阪本社が主体で、社説も大阪と東京では異なっていた。また、1940年(昭15年)に全体が朝日を名乗ったが、戦時下の統一まで縮刷版も二本立であり、1942年(昭17年)になって政治の中心の東京版だけになっている。
 それに対して、1874年(明7年)に東京の虎ノ門で創刊された読売は、一般庶民や婦女子を対象に娯楽を売物にし、口語体で総ふりがな付きの文章を持つ新聞として、日就社という会社が印刷を開始した時に、読売新聞としての歴史が開始している。
 読売という新聞名を決める前に議論百出で、『通俗新聞』、『ふりがな新聞』、『やわらぎ新聞』、『おみな新聞』といった具合であり、いかにも庶民向けのアピールを求めたかは、このエピソードが歴史を生き生きと伝えている。
 読売は一時期、全国一の発行部数を誇ったが、『読売新聞八十年史』にある記述によると、1889年(明22年)に初代の子安峻社長に替った本野社長は、月に二、三度しか出社しなかったようで、経営的には一発屋に近い体質を持っていた。
 それでも、教育者の高田早苗を初代主筆にした読売は、彼の持論の[社会に先立つこと一歩なるべし、二歩なるべからず]に従い、漸進的な姿勢で大衆文芸を中心にして、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴などに執筆させ、文芸物で売る大衆新聞作りに専念した。
明治の前半期の新聞には二つのタイプがあり、一つは政治的な主張を前面に押し出したので、大新聞(おおしんぶん)と呼び慣らわされ、主筆の大記者の論説を売り物にしていた。そこに陣取って格調高い意見を書いたのは、新政府に仕えるのを潔く思わない幕臣を始め、自由主義者や民族主義者などが中心だった。だから、反政府の論調や権力の不正追及を主体にして、厳しい批判の矢を権力者に浴びせたので、大新聞に対しての弾圧は非常に苛酷になった。山県有朋は新聞条例を使って徹底的に締め上げ、言論の取締りではなく撲滅だと言われたが、発行停止を始め罰金や入獄で言論攻撃をしたために、多くのジャーナリストが刑務所暮らしを体験している。
 明治半ばまでの大新聞としては、前島密の『郵便報知』、福沢諭吉の『時事新報』、島田三郎の『横浜毎日』、秋山定輔の『二六新報』、中江兆民の『東洋自由新聞』、犬養木堂の『民報』、末広鉄腸の『曙新聞』、陸褐南の『日本』、徳富蘇峯の『国民新聞』、福地桜痴の『東京日々』などがあり、紙面を使って言論活動を賑やかに展開した。
 それに対して別のタイプの小新聞(こしんぶん)は、ニュースや世間の噂話を中心に編集され、続き物の講談や小説で商業主義を指向した。大阪の朝日や東京の読売は共に小新聞だったが、マイナーという意味を持つ小新聞の仲間には、成島柳北の『朝野新聞』、黒岩涙香の『万朝報』などがあった。
 大阪で生まれた朝日と毎日は東京日々と共に、明治の半ば頃の日本の3大新聞を構成したが、東京の3大紙は『東京日々』、『朝野』、『報知』の各紙である。だが、日露戦争の直前に『二六新報』が急伸して、それを『万朝報』と『時事新報』が追ったが、[弱きを助け強きを挫く]を掲げた『二六新報』は、桂内閣と右翼の暴力で潰されてしまい、その勢いを使って日本は日露戦争に突入した。

 
 ★東京に乗りこんで制圧した[朝日]の路線 

  
 戦争は常に巨大なニュース性を提供するので、日露戦争は読者の関心を大きく掻き立て、販売部数の飛躍的な発展をもたらせた。だが、この戦争は政府内部にも意見の分裂が起こり、それを反映して言論界も混乱して分裂した。対露開戦を主張したのは東京朝日を始め、 『時事新報』、『日本』、『国民』、『大阪毎日』などであり、『万朝報』、『毎日』、『東京日々』などが開戦反対を論じ、途中で開戦論に転じた『万朝報』から分裂して、内村鑑三たちが 『平民新聞』を旗揚げしている。
 この頃の東京朝日の主筆は池辺三山であり、熊本生まれの彼は[肥後モッコ]の国権派として、杉浦重剛を起用して論説を書かせたし、好戦的な論調で強硬路線を推進した。読売も強硬論の仲間に加わっていたが、文芸物を得意にする弱小新聞に過ぎず、その影響力はほとんどないに等しかった。
 しかし、社会部長に島村抱月や徳田秋声を置いて、自然主義文学を推進した伝統の影響で、文化新聞としての雰囲気を維持しており、記者だった青野李吉は『ある時代の群像』の中に、[この社の新聞は日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか科学とか婦人問題といった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払っていた。だから、Y新聞といえば文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた」と書いている。
 日露戦争が終わると新聞の低迷が始まったが、それは言論の封殺と緊密に結びついていた。日露講和条約に反対した焼き討ち事件や、政府批判の急先鋒の平民新聞を潰して、大逆事件をデッチ上げる準備をするために、政府が徹底的な弾圧政策を進めた状況を、春原昭彦は『日本新聞通史』(新泉社)に次のように書いている。
 [政府の新聞取締り政策もこの時期に完成した。明治42年(1909年)5月、政府は 『新聞紙法』を改正公布したが、これは従来の新聞紙条例を改悪し、発行保証金を倍額に 引き上げ、明治30年に廃止された行政処分による、発行禁・停止条項を復活するという苛酷な法規だった。新聞関係者はその後この新聞紙法の改正を求めて、繰り返し議会に改正案を提出するが、華族・絶対主義官僚を中心とする貴族院は、そのつど改正案を否決し、日本が第二次大戦に破れるまで、この新聞紙法は長く言論界を支配してきたのである」
 日露戦争の後の売上げの低落をカバーするために、各社は新機軸を打ち出さなければならなかったが、一部には悪徳行為に走る記者も輩出した。
 山本武利は『新聞記者の誕生』(新旺社)の中に、[一般人に厳しく同業者の罪悪に甘いというのは、この頃顕著になった。新聞社間の企業競争は激しかったが、それと同時に同業者意識も高まって、他紙を仲間と見なしてかばい合い、なるべく業界内のスキャンダルを報道しないという習慣も定着してきた]と書いている。
 小新聞のまま東京の地方紙に留まっていた読売は、文芸路線で成功して新主筆の竹越三叉を迎え、夏目漱石にも執筆を懇願したが断わられている。また、小新聞から中新聞にと展開を遂げた朝日は、自己の理念的な新聞像を持たない村山に率いられ、大新聞と小新聞の長所を生かす路線で、マーケットの拡大を第一目標に躍進を続けた。
 そして、夏目漱石が東大教授を辞めて朝日の社員になり、『虞美人草』の連載を開始するまでになった。また、この頃の[東京朝日]の文芸部員の中には、ロシア語に堪能な二葉亭四迷、がいた上に、校正部には詩人の石川啄木も在籍していた。
 それに加えて、[抵抗の新聞人]として戦時中に令名を高め、『信濃毎日』に桐生悠々ありと言われた若き日の桐生が、大阪通信部員の肩書きをもって東京で働きながら、優れたジャーナリストから薫陶を受けていた。晩年になって書いた手記の中で桐生は、[『大阪朝日』には鳥居素川や西村天囚という大スターが、二つの覇権を競っていたのに対して、『東京朝日』には主筆の池辺三山が君臨し、社会部長に渋川玄耳、昼の編集局をとりしきる整理部長に佐藤真一、夜の整理部長が弓削田精一、そのもとに杉村楚人冠、鈴木文治、松崎天民、中野正剛、美土路昌一、安藤正純といった若いそうそうたる論客が、デモクラティックな社風を形づくっている。半井桃水は社会部に席がありながら社に顔を出したことがなく、ロシア語に精通する社会部在籍の記者だった、長谷川二葉亭や大庭柯公からロシア語の手ほどきを受けて、ゴーリキーが読めるようになった」と回想している。
 これは充実したスタッフを持つ東京朝日が、絶頂期を迎えていた時代の光景であり、それに対して読売は低迷の中で喘ぎ続け、社主の本野子爵家の私有財産だったので、放漫経営のため公称5万でも実売は3万部だった。明治が幕を閉じた段階での新聞の勢力争いは 『東京朝日』、『東京日々』、『時事新報』の順であり、『中外』に続いて『読売』は9位に位置していた。

 
 ★政府と新聞の対立と大正リベラリズム 

 
 大正に入ると東京の大新聞が次々に姿を消し、大正リベラリズムで新聞界に大きな変化が起きた。ストリンドベリーに造詣の深い柴田勝衛が、新人の発掘に対して積極的に動いたので、読売のプロレタリア文学は文芸復興の象徴になる。そして、権力者から反体制の新聞だと睨まれた読売は、数年後の山本内閣の時に陸軍が買収を試み、御用新聞にしようと考える対象にもなったが、経営は低迷して苦しい状況に陥っていた。
 右翼的な論陣の国民新聞の伊達源一郎編集局長が、読売の主筆に送り込まれて内部の混乱した点について、『読売新聞八十年史』は次のように書いている。
 [軍部から財政的援助をうけ、宣伝機関として動くようになると、文学新聞の看板が邪魔になりこの伝統を潰そうとする傾向が、伊達主筆とその一派に強くなり、かくして、伝統を守ろうとする社員との対立、が深刻になってきた。その頃は日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社内にも自然発生的にはいりこんできて、読売はその最先端のように見られた。伊達一派の軍国主義的な色彩が濃厚になり、伝統派を次第に圧迫して行くと、伝統派はこれに対抗して、ストライキ計画の運動を展開した。こうした分裂騒ぎの中でストライキ計画が起き、その混乱で本野家は株を財界人に売却したので、郷誠之助などが結集する工業倶楽部が、読売の新しい大株主として登場した。1914年(大正3年)に起きたシーメンス事件の時には、新聞があげてこの収賄事件の追及に乗り出したので、政府弾劾の世論が高まって山本内閣は瓦解した。また、1916年(大正5年)に誕生した寺内内閣は、警察中心の弾圧政治で民衆運動に対抗し、専制支配に不利な思想を徹底的に弾圧して、言論や出版に対して厳しい取締りを行った。
 東京と大阪の一本立て路線の朝日の場合は、東京では池辺三山が保守的な路線を取り、大阪では島居素川が進歩主義を売り物にして、大正リベラリズムの動きに対応していた。だが、池辺派の松山政治部長と反対派の渋川社会部長の対立が、朝日全体で西村天囚派と鳥居素川派の抗争に拡大して、進行する第一次世界大戦の中で混乱を続けた。
 同時に、世界大戦で海外ニュースの比重が高まり、朝日は青島作戦に美土路記者を社会部から派遣したので、この時期に新聞社の社会部が充実した。そして、長谷川如是閑を始めとした社会部長が生まれ、社会問題への組織的な取り組みも本格化して行く。
 第一次世界大戦が進展してしる時代性の中で、大阪朝日は河上肇の『貧乏物語』の連載を始めて、読者に絶大な感銘を与えたために、ロシア革命の影響を恐れた寺内内閣は、警察力を動員して言論弾圧を加えた。強圧的な寺内首相に対して鳥居主筆は、「妖怪の出現」と決めつけて対決の筆を取り、大阪朝日と政府の対立は激化の度合を強めたのである。

 
 ★朝日を痛打したと白虹事件 

 
 1918年(大正7年)にシベリア出兵を当て込む買い占めで、米の値段が暴騰したために富山県で打ち壊しが起き、たちまちのうちに全国に米騒動が広がった。警察だけでは足りないので軍隊まで出動したために、寺内内閣は世論の激しい攻撃を恐れて、ニュースの掲載を全面禁止にしたので、各地で新聞記者たちの抗議集会が聞かれた。
 大阪ホテルで開催された関西記者大会では、内閣弾劾と言論擁護を決議したが、会場にいた記者の一人、が[白虹が日を貫いた]と叫んだとして、それを大阪朝日の夕刊が記事に取り上げたので、それが白虹事件を誘発することになった。
 [・・・食卓についた来会者の人びとは、肉の味、酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持ったわが大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではないだろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆候が、黙々として肉叉を動かしている人びとの順に雷のように閃く・・・]
 寺内首相の意を受けていた後藤新平内相は、かねてから大阪朝日の弾圧を狙っていたので、大阪府知事から内命を受けた検察や警察が、朝日の記事を監視していた時でもあり、警察部新聞検閲係長はこの文章を読み、内務省警保局に連絡して発売禁止処分にした。しかも、記事の内容が内乱の起きることを意味し、皇室の尊厳を侮辱したと難癖をつけて、政体を変改し朝憲吝乱事項の記載容疑で、大西記者と山口発行人を検事局が起訴した。

 普通の発禁なら取り調べは区検の検事だが、この時は地検のベテラン検事に担当させたように、新聞の発行停止を狙っているのは明白だった。朝日はこの件に関して報道しなかったが、毎日がスクープしたので右翼が騒ぎだした。
 そして、3日後に村山竜平社長が中之島公園で右翼に襲撃され、人力車を引っ繰り返した暴漢たちは、引きずり出した村山をフンドシで木に縛り、[天に代わって国賊を誅す]と
書いた紙を張りつけたが、こうして新聞への右翼テロの時代が始まった。
 この辺の事情と時代性の関係については、[この頃から現れた国粋運動が新聞にホコ先を向けるようになって、暴力ははじめて質の悪い野心や私人の道具となり、ついには愛国や尊皇を売り物にして新聞の欠点を探し、金儲けの道具とする悪質暴力の横行まで見るようになった。(中略)
 彼らの得意先は新聞社であった。新聞の誤報や校正の誤りを探し出しては、文句をつけて恐喝するのである。新聞が応じなければ暴力を振るって多少の金銭以上の損害を与える。弱腰の社は面倒を恐れていつも若干の厄払い料を提供、これらが遂には競争相手を倒すために、逆に彼らを利用する堕落幹部さえも現れるに至った]ということを、『日本新聞百年史』(百年史刊行会)は記録している。

 こうした時代の風潮に押し流された朝日は、新聞を潰すつもりでいた政府に恭順の意を表して、村山社長が辞任して上野社長に交替する。その結果、鳥居素川を始め松山忠二郎、長谷川如是閑、大庭柯公、大山郁夫、丸山幹治、花田大五郎などの50人余りの記者が朝日を去り、鳥居派に代わって西村天囚派が復活したが、論客を一挙に失った朝日の紙面は目に見えて低下した。こうして、政府は朝日を潰すことは出来なかったが、批判精神を持つ編集部が保守派に入れ替わったので、体質の変化と牙抜きに政府は成功した。
 西村派の復活が緒方竹虎や中野正剛を励まし、福岡出身の二人は古島一雄を通じて玄洋礼に繋がり、朝日は右翼の黒竜会と密着することで、海外侵略を支持する路線を取るようになる。それは大陸経営を旗印にした膨脹主義であり、昭和ファシズムと呼ばれた軍国路線への追従であった。

 *************

  第一章   続く。




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