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●朝日と読売の火ダルマ時代(3) ― 第一章  
 
 ●第一章『朝日と読売の運命的な競合と一体化の軌跡』
  ― 社史で読むメディアの半生と白虹事件の教訓 

  
 ★販売戦で新聞戦争の雌雄を決める虚像 

  
 日本の新聞としてトップの地位を手に入れるために、血みどろな抗争を続けた朝日と読売は、発行部数では読売が朝日を抜き去って、1000万部という大台の水準をいち早く記録した。「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」と胸を張った務台販売部長に率いられ、強引な押し売り路線で発行部数を伸ばし続けた読売なら、第三者にスマートに見えるスタイルを売り物にする朝日を抑え込み、発行部数の競争で新聞業界のトップに立つの               は、それほど難しいことではなかった。なにしろ、発行部数はあくまでも印刷した量であり、記事を読むために購入した部数を示すものではないからだ。
 だから、発行部数という数字は水ものであり、印刷した部数は販売部数と直結しておらず、この世界には[押し紙]という奇妙な習慣がある。それは販売店に強引に押しつけて引き取らす新聞で、一般に発行部数の一割前後に達しているから、公式に発表されている発行部数の実態は、実際に購読された数字を意味していない。
              
 新聞が資本主義的に経営されるようになり、広告が主要な収入源になるに従って、発行部数の多さが広告料金の決め手になるし、★広告収入が少ないと経営が安定しなくなる。購読料は経費の一部をカバーしているに過ぎず、新聞社の売上げの大半は広告収入に依存しており、広告代理店が紙面を買い切っているために、現在では★電通などの大手の業者の発言力が大きく、広告する側の影響は拡大の一方である。
 そのために新聞の販売競争は熾烈をきわめ、組員を使って展開して来た販拡のノウハウは、新聞代に匹敵する景品の石鹸や催物の入場券(*ブロガーの体験では、商品券、ビール券、電気毛布・・・朝日)を使い、3カ月だけの購読で結構だからと言って、発行部数の拡大を目ざし購読者を勧誘したりする。こうした手口は時には暴力沙汰に結びつき、販路拡大をめぐる新聞戦争と呼ばれているが、業界の不祥事については報道しない体質のせいで、この種の事件は新聞記事として取り上げられない。
 このような苛酷な部数増大を目指した競争が続き、最後に生き残ったのが読売と朝日の2大紙で、毎日は競争に後れをとって脱落し、経営的にも非常に苦しい状況に陥っている。販売部数が朝日や読売の半分以下という、毎日やサソケイが計上する広告収入は、おそらく10分の1だろうと言われているのであり、発行部数は広告収入を支配している。
 部数の多さが経営内容に大影響を与えるので、この経営神話にトップが取りつかれているため、朝日と読売は長らく泥試合を続けて来た。また、日本には真の意味の財団が存在しないので、巨大な影響力と商社的な多角経営を営む新聞社は、催物の主催や後援にまで手を染めており、それが販売政策のバックアップになっている。

 このような言論よりイベント指向を通じて、売上高の拡大を追求している大新聞の姿勢 は、たとえ日本一の新聞という形容を使うにしろ、世界的に見ると特異な体質といわざる を得ない。しかも、ジャーナリズムとは無関係な子会社を抱え込み、日本的な系列体系を持つ関連会社を支配して、営利事業や天下り先を確保しているというのは、どう考えても公共的な報道の仕事とは整合性を持たない。
 それにしても、日本という共同社会の在り方や理想と結びつく、理念に支えられた言論活動やビジョンと無関係に、営利事業を通じて利権を拡大する新聞社が、その一方でメデイアを通じてビジネス行為を営み、発行部数で日本一の新聞を誇って良いものだろうか。
 早版の★交換による画一的な紙面作りをしたり、景品や価格競争をしている実態が背景にあるから、日本一の新聞という肩書きを誇っても、誰もそれを額面通りに受け取らないはずだ。なぜなら、世界の常識に従えば質と量は反比例するし、クオリテイ紙は適正部数の枠と結びつくものであり、個性的な論調と報道姿勢が決め手になるが、日本ではこの原理は全く機能していないのである。

 
★世界における一流紙の条件

 
 フランスの一流紙といえばルモンドであり、その発行部数は40万部前後であることは、毎日印刷されている発行部数の数字が示している。それに較べてフランスで最大の部数を持つ、パリ・ソワールはその五倍の発行部数だが、誰も一流新聞であると評価していないのは、新聞の価値が記事の質に関わっているからだ。しかも、記事の価値はコメンタリーや解説にあり、ニュースとして事実を幾ら詳しく報道しても、その背後にある全体像を正確に捉えていないなら、ページ数だけが多い質より量の報道に過ぎない。
 アメリカの場合も似たようなものであり、ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストは大衆紙ではなく、発行部数は100万部に達していなくても、世界中で一流紙として評価されている。それはニューヨークやワシントンという地方都市に陣取り、コミュニテイに基盤を持つ地方の有力紙として、100万部前後の発行部数を確保するだけでなく、世界に向かって十分な目配りをしているために、国際レベルでの読者を確保しているからである。 世界的という意味では更に凄い新聞があり、その多くはアングロサクソンが掌握しているが、その代表はファイナンシャル・タイムス(FT)とインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(トリッブ)だ。飛行機旅行をしていていつも嬉しいのは、飛行機の中でこの二つの新聞が配られることであり、両紙を読んでいる限りは地の果てに行っても、世界の動きを掴んでいるという安心感を持てる。これに加えてマンチェスター・ガーディアンかルモンドがあれば、世界のことは確実に抑えていると感じるが、ウエーブ(情報)を支配することが決め手になるとして来た、アングロサクソンの情報感覚の威力は絶大だ。ニューヨーク・タイムスとワシントン・ポストの記事を基礎に、独自の取材陣の観察眼を加味して記事を構成し、パリで編集したものを世界各地で印刷して、世界を股にかけて活躍するアメリカ人や、各国の真のエリート層を読者に持つトリッブは、僅か20万部ほどの発行部数にもかかわらず、押しも押されもせぬクォリテイ紙の王者である。
 毎日コミニュケーションズの江口末人元社長のお陰で、その日のものが東京で読めるようになったが、数年前までは帝国ホテルのキオスクに駆けつけて、前日に香港で印刷されたトリッブを読むという、実に情けない毎日をくり返したものだ。こんな酷い情報後進国としての日本の姿が、僅か7年前まで本当に続いていたのであり、日本のエコノミストのほとんどは、せっかく人手できるのにFTやトリッブを読まず、東海岸版のウォールストリート・ジャーナルではなく、香港のアジア版でアメリカ経済を推察し、中には日経しか読まないのが経済大国のトップたちである。
 世界の第一線で活躍するプロにとっては、吟味と選択を施されたFTやトリッブの記事は、ギリギリの所まで引き絞って纏め上げられた、行間に薀蓄を含む洗練された文章を通じて、締まった文体の量より質の醍醐味が楽しい。そういった意味ではマンチェスター・ガーデイアンも流石であり、こんな冴えたコメソタリーの執筆者と同時代に生き、素晴らしい記事を通じて出来事の意味を学び、歴史を捉える喜びを味わうことが多い点で、発行部数の少ない新聞の珠玉の輝きを実感する。その点で読売が1000万部を越えたこと自体が、きわめて異常な事態だと考えるべきであり、新聞が巨大な発行部数を誇って競い合うことは、他の文明諸国では類例の無い特異な現象である。

 
 ★官報が死語化した日本のジャーナリズム

 
 これは『日本が本当に危ない』(エール出版)で紹介したエピソードだが、ある国に招かれて講演をした後で日本に立ち寄り、英文日経の★大原編集長(*2月1日の記事参照)を訪ねた時のことだ。もう15年以上も昔の話になるが、開放的で賑やかな雰囲気を好む編集長は。「藤原さんが特ダネを持ってきたから集まれ」と記者たちに声をかけ、ビールを飲みながら私の話を聞くことになった。そこでよその国の報道や情報関係者を相手に、日本の新聞の品定めをした話を紹介して、「朝日は官僚的なエリートの官報、毎日は社会派の官報、読売は無学な貧民の官報、サンケイは中小企業の親父さんの官報、日経は財界の官報だと説明した」と喋ったところ、「カンポウ、カンポウつて言いますが、どうして新聞が漢方薬と関係があるのですか」と若い記者が質問したので、皆が唖然として顔を見合わせたことがある。
 まるで嘘のように思える驚くべき現象だが、これは実際に身をもって体験したことであり、官報という言葉が死語になりかけているのだ。ジャーナリズムの世界で生きる以上は、たとえ古くても官報という言葉は常識であり、そのような素養を持ち合わせないで記者に なれば、報道の仕事では責任を果たすのが難しくなる。そして、そのような自覚を持ち合わせないならば、高度な公器性を認められているジャーナリズムは、自らの信用と最低基準の品性を損ない、堕落と腐敗が蔓延するのが当然になる。
 かつて大蔵省の主計局を訪れた時に、机の脇にマンガ週刊誌があるのを目撃して、それまでエリートぶる彼らに対して抱いていた、いわれのない敬意が雲散霧消した経験があり、それ以来は電車の中でマンガを読む大人に対し、私は現代における賎民だと考えることにした。プライベートな場所で個人は完全に自由だが、敬意を払われる社会的な立場にいる人は、公的な場で己を律する責任があり、それで権威は保証されると考えるからである。
 世界の主要5大紙と社説交換の実績を持ち、世界の「トップ10」新聞にノミネートされた朝日は、量よりも質という路線を看板に掲げてきた。読者も朝日の先輩が築いた伝統を理解し、総合性と批判精神に支えられた姿勢に期待して、読者であることを誇りに感じる者も多い。これも良い意味での伝統が権威と結びつき、読者の信頼をかちとった結果であるが、信頼を損なうような軽率な行為を犯したり、信賞必罰の厳しい自己管理と規律が崩れれば、信頼も権威も雲散霧消してしまう。
 だが、敗戦から50年という時間の経過を通じて、硬直化して官僚的になった日本の社会は、豊かさの中で理想やチャレンジの精神を失い、制度疲労が新聞界にも反映するに至っている。しかも、単なる腐朽化や制度疲労にとどまらず、規範溶解によるアノミー(連帯の消滅)に至れば、これはどうにも救いようがない。
 それにしても、朝日の紙面が急速にかつての特性を喪失して、冴えた批判精神に代わって迎合主義が台頭し、〔朝日の読売化〕と形容できる状況が目立つが、これは幼少期の獲得形質の影響ではないだろうか。また、獲得形質についての考察をするためには、歴史を鏡に使った診断が不可欠になるのである。

   第一章  続く。 

 

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