カウンター 読書日記 *続・落合論文
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


*続・落合論文
(3)ー5)
 上原勇作の上京の陰にあったギンヅルの指示
 

 
 明治2年7月、都城藩主・島津久寛(安政6年生まれ)の鹿児島遊学が決まり、学友に選ばれた勇作は造士館で文武の研鑽2年間に及んだ。
 14歳の勇作に、ギンヅルが上京を強く勧めたので、勇作は学問のために上京を決意する。(明治4年12月)

 明治4年4月、新政府は兵権統一のため直属の親兵を設け、東西に鎮台を設置する。薩摩・長州・土佐の三藩の兵を充てることになった。 
 このとき、薩摩藩の三番大隊附の教頭として30歳の野津道実(1841~1908)が出仕する。
 野津は明治4年7月23日を以って陸軍少佐に任命されたが、鹿児島城下から連れて行った人材の多くは文武官吏に登用され、軍人に欠員が生じた。そこで今度は、支藩からも人材を徴募することとなり、これに応じて勇作の兄・龍岡資峻らが上京した。
 資峻は慶応4年の戊辰戦争に二番組頭として従軍、奥州を歴戦して帰国し、翌明治2年には大隊長となり、都城藩の家老職に就くが、同年兵制が改まり、小隊長に下げられた。
 明治4年8月、軍職を辞して上京し、御親兵の第二大隊に編入される。

 兄・資峻は、野津の一歳年上である。(天保11年=1840、生まれ)
旧藩における地位は組頭や大隊長で、野津の鹿児島藩での地位と同等。資峻は、明治5年に陸軍・伍長に任ぜられ、西南戦争従軍中に中尉に昇進、明治17年には大尉に昇ったが、22年に50歳の満期となり、後備に編入された。退職・恩給の年額345円は当時としては、結構な金額である。明治26年1月23日死去、青山墓地に葬られた。

 この兄・資峻の出仕に刺激された勇作が、自ら上京の志を抱き、そのための旅費の都合をつける事情などを『元帥・上原勇作伝』は詳細に語るが、どこまで本当かは分からない。

明治4年の暮に上京した勇作はが落ち着いた先は、野津道貫邸である。
兄・資峻の住まいがあるにも関わらず、野津邸に下宿した経緯を『勇作伝』は、「・・伍長の官舎では狭すぎるから・・」と説明するが、これが本当の理由ではない。

 勇作が野津邸の住み込み書生となったのは表向きで、実はギンヅルの指示により、野津と同居していた高島鞆之助を頼ったのである。
 高島は野津より3歳下の従兄弟で、二人は極めて仲がよく、麹町区下二番地の邸には野津夫妻、高島夫妻、高島の母貞子の他に使用人と書生ら、合わせて18人が暮らしていた。
 野津邸とはいうが、両家はここで共同生活をしていたのである。

  
 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/92-ac33e39c



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。