カウンター 読書日記 ●持丸長者-幕末維新篇
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●持丸長者-幕末維新篇
 
 ★新政府に謀殺された幕末の偉才 

 
 このようにして外国商人の魔手から日本経済を守った天才策士・小栗が帰国したとき、日本にとっては幸運にも、彼を引き立てた井伊直弼は水戸藩と薩摩藩によって桜田門外で処理されてすでにこの世になかった。初代外国奉行の堀利煕が老中・安藤信正と激論して万延元年(一八六〇年)に切腹自殺したあと、小栗が後任の外国奉行に任じられて要職に就き、以後、江戸町奉行、歩兵奉行を経て、元治元年八月十三日(一八六四年)勘定奉行・小栗上野介忠順となった。さらに軍艦奉行から再び勘定奉行に戻って幕府の経済政策建て直しに数々の知恵を絞り、慶応二年八月(一八六六年)には海軍奉行を兼務、同年十二月に陸軍奉行も兼務して、勘定・海軍・陸軍を握る徳川政権第十の実力者となった。この任期中の業績として最も大きな足跡を残したのは、慶応元年(一八六五年)に造船所の建設を進言して、横須賀製鉄所を建設したことである。また翌慶応二年、従来のがんじがらめの幕府の統制を解除し、横浜・長崎・箱館における諸藩の自由貿易を認めて、武器と軍艦でさえ運上所に届け出れば購入してもよいと、各藩に対して、外国から近代化の道具を購入するよう奨励した先見性にある。

 小栗が建設した製鉄所とは造船所をめざしたものであった。そのため、勘定吟味役の小野友五郎を迎えてプランが練られた。日本最高の天才的な数学解析頭脳と航海測量術をもって咸臨丸の航海長をつとめた男だ。ここに、箱館で医学院の建設、薬園・病院・水道・養蚕に多大な功績を挙げた軍艦奉行・栗本鋤雲を実務者とし、総監督としてフランス海軍技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーを迎えて詳細がつめられ、軍艦奉行・肥田浜五郎が、製鉄所で使う工作機械を担当した。小栗は選りすぐった六五人の技術者と二五〇〇人の労働者をこの製鉄所の建設にあてるほど、力を入れた。後年の歴史では、明治維新の下に埋もれた名前ばかりだが、まぶしいほどの才人が揃っていた。横須賀だけでなく、長崎造船所がアジア最大の能力を持つことができたのも、ヴェルニーが建設に参加したからである。

 肥田は、当時の洋式造船技術のなかで日本人が遅れていた蒸気機関という動力について、長崎海軍伝習所の第二期伝習生として共に学んだ榎本武揚と共に、日本最高の実践的製造技術を持っていた。高島秋帆の弟子だった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門に蘭学を学んだ肥田は、小野と同行して咸臨丸の機関長をつとめ、二人でサンフランシスコのアメリカ海軍工廠で造船現場をつぶさに観察し、精密機械の工作技術を正確に盗み取ると、そこに江戸時代の職人技術を活かして、日本独自の機械工作技術に育てあげたのである。明治・大正から、戦後日本が中小企業の町工場から技能オリンピックで優勝する世界屈指の精密機械工を次々と生み出す礎は、こうして肥田浜五郎によって着々と築かれることになった。

 横須賀製鉄所は、機械工場であり、一方ではレンガ製造工場でもあった。日本全土に残る美しいレンガ造りの洋館もまた、ここから始まったと言える。同時に学校も経営する広大な技術者養成所としての企画が進められ、フランス語も教えられた。小栗上野介はさらに築地ホテルを清水喜助に建設させて、現在の大手建設会社・清水建設誕生の出発点をつくった。同じ開港時期の万延元年(一八六〇年)に横浜に進出した鹿島岩吉が、横浜随一の外国貿易商である英一番館と米一番館を建設し、ここで洋風建築に先鞭をつけ、明治十三年に鹿島組を創立して、現在の大手建設会社・鹿島が生まれた。清水も鹿島も腕利きの大工であった。

 小栗は、横浜にフランス語学校を設立し、日本最初の株式会社・兵庫商社を設立して郵便制度と鉄道の建設計画を推進し、慶応三年には、関西ではこの兵庫商社(鴻池)が、また関東では三井の手を通じて「金札」という紙幣発行に踏み切った。関ヶ原の戦い以来、江戸幕府として初めての紙幣発行である。

 だが、パリ万国博覧会に日本代表を送り込んだところで、幕府瓦解という事態を迎えることになった。横須賀製鉄所はドックが完成しないうちに明治政府の手に委ねられ、横須賀造船所から海軍工廠へと変貌を遂げることになった。レンガ製造技術は、わが国化学の開祖と言われる宇都宮三郎によって明治時代に品川白煉瓦会社と浅野セメントの誕生をもたらした。郵便制度は前島密によって築かれ、鉄道建設は小野友五郎らの測量術をもって新橋~横浜問の鉄道敷設へと受け継がれる運命にあった。その時、日本の繊維産業を巨大な金の卵に育て、造船王国・日本を生み出した、持丸長者育ての親・小栗はこの世にいなかった。

 
 小栗上野介は、将軍徳川慶喜が朝廷に恭順することに反対して徹底抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦い直後の慶応四年一月十五日に慶喜から勘定奉行を罷免され、二月には断腸の思いを胸に秘めて、知行地である上野国(群馬県)榛名山西南の麓、群馬郡権田村に引きこもった。最後は閏四月五日に薩長軍に捕われ、新政府に恭順の意志を示すが聞き入れられず、翌六日、榛名湖の南十キロほどのところ、鼻曲山から流れ下る烏川の河畔、水沼川原で斬刑に処せられた。小栗の抗弁を聞き入れずに処刑したのは、新政府軍で岩倉具定(ともさだ)配下の東山道先鋒総督府軍監・原保太郎と豊永寛一郎とされ、処刑を命じたのは官軍の戊辰戦争東征大総督・有栖川宮熾仁と伝えられる。

 
 明治になって大隈重信が、「小栗上野介は謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、そっくり小栗がおこなおうとしたことを模倣したことだから」と語ったと言われる。

 日本経済を救おうと粉骨砕身、精根を傾けた男は、数々の真実と共に、新政府によって抹殺されなければならなかった。 

 
 ●持丸長者-幕末維新篇       <了>。
 

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