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●持丸長者-幕末維新篇
 
 ●持丸長者-幕末維新篇      広瀬 隆  ダイヤモンド社 2007年2月1日 

 第二章 ペリー来航の衝撃  より。 

 
 ★時代に遅れた明治維新の志士たち 

 
 これら幕府の良心となった人間に共通するのは、ただ外交官としての有能な官僚ではなく、民衆の病気の治療や、産業の育成に測り知れない果実を後世に残した人格であった。そのすぐれた人間を次々と処罰追放した安政の大獄は、言うまでもなく、徳川慶喜か徳川慶福かという将軍継嗣をめぐる勢力争いに発端があった。慶喜を将軍に推した人間は、「ロシア人など皆殺しにしてしまえ」というほど過激な攘夷派の徳川斉昭から、その正反対の側に立って開国を主張する藩主や外国奉行まで膨大な数にのぼり、彼らは、攘夷と開国の両方の意見が対立しているからこそ、年長で判断力のある慶喜が将軍となって、自ら幕政を統一して外国の脅威に立ち向かうべきであると主張した。それに対して井伊直弼が慶喜の擁立に反対したのは、年長の者でなければ将軍の資格がないという前例をつくれば、のちに徳川家が断絶する危険あり、という言い分である。しかも彼は、幕府が朝廷の言い分など聞いて政治を決断する必要はないと、独裁権力者として振る舞った。それが彼に後世、間違った「開国功績者」の名を与えたのである。

 井伊が(➔★家定の)次嗣将軍にわずか十三歳、和歌山藩主の徳川慶福(よしとみ)を独断で決定し、慶福が徳川家茂(いえもち)を名乗ると、月明けて安政五年七月五日には、家茂が徳川将軍家を相続した。同日、条約反対を唱えて井伊直弼を難詰した水戸の徳川斉昭、名古屋藩主の徳川慶恕(よしくみ)、福井藩主の松平慶永(春嶽)が隠居を命じられ、将軍世嗣として待望されていた一橋家の徳川慶喜に登城停止が命じられた。開国反対の攘夷派を処断するだけなら釈明の一理もあろうが、気に入らなければ開国派の取り巻きも次々と粛清した井伊直弼のなしたことは、幕府の権威を誇示するための、矛盾に満ちた醜い権力争いだけであり、外国とやりあっているこの時期に、国政に通すべき筋一本さえなかった。

 先に示した年表(*ここでは略)中の◆印の六点は、日本人の大好きなのちの明治維新の志士あるいは明治政府の代表者となる集団が、どれほど時代に遅れていたかを示す。

 岩倉具視は日本の紙幣に肖像画が用いられたことがあり、明治維新の顔とも言える新政府代表者である。実際、岩倉は維新直後から政府NO2である副総裁の位に就き、続いて軍事NO1の海陸軍務総督へ、さらに財務NO1の会計事務総督から、政務NO1の議政官上局議定へと次々に歴任して、ついには外務NO1である外務卿(外務大臣)となり、明治四年には特命全権大使の任を帯びて、不平等条約を改正するためにアメリカ、ヨーロッパを歴訪した。だが、この人物が幕末に何をしたであろう。


 安政五年三月十二日(一八五八年)に、廷臣八十八卿列参(れつぎ)事件と呼ばれる大騒動か起こった。岩倉具視ら八十八人の公卿が日米通商条約に抗議する座り込みをおこない、幕府が開国して通商を始めることに猛烈に反対したのである。開国に反対しても、この時代には、ごく自然な考えであった。阿部正弘によって取り立てられ、のちに初代外国奉行となった水野忠徳は、「日米通商条約による交易にはすぐれた面があり、良策である。しかし、自給自足でしっかりと成り立っている日本が急いで無条件に開国すれば、外国人がやってくるために、民衆の生活の糧を奪われるおそれが高い」と判断し、国民の生活を守るために無条件の開国通商には反対した。これは正論である。ところが、岩倉たちの座り込み通商反対は、まるで違っていた。日本の民衆のことなど眼中になく、自分たち京都の公卿と朝廷の権威が、開国によって失墜することをおそれた保身のための頑迷な攘夷、すなわち外国人排斥、鎖国運動であった。

 さらに、次の老中首座・堀田正睦のもと、日米修好条約が結ばれ、安政六年(一八五九)に長崎・横浜・箱館が開港されても、朝廷と公家の頑迷さは変わらなかった。ヨーロッパ・アメリカとの貿易が大規模に始まって港が活気を帯びた四年後、文久三年(一八六三)になっても朝廷が幕府に横浜の港を閉鎖するよう命令を出し、江戸町奉行が致し方なく輸出を制限して、生糸輸出が激減し、日本の商人たちと、生糸生産地の農家が大きな被害を受けたのである。 

 
 これほど開国に反対した岩倉だが、座り込みから十年後に維新政府が誕生すると、掌を返したように日米通商のために骨折り、特命全権大使としてアメリカに到着するとすぐに髷を落として洋服にネクタイ姿となり、その写真を「新しい日本の姿」だとばかり日本に送りつけた。明治天皇がそれを見て、早速岩倉に倣って断髪すると、日本全土がびっくりしてチョンマゲ姿が激減し、維新政府は「これが文明開化だ」とのたまう。幕末の行動と対比して、何という節操のなさであろう。

 
 岩倉具視だけではない。生糸貿易が始まって四年も経ったというのに、文久三年五月十日には長州萩藩が下関海峡を通過中のアメリカ船、続いてフランス船、オランダ船を砲撃して、逆に反撃されて自滅した。七月二日には生麦事件のため、イギリスと薩摩藩が戦争をしている。ただしこの二つの出来事は性格が違い、長州萩藩の砲撃は、自分から仕掛けた無知無謀な外国人排斥攻撃である。薩摩藩のイギリス攻撃は、薩摩藩主の父で、実質的な藩の実権者だった島津久光の行列が武蔵国生麦村(横浜市)に差しかかった時、横浜在住のイギリス人四人が行列前方を乗馬のまま横切った。これを無礼と怒った薩摩藩士・奈良原喜左衛門が斬りかかり、イギリス人一人が死ぬという生麦事件がその前にあった。島津久光は名君・斉彬の弟であり、喜左衛門の弟・奈良原繁は明治時代に日本鉄道会社社長となり、その息子・奈良原三次は奈良原式飛行機を発明して日本航空界の草分けとして名を成した。かねてから日本の礼節をわきまえず、傍若無人な態度を示していたイギリス人の尊大さに、日本の武士が怒って斬りつけたのも自然と見える。


 この生麦事件の犯人処罰と賠償を求めてイギリス戦艦が鹿児島湾に入り、薩摩の汽船三隻を拿捕したのだから、薩摩側が砲撃で応じ、イギリス側に大打撃を与えたのも当然である。しかし鹿児島城下が焼かれ、薩摩藩の砲台が壊滅した結果、外国と事を構えることの愚かさに気づいた薩摩藩が開国論に転じ、イギリスと手を結んで倒幕に動くことになった。長州も、下関事件と時を同じくして井上馨、伊藤博文らが長崎のグラバーと組んでイギリス密航留学を敢行し、土佐でも、ジョン万次郎の海外思想と世界の大勢を河田小龍から学んだ坂本龍馬と後藤象二郎が、攘夷の愚かさに目覚めることになった。かくて慶応元年(一八六五年)に西郷隆盛が坂本龍馬と京都で会見し、長州との提携が成ったことを、多くの日本人は明治維新成功の最大の転換点とみなして讃えてきた。

 しかし年表(*略)にある通り、
こうした出来事は、幕臣が苦労した一八五九年の開港から見れば、いずれもはなはだしく時代後れの気づき方である。薩摩藩が長州に送り込んだ外国製武器の購入資金を生み出したのは、朝廷が港の閉鎖を迫り、その混乱に乗じて五代友厚と西郷隆盛らが九州海域で巧みに展開した密貿易である。すべては、日本の生糸貿易と近代化が始まってから、はるかにあとの出来事である。維新の志士たちには、開国や貿易開始についてまったく功績のかけらもない。彼らが後年におこなったとされる近代化は、ほとんどが幕府の盗作であった。
 
 ところが維新の志士や薩長土肥の新政府は、こうした先人の労苦に後ろ足で泥をかけ、奥羽越列藩同盟と呼ばれた地方の農民が生糸の生産に果たした血のにじむ努力に報いるどころか、その地方に残忍な攻撃を仕掛けた。それが戊辰戦争の東征であった。そうして生糸貿易であがる利益を、自ら明治政府の資金源としている。恥ずかしいほどの不条理である。「幕府」対「朝廷」という武家社会の武力闘争を持ち込むことによって、民衆の救済に奔走していたすぐれた人間の行動がどれほど妨害されただろうか。

 病気の治療に専念していた医師・松本良順たちが烈しい怒りを覚えたのは、そのことであった。長崎に養生所を開いて貧民への治療を始めた良順の怒りは、東北を攻撃する新政府軍に向けられ、医師として自ら会津戦争に飛び込んだ。慶応四年四月、会津籠城を決断して、同志と共に会津城内に野戦病院を開設して、新政府軍の攻撃にさらされる東北軍の治療に奔走したのが松本良順であった。会津鶴ヶ城が落ち、最後には横浜で潜伏中に捕縛され、死一等を減じて禁錮の判決を受けたが、明治六年には、良順の優れた能力を求める政府によって初代陸軍軍医総監として明治政府医療界の最高位に迎えられ、戊辰戦争で開かれた会津野戦病院が日本の陸軍軍医制度、事実上の日本の国家医療制度の濫觴となったのである。親しい市川団十郎に牛乳を飲ませて牛乳を飲む習慣を日本に普及させ、大磯海岸を宣伝して海水浴という習慣を日本に定着させた功労者、それも松本良順であった。

 つまり腐敗した幕府上層部と井伊直弼、新撰組、尊皇攘夷の志士いずれも、日本の宝である農民、職人、商人、医師という民衆の生活が眼中になかった。剣を振り回し、鉄砲の威力を誇示する無用の闘い(内戦)を展開した出来事の数々が、ほとんどの歴史物語で、日本人の生活の焦点を見誤って美化された、武士を中心としたストーリーなのである。

 さて、ここで年表に疑問が出てくるのは、幕府の経済政策で最大の功績をあげる勘定奉行・小栗上野介が、悪漢井伊直弼の安政の大獄の中から台頭した人物だということである。小栗とは、どのような存在だったのか。

   続く。

 ➔★家定について参考。

  

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