カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1

  -公武合体に淵源した明治維新の展開を敷衍する 

 
 ★新井白石が唱道し阿部正弘が実行する 

 
 先月稿は、『文藝春秋』昭和十五年十一月号所収の白柳秀湖論文「明治維新の三段展開」を引きつつ、明治維新の根底が公武合体の政治理念に淵源することを述べた。今月も引き続きこれを敷衍していく。

 江戸幕府の開祖・徳川家康から秀忠・家光と続く三代は、貿易統制を主眼とした鎖国政策を実行するために、半ば郡県的な封建国家体制を樹立した。その拠って立つ重農主義的財政基盤は、滔々として浸透する貨幣経済との間の矛盾によって早晩破綻を免れぬもので、そのことを先見する人士がやがて閣老の中にも出てくる。十八世紀の初頭、六代将軍家宣の重臣・新井白石は、国家体制を封建制から近代制に改めるための政治理念として公武合体論を唱えた。白石の論旨は「上に朝廷を仰ぎ下に公家及び諸侯があり、幕府はその間に在りて天下の政治を執行するべきもの」と謂うもので、目的は徳川政権の補強策であった。

 当時はまだ徳川氏の全盛期で泰平の世であったから、その意義は世に実感されることなく純然たる学問的論説に止まり、客観的情勢もこれに応じるものはなかったが、時代が安永天明(十八世紀後半)と過ぎて弘化嘉永(十九世紀後半)に差し掛かり、尊皇攘夷論が漸く高潮してくるに連れ、政策としての現実的を帯びてきた。

 すなわち天保の改革に失敗した水野忠邦の後を受けて、弘化二年(一八四五)老中首座に登った阿部伊勢守正弘が、新井白石が唱道した公武合体論を実行に移したのである。阿部は政体徳川幕藩体制の運用を一部改め、将軍と少数の譜代・旗本による寡頭政治から、親藩・外様の雄藩との連携合議方式に変えた。言ってみれば、譜代党による一党支配体制から、親藩党・外様党を含む大連立体制に移ったのである。かくて連立政権に入った雄藩から、阿部は水戸藩の老公(前藩主)徳川斉昭を海防参与(外交顧問)として幕政に招聘したが、他の雄藩諸侯すなわち尾張藩徳川慶勝、越前藩松平慶永、薩摩藩島津斉彬、長州藩毛利慶親、土佐藩山内容堂、肥前藩鍋島閑叟、筑前藩黒田長溥、宇和島藩伊達宗城らも幕政に発言権を持つようになった。彼らは謂ってみれば、政調会の委員のようなものであろうか。

 雄藩諸侯のうち阿部正弘の公武合体的政策に最も協力したのは島津斉彬で、その真摯重厚な性格からして朝廷からも幕府からも信頼最も厚く、家系的にも公家と将軍家に深い血縁を有していた。すなわち島津家は、家祖・忠久の因縁で摂家筆頭の近衛家と親しかったうえに、先々代・重豪は将軍家斉の叔母保姫を正室に迎え、自らの息女茂姫(後の広大院)を家斉に嫁していた。斉彬も島津安芸の息女で従妹に当る篤姫を養女にし、阿部正弘と相談の上で重ねて近衛家の養女に入れ、将軍家定の御台所に送り込もうとした。斉彬の狙いは篤姫を通じて将軍家定を操り、その継嗣に英才を以て聞こえた一橋慶喜を据えることにあったと言われる。

 時に安政三年(一八五六)斉彬腹心の下級武士西郷吉之助が斉彬の密命を帯びて上京、近衛家老女・村岡と相計らって養女縁組をまとめた。維新を主導した改革者西郷隆盛も、このころは主君の公武合体思想を尚んでいた。公武合体の推進に打ってつけのキーパーソン島津斉彬に対して、水戸老公以下の前掲有力諸侯が一致協力し、公武合体の理念の下に画策していれば、新国家体制の 樹立も円滑順調に行われたであろう。

 
 ★二つの対立軸・外交政策と譜代対親藩・外様勢力争い 

 
 しかしながら、現実の維新史が波乱曲折の幕末現象を現出せざるを得なかった主因は、何を措いても外交政策の不一致である。それは老中首座(首相)・阿部正弘ら開国派と海防参与・水戸斉昭ら鎖国派の意見の対立から生じた。すなわち嘉永六年(一八五三)、突如浦賀へ来航した米国東インド艦隊のペリー提督が呈出した米国大統領フィルモアの国書へ対応せんがため、阿部が海防参与(外交顧問)を委嘱した水戸斉昭の、水戸学の伝統をかざす攘夷論は極めて強固で、閣内不和の決定的要因となった。

 しかもこの頃、幕末現象をもたらす第二の対立軸が生まれていた。従来幕政を壟断してきた譜代党と、幕政に新しく参画した親藩・外様党の勢力争いである。江戸城内の伺候席の中でも有力譜代大名の居る溜之間は、儀式の際に老中の上に座すほど格式が高く、重要事項に関して老中から諮問を受ける立場であった。その溜之間上席で譜代筆頭の彦根藩主に嘉永三年(一八五〇)、井伊直弼が就いた。譜代党のリーダーとなった直弼は、阿部が先例を破って海防参与に起用した水戸斉昭が、攘夷論を唱えて閣内を乱す有様に反感を強めていたが、翌七年ペリーの威圧に屈した阿部が日米和親条約を締結せんとするや、これを攻撃する斉昭と溜之間詰上席の直弼との対立は頂点に達した。斉昭は阿部に、開国派の老中・松平乗全と松平忠固の更迭を要求し、安政二年(一八五五)阿部はやむなく両名を解職する。これに対し直弼は、溜之間詰から新老中を起用することを求めたので、阿部は天保の改革時の老中で漸進的開国主義者の堀田正睦を再登用して首座を譲り、自身は幕閣の実権を握ったまま老中として残った。

 外交問題をめぐる次なる対立は安政三年で、老中首座・堀田正睦が米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印問題である。安政四年(一八五七)阿部正弘が急死した後、名実ともに老中首座になった堀田正睦は、直ちに松平忠固を老中に再任して次席格とし、溜之間詰主導による堀田=松平の連立幕閣を形成した。この連立幕閣は、安政四年十月二十一日ハリスを江戸城内で将軍家定に謁見せしめ、その要求してきた日米修好通商条約を翌安政五年を期して調印し、六月中旬より実行することを約した。この時堀田は、同じ開国派の越前侯・松平慶永の意見を容れて、遅れ馳せながら朝廷に上奏して勅許を得るとともに、内容を全国の諸大名に示して利害得失を論ぜしめたので、ここにおいてか条約締結是非の論が国を挙げて沸騰する。

 堀田はまず、林大学頭を先発させて条約締結の経緯を上奏するが、既に決定し後に勅許を乞う不埓を詰られるのは、朝廷の背後に諸大名の支持と澎湃たる世論があったからである。安政五年一月自ら上京した堀田は、条約締結時の苦しい事情を朝廷に開陳し改めて勅許を乞うたが、侍従岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八人の下級公家が結束し、列参して上奏讒訴したため、折角の上級公卿買収策も水泡に帰し、空しく江戸へ引き上げてきた。

   続く。
 




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