カウンター 読書日記 ●疑史 第76回 (続)
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●疑史 第76回 (続)
 
・                      持丸長者 広瀬隆
                         広瀬隆・『持丸長者』

 
 ●疑史 第76回(続)              評論家・落合莞爾
 
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3) 

 
 井伊大老暗殺の後、幕政を執った老中・安藤対馬守信正が、阿部正弘の故智に学び、さらに進んだ公武合体策を実現したのが皇妹和宮の降嫁である。降嫁が孝明帝の勅許を得たのは万延元年十一月のことで、関白九条尚忠、侍従岩倉具視がこれに奔走した。この策は、天下の諸武士・浪人の過激な尊皇攘夷論を緩和し、且つ諸藩の倒幕主義者の論拠を破砕する目的を以て行われたのだが、実際には却って反対の結果を招いた。降嫁の報が伝わると、尊皇賤覇を唱える諸国の志士は憤激に耐えず、御輿を奪い奉らんと言う輩も出て、物情騒然とする有様であった。

 日米修好条約中の通貨条項の改訂のために、使節小栗忠順が出発するのは安政七年一月一八日で、通貨改訂を反映した貨幣の改鋳、すなわち万延雛小判の新鋳は同年の三月十八日に実行される。その間に年号は安政から万延と改まるが、この間の大事件は井伊大老の暗殺であった。改鋳のインサイダー情報を利用して天保小判を買占め、その利益で幕府の裏金を作ったのは、井伊直弼の命を受けた小栗忠順で、実行者は小栗家の中間上がりの三野村利左衛門である。

 万延は二年(期間は一年一か月)で終わり、次の文久元年からは本格的な幕末になる。帰国後の小栗は加増されて外国奉行になり、翌二年には勘定奉行となる。その年二月十一日に将軍・家茂と和宮の婚儀が挙行された。例の裏金は、和宮降嫁に際して孝明帝に献金されたと前に述べたが、幕末の工程表を見るに、井伊大老は献金とは関係がなく、献金は家茂上洛に伴う公武合体強化策の一環と見るべきであろう。幕府は天保小判を万延小判の3.375両として増歩通用させたが、幕府関係者自らその制度を要したとは思えない。

 薩摩に並ぶ一方の雄藩たる長州藩は、阿部正弘と島津斉彬による公武合体的経綸を徒らに眺めていたが、井伊直弼に替った安藤信正が公武合体政策を継承し、和宮降嫁のことで天下の志士浪人の激昂を買うに及ぶと、幕府の困惑に乗ずべく、藩老長井雅楽をして時局を説かせた。本来開国論者の長井は文久元年、公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白して藩論とされたが、さらに幕府に説くべく、藩主敬親と共に江戸に入り、老中安藤信正・久世大和守と会見して正式に同策を建白する。幕府は長州藩に公武間の周旋を依頼したので、政体の経綸は枢軸を薩摩藩から長州藩に移して公武合体的政策を推進することになり、久世の内示を受けた長井は京に引き返して朝廷に開国論を献じ、九条・中山・正親町・三条の諸卿を動かして、朝議を一変させようとした。

 しかしながら、長井のこの挙に際して各藩の尊王攘夷論者が挙って反対し、長州藩でも下級武士階級を代表する久坂玄瑞は、書を土佐藩の武市半平太に送り、「今や天下の諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽の志士糾合、義挙の外は迚も策これ無く」と、クーデタしかないと激語した。諸国の下級武士はこれ以前から一斉に倒幕派に傾いており、その理由に万延小判の新鋳が銀の対金比価を大幅に引き下げ、収入を銀貨で受け取っていた下級武士の家計窮迫を招いた、との説がある。公家の攘夷列参も武土の尊王倒幕も、遠因が政治思想よりも下級階層からの経済的・処遇的不満にある点で、正に軌を一にするものである。長州藩に失望した天下の攘夷倒幕論者の輿望は、期せずして薩摩藩主・島津久光に向かう。文久二年、久光は幕府の命令を受けずに大兵を率いて京に上り、孝明帝に策を献じて禁裏警護を命ぜられる。長州が幕府側で公武合体策を画策したのに対し、薩摩は朝廷側から公武合体的新体制を献策したのである。

 紙面残り僅かゆえ先を急ぐと、この後慶応四年までの僅か数年間に、幕末事象は頗る多岐にわたり変遷するが、その中で開国後の政体を見通された孝明帝は「堀川戦略」を立てられた。その時期はおそらく、帝の義弟・徳川家茂が上洛した文久三年ではないかと推測する。因みに、この年に長崎のグラバー邸が完成している。「堀川戦略」の骨子は想像するしかないが、おおよそ次のようなものではなかったか。

?六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘かに堀川御所を設ける。
? 孝明帝は時期を見計らって崩御を装い、そこに隠れる。
? 皇太子・睦仁親王は遁世して堀川御所に隠れ、新天皇には南朝系人物が入れ替る。
?孝明帝の女官らの多くは新天皇に仕えず、堀川御所に入る。
?公家と少数の女官らが皇居で新天皇に仕える。
?この事態に対応するため、新天皇の宮廷を改革して女官を遠ざけ、閑院宮皇統の徳大寺実則が側近として近侍し、事情を知るごく少数の武官が侍従として警護する。

 新天皇は長州藩の「奇兵隊天皇」大室寅之祐で、父は南朝の血を引く地家作蔵、母は浄土真宗興正寺派の娘と巷間報じられるが、尊皇倒幕派の政治理念として南朝皇統復活の声が高まっていた時宜に最も適う選択であった。そもそも「万世一系の皇室」とは、南北両統の連合体を謂うのだから、違和感はない。教科書歴史は、東京遷都は此の頃は未だ決まらずとするが、新帝の御所が京都御所ならば堀川では近すぎる。

 思うに、「堀川戦略」の基底には既に東京遷都があったのではないか。ともかく、閑院宮皇統の中心家系は、堀川御所を拠点に今までになかった国体的活動を始める。それは開国により、この国が初めて直面する新事態に対応するもので、皇室外交と国際金融の二点であった。

 ●疑史 第76回   <了> 

 **************

 
 ★ブロガーお薦めの参考著作は、↑の広瀬隆・『持丸長者 幕末維新編』
 (ダイヤモンド社2007年2月)で、

 その、第二章・ペリー来航の衝撃 は是非一読をお薦めします。

 特に、<小栗上野介の天才>という一節。 p199~213

 後ほど紹介します。

 

 
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