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●疑史 第76回 
 
 ●疑史 第76回              評論家・落合莞爾
 
 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(3)

 
 公武合体の政治理念の下に幕藩体制を改編して近代国家日本を建設せんとする政治思想は、夙に新井白石が唱えていたが、光格天皇の御代に胎動を始め、現実昧を帯びるのは嘉永年間(一八四八~五四)であった。時の老中首座・阿部伊勢守正弘は、政体を従来の譜代大名中心から親藩・外様の雄藩との連携方式に変え、水戸斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させたが、他の有力諸侯には尾張の徳川慶勝、越前の松平慶永、肥前の鍋島閑叟、筑前の黒田長溥、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬、長州の毛利慶親、宇和島の伊達宗城らがいた。『文芸春秋』昭和16年11月号所収の「明治維新の三段展開」で白柳秀湖はいう。「彼らが完全に一致協力して公武合体主義を支持し、互いに己を空しゅうして国家のために経綸を画策するところがあったならば、公武合体は決して机上の空論ではなく、新体制樹立の仕事も維新史に見たごとき波乱曲折を経ることなく、順調に円滑に埓が開いていた」と。

 ところが、旧体制が行き詰り新体制の樹立に向かって一歩踏み出した場合の常として、現状維持派が指導権を握る時局は一致協力を欠くのが歴史の通例で、阿部正弘が画策した公武合体的政策が惨澹たる失敗に終わったのも、全くそのためである。阿部の政策を推進したのは薩摩藩主・島津斉彬で、人物の真摯重厚において、公家及び将軍家に対する親密さにおいて、孝明天皇は素より公武双方からの信頼が諸侯の中で最も厚かった。

しかしながら、外交上の難問題の処理について、阿部正弘と水戸斉昭との間には著しい相違があり、意見の一致を見なかった上に、長州藩は薩摩藩のライヴァルとして、島津斉彬の独走に対し心中平らかならざるものがあった。折しも嘉永七年、ペリー提督の威圧に屈した幕府は、朝廷の勅許を得ることなく日米和親条約を結び、二年後の安政三年(一八五六)には米国総領事ハリスから条約の修正及び開港地の増加と貿易開始の要求を受けた。

 同じ年、島津斉彬は一門の島津安芸の女・篤姫を将軍家定の御台所に入れるために近衛家の養女としたが、その際斉彬の密使として京に入り、交渉をまとめたのは西郷吉之助であった。その頃の西郷には主君斉彬の公武合体思想に何の異存もなかったのである。ところが「この工作のために京に滞在した西郷は、尊皇倒幕を叫ぶ幾多の志士浪人と接触し、斉彬に代表される既成勢力すなわち現状維持の公武合体派の他に、別個の暗流が滔々とわき流れ出ているのを目の当たりに見た」と白柳は言う。この間、公武合体の本尊・阿部正弘が安政四年に他界し、間もなく斉彬も急死したので、西郷はその公武合体主義者の殻を遠慮なく脱ぎ、諸藩士階級連盟の尊皇倒幕主義陣営に馳せ参ずることができた。

 安政四年、米国総領事・ハリスを将軍・家定に謁見せしめた幕府は、その要求を入れて老中・堀田正睦が日米修好条約を締結し、同時に条約の内容を各藩に示して利害得失の意見を徴した。当時随一の外国通を以て知られていた堀田正睦は、予て抱懐する漸進的開国主義の経綸を実行に移すため攘夷論の先鋒たる水戸斉昭を引退させていたが、ここにきて開国論者の越前侯・松平慶永の稟議を容れ、遅ればせながら朝廷の勅許を得ることにした。まず林大学頭を先発させて新条約締結の経緯を上奏するが、時の朝廷はもはや昔日の朝廷ではなく、事後に勅許を奏請することの不埓を難詰される。安政五年には堀田自身が上京し、調印前後の苦しい事情を具に奏上し、改めて勅許を望んだが、侍従・岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八名が結束のうえ列参した讒言上奏に阻まれた。これにより、関白九条尚忠を初め近衛・鷹司の諸公及び伝奏・議奏の諸卿に対して施した大々的な買収戦術が水泡に帰したのである。

 教科書史観では孝明帝は強烈な攘夷論者とされているが、事実は程遠く天皇は内心堀田の意図したごとき漸進的開国を望んでおられた。この真実を世にまげて伝えたのは、列参事件を美化せんとする攘夷派公家の子孫らが図ったものであろう。実は、この列参事件の本質は下級公家の待遇改善運動が形を変えたものらしい。蓋し江戸期の公家社会は、上層公家が美味の大方を嘗める典型的な格差社会で、かかる事件が何時か生じる素地があり、偶々条約勅許問題が遭遇したものとの見方もある。また幕府の中では、「朝廷は【国体を損わぬように】との御配慮から反対をなされたもの」との認識が台頭しつつあった。

 ともかく孝明帝の勅許を得られぬまま、安政五年六月十九日に日米修好条約が調印される。折から将軍・家定が病に倒れ、後継を巡って紀州慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が対立する「安政の将軍継嗣問題」が起きた。老中松平忠固と紀州藩老の新宮領主水野忠央の工作により、正睦の上洛中に南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、正睦は条約締結の違勅を問われて老中職を罷免され、ここに安政の大獄が起きる。その大旋風の吹き荒れる中で、いつの間にか幕府の御尋ね者になっていたのが薩摩藩の下級武士西郷吉之助であった。西郷の旧主斉彬が急死したのち藩政を掌握した異母弟・島津久光は、井伊の反動政治に迎合する姿勢を示すために佐幕派の藩老島津将曹を復活させ、改革派の西郷を大島に流謫した。万延三年三月、井伊直弼が暗殺されるや久光は方針を転換し、小松帯刀を家老に登用して、下士から大久保市蔵らを登用した。また西郷の罪を許し、京大阪の間に放って文久二年の上洛の先導とする。

     続く。 

  

 
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