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続・落合論文
 吉薗周蔵の手記(3)ー3)

 武者小路実篤との出会い 外面と内面の大きな乖離
 


  熊本医専を逃げるように中退した周蔵が上京したのは、明治43年(1910)と思われる。ギンヅルの指示の通り、堤家の縁戚の公家たちを尋ね歩くが、その中に勘解由小路光尚の家があった。
 堤の本家の甘露寺吉長伯爵の夫人の兄にあたる光尚は兄の勘解由小路子爵の継嗣となったものの、明治18年自ら廃嫡を願い出て、三浦半島で農業を営んだ。
 その生き方が甥の武者小路実篤に影響を与えて、白樺派の思想的基盤をなしたものらしい。
 周蔵が尋ねた時、光尚はすでに亡く、未亡人が柿畑を営んでいた。

 ギンヅルが周蔵を託した武者小路実篤は明治18年生まれ。周蔵より9歳の年長で、時に25歳であった。
 子爵の次男で、母は勘解由小路の出だから、光尚の甥に当たる。折から学習院の学友・志賀直哉らと計り、文芸雑誌『白樺』を創刊したばかりで、意気揚々としていた。
 その書生としてしばらく仕えた周蔵は、実篤の実態が世間面とは全く違うことに呆れた。
 全国からファンレターを添えて菓子などが送られてくるが、菓子だけを頂戴して手紙には目もくれなかった。

 周蔵は、白樺派に外国の猿真似の臭いを感じて同調できず、明治44年に宮崎に帰った。
 右肩の後遺症のため、3年後の徴兵検査の合格は無理だと感じていた周蔵は、小林に落ち着きゴマ油の会社を創ろうか、などと考えていた。
 翌年、陸軍大臣・上原中将の密使が小林に来て、周蔵の前・半生が決まることになる。

 


 
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