カウンター 読書日記 ●疑史 第75回-2
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●疑史 第75回-2
 
 ●疑史 第75回-2             評論家・落合莞爾

 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)

 
 鉄砲伝来の折、種ヶ島に在住していた美濃国関の刀工・八板金兵衛は鉄砲製作の秘訣を探るためにポルトガル人に娘を与えたが、対岸大隅国の日置伊集院の刀鍛冶集落にもやがて混血児が生まれて鉄砲鍛冶となり鹿児島城下加治町方限に移り、その子孫が薩摩藩士となり、薩英同盟の主役として明治維新を主導する。おそらく絹紡織の分野でも、欧州の先進技術が白糸の輸入港であった摂泉の堺港から丹波綾部を通り、大需要地の京へ入った筈で、日葡の混血種が媒介したのは当然であろう。鉄砲・絹と並んで巨大な影響を与えた工業技術が、粗銅から金銀を取り出す「吹き分け法」である。生野銀山の産銀量が、十六世紀の末に一挙に増大したのが帰化ポルトガル人による事を、作家豊田有恒が発表
(*『世界史の中の石見銀山』、祥伝社新書、2010年6月)してからまだ一年も経たないが、生野など一部の銀山は別として、江戸初期の各銅山は粗銅のまま輸出しており、これにより南蛮・紅毛商人の得た利益は莫大なものがあった。寛永十七(一六四〇)年、ポルトガルはスペインから独立し、旧ユダヤ教徒は再び帰るべき郷国を持った。同年、将軍家光がポルトガル船の長崎来航を禁じた目的は、多量の金銀を含む粗銅が際限もなく流出するのを防遏するためで、キリスト教の禁制などは当時既に完全に行われていて、殆どその必要を見なかったことは、寛永十四年の島原事件の後に発令された幕府の法律を点検してみると好く分かる、と白柳は言う。

 因みに、江戸初期、多量の金銀を含む粗銅をそれと知らずに売り渡し、オランダ商人に不当な利益を与えていた住友家が、★「白水」と名乗る外国人(英人ハクスレーとも)から金銀吹分けの法を学んで収益が格段に増加したとの伝承を、私(落合)は住友軽金属の新入社員として教わったが、その後
李氏朝鮮国の記録に「漁労民の白水朗(わが国の海士で彼の地では賤民)が灰吹き法を倭人に教えたので倭国を強大にしてしまい、大いに国益を損なった」との記載があることを知り、このことかと思ったが、さらに紀州粉河の伝説に接した。

 川上から粉が流れてきたために川水が白く染まり、上流に人家があると知った漁師大伴孔子古は、川を遡って老夫婦に遭う。粉河の地名はこれに由来するとされ、別名を「白水」ともいう。この老夫婦が橘姓井口氏で、古代から井口氏の荘園だったこの地に八世紀後半大伴氏が侵入し、以後は大伴氏が武力で支配者となり、在来の井口氏が経済面を担当した。孔子古の草創とされて、子孫の児王氏と恩賀氏が代々支配してきた粉河寺であるが、寺紋の「菱井桁」に井口氏との深い関係が顕れている。「菱井桁」は★住友家(屋号「泉屋」すなわち「白水」)の商標でもある(住友の家紋は「抱き茗荷」)。

 粉河鍛冶は銅器の製造で知られるが、家紋といいまた「白水」の伝説と言い、住友家の淵源が粉河に在った可能性は大きい。因みに、住友家は、ポルトガル領マカオの要塞砲を鋳造したが、いつの頃か血統にオランダ人が入ったと仄聞するが、だとすれば、「蘭人が住友家に托卵して混血種を生ませ、これに灰吹き法を教えた」のが或いは事の真相かも知れぬ。

 白柳は続けていう。「されば、翌年に貿易統制の制度すなわち長崎商館制度が完成すると間もなく、幕府はキリスト教に関係のない洋書すなわち科学書の繙読を許可し、以後は西
欧の新学説やこれに基づく新発明の機械器具が数年遅れで輸入されたから、同時に流入した西欧の科学思想に刺激されて、日本独特の科学思想にも相当なものが生まれた。幕末に至り、維新の改革が迫った時には、古神道学者や復古主義者達は全部進歩主義者であった」。すなわち、維新開国の思想基盤は、朱子学に毒されていない古来の儒学(古学)と、惟神の古神道及び、西欧チュートン系の科学思想の三本立ての教学であった。之に対して、終始日本社会の進歩を妨げていたものは、悉く仏教徒と宋学者であった、と白柳は断言するのである。

 堀川戦略の骨子は、国家経綸の一部を秘かに京都皇統に分担させることであった。すなわち、堀川辰吉郎が東京皇室に代わって特に皇室外交と国際金融の分野を執り行いこれを輔翼したものが杉山茂丸が実質社主の玄洋社であったが、詳しくは次号以下に。 

    ●疑史 第75回   <了>。

 

 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/895-b4633dea



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。