カウンター 読書日記 ●疑史 第75回 -1
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●疑史 第75回 -1
 
 ●疑史 第75回-1            評論家・落合莞爾

 堀川辰吉郎と閑院宮皇統(2)

  
 閑院宮皇統から出た光格帝の血筋が、維新後京都の堀川御所に潜んで成した子孫を仮に京都皇統と呼ぶが、その一人が堀川辰吉郎である。井上馨の兄重倉の戸籍に入ったため明治二十四年生まれとされている辰吉郎の実際の生年は明治十三年らしい。辰吉郎七歳の時、同じく孝明帝の孫でいとこに当る松下トヨノが堀川御所で生まれ、これを機に辰吉郎は福岡の玄洋社に預けられたと聞くから、戸籍では明治二十四年とされている松下トヨノも、実際の生年は明治二十年ということになる。

 明治天皇東遷の陰で、秘かに堀川御所を造営して孝明帝の子女を匿ったのは如何なる意図に出たものか。禁裏関係筋から、いまだに「聖地は本来富士山を西から見る土地であるべきもの」とか「今の東京城は行在所に過ぎぬ」との言を聞くが、ことほど左様に禁裏側は、維新政府の必要から行われた皇居東遷を心中歓迎していなかったらしい。或いは、皇居東遷が、西南雄藩と倒幕派公卿の連立政府の成立を意味するからであろうか。ともかく堀川戦略は、御所建春門外に在った学習所(京都学習院)が目指した公武合体理念が尊皇倒幕思想に置き換わる新事態に対応するためのもので、孝明帝を中心に公武合体派が、京都に堀川御所を秘かに造営して閑院宮皇統を残す「堀川戦略」を立てたものと思われる。因みに学習所は、光格帝の発案に始まり仁考帝が設置したもので、本来の目的は公武合体のための公武志士の交流の場であったが、維新後に東遷して現在の東京学習院になり、単なる貴族学校に変じた。

 堀川戦略の中心人物が、維新政府の高官として宮中改革を進めた★吉井友実、西郷隆盛、大久保利通の薩摩三傑であることは確かである。就中自らこれに処したのが吉井で、各省の卿を歴任して当然の身ながら進んで宮内省に入り、官歴をほとんど局長級で終始して中々次官にさえ就かなかったのは、姿勢を屈めて明治宮城の護持に専念していたのである。吉井と相携えたのが実質閑院宮の鷹司家から入った★徳大寺実則で、実弟が西園寺公望と住友友純であるから隠然政財界に通じていたが、宮内卿兼侍従長として明治天皇に常侍し、片時も傍らを離れなかった。長州人では、辰吉郎の戸籍上の叔父となった★井上馨で、公武合体資金や玄洋社への炭田払下げなど各所に、堀川戦略に関与したフシが窺える。

 公武合体を理念的基盤とする堀川戦略の財務的基盤は、前月稿で述べた小栗上野介の公武合体資金であるから、当然ながら徳川氏側にも関与者がいた。まず将軍家茂の側近であった★勝海舟で、西郷・大久保ら薩人とも昵懇で、維新後は家定未亡人・天璋院と誼を通じて旧幕臣の要となり、明治海軍増強のための資金供給に携わった。今一人は一橋家旧家臣で、井上馨の後援下に実業界に対する資金供給を担当した「実業王」★渋沢栄一であった。

 幕末開国運動は、結局は尊皇倒幕の形で実行されたが、当初は公武合体の政治理念の実現を目指したものであった。異色の在野史家・社会評論家として知られた白柳秀湖によれば、公武合体的政治理念の淵源は、遠く織田信長・豊臣秀吉が尽力した「皇室を中心とする近代国家日本」の統一運動に端を発し、慶長元和の間に樹立した徳川政権の家康・秀忠・家光三代の貿易統制政策に基づく半郡県的封建国家体制の樹立により、公武合体思想は表面跡形もなくその姿を消し去ったかの如く思われているが、実は決してそうでない。『文芸春秋』昭和十六年十一月号所載の「明治維新の三段展開」で白柳は言う。「公武合体的政治機構の上に近代国家日本が建設されていかねばならぬという理念は、何も幕末、英米仏露の軍艦が迫りくるに及んで初めて唱道された説ではなく、既に六代将軍家宣の時、新井白石が公武合体論を唱えて、来るべき新体制運動の高潮時に備え、徳川政権の補強工作としている。白石がこの説を唱道した動機は、当時漸く勢いを成しつつあった民間の尊皇賤覇論の暴脹に備えようとするにあり、その要旨は、【上に朝廷があり下に公卿及び諸侯があり、幕府は両者の中間に在りて天下の政治を執り行うものであって、決して支那に於けるいはゆる覇者を以て論ずべき性質のものでない】といふにあった。白石の時代はまだ徳川氏の全盛期であったから、この説はただ純然たる学問上の言説に止まり、何ら客観的情勢の之に応ずるものがなかったが、安永・天明と過ぎ、弘化・嘉永以後、尊皇攘夷論の漸く高潮し来るにつれ、実際政策として注意を惹くやうになった」。

 守護大名による封建制に立つ商業的色彩の濃かった室町政権が、終焉を迎えて戦国の世となった時、澎湃として起こったのが「日本列島を統一して皇室を中心とした近代国家」を建設せんとする政治理念で、その推進実行者は織豊政権であった。ところが、関ヶ原の役以後織豊政権に代った徳川政権が政体を一転して半ば郡県的な封建制に戻し、いわゆる鎖国政策を取った。通俗史観はこれを排外主義の顕れと看做すが、白柳によれば、「慶長五(一六〇〇)年、オランダ東インド会社の派遣した蘭船リーフデ号の船員ヤン・ヨーステン及び英人航海士ウイリアム・アダムスに接見した家康が、北西欧に育ちつつあるチュートン系科学文化が南欧ラテン系の宗教文化と全くその本質を異にして居る事実を知った。これより先、家康はラテン系の宗教カトリックが国を毒する弊害に驚き、之を国禁とした秀吉のカトリック排斥政策を、更にそれ以上熱心に承継していたが、リーフデ号の船員を接見して、英蘭などのチュートン系欧州の科学文化の尊重すべき所以を知った。若し日本に欧州文化を排斥した事実があると言うなら、それはラテン系宗教文化を排斥したのであって、チュートン系科学文化を排斥したことはない」のである。つまり、宗教に仮託して国家侵略を図る耶蘇会を警戒しカトリックを排斥しただけであって、チュートン系科学文化を排斥したことは決してないと強調する。

 鎖国の理由はもう一つ、「三代将軍家光の時に至って日本人の海外渡航が絶対に禁止せられたのは、日本の金・銀と金銀を多量に含む粗銅が、際限もなく海外に流出するのを防遏するためであった」。一五八〇年スペイン王フェリッペⅡ世がポルトガル王位を継承し、スペインとポルトガルの同君連合(国家統合)が成立する。之に先立つ一四九二年、フェルナンドⅡ世のレコンキスタによってスペインを追われたユダヤ教徒が大挙してポルトガルに入り、旧教に転向し或いは旧教徒に扮した。その多くが東南アジアに来て、折から鎖国中の明帝国と日本との間の仲介貿易に従事していたが、故国における突然の新政権の出現に危険を覚えて帰国の望みを絶ち、秘かに日本に帰化したことを前に本稿で述べた。交易相手の日本人に一身を託した彼らの、或者は鉄砲鍛冶となり、或いは絹紡織に携わって、日本人との混血種と欧州の先端工業技術とを残して、歴史の闇に溶けて行ったのである。

   続く。

 

 
スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/894-bfde3c52



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。