カウンター 読書日記  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2
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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)-2

 
 ★最大の御事績は「学習院」の設立

 
 光格天皇の事績は「尊号一件」を始めとして数多く、本稿には枚挙する紙数がないが、特筆すべきは京都学習院の設立である。公家の子弟のための公的教育機関たる大学寮が平安末期の安元の大火(一一七七年)以来廃絶していたので、光格帝は再建を目指したが、在世中には実現せず、次代の仁孝帝に持ち越された。仁孝帝が幕府の承認を得て学校の設立が決定したのは天保十三(一八四二)年で、光格帝崩御の二年後であった。弘化三(一八四六)年には御所の建春門外に講堂が竣工し、翌年には講義が開始されて、三条実万が初代の伝奏(学長)に就任した。当初の名称は、幕府を意識して「学習所」「習学所」など一定しなかったが、孝明帝が嘉永二(一八四九)年に「学習院」の勅額を下賜して、以後は学習院を公称とした(明治期に東京に設立された学習院と区別するため、今は「京
都学習院」と呼ばれている)。学習院は公家の子弟を生徒とし、儒学を主として和学を取り入れた教科の会読・講釈を中心とした授業を行った。

 安政の大獄により下獄中の吉田松陰は、安政六(一八五九)年十月、学習院をして「四民共学の天朝の学校」とすべき遺志を門人・入江九一に託したという。本質的には軍事学者の松陰が、今日では政治哲学だけが強調されているのは平和ボケの最たるものであるが、要するに松下村塾とは、政治哲学だけでなく★軍事的実践(テロリズム)を説く学校であったわけで、学習院も、松陰の遺言に徴するまでもなくテロリスト養成所であった。軍事的実践を旨とする下級武士がここに登院して尊攘派公家と交わり、尊王統幕を実行する人脈を形成した。職能集団の公家の中でも、武事を家職とする羽林家は、幕府対策上から表面は文弱に見せてその実秘かに武略を研究していたようで、武門の下級藩士に当たる青侍には武術を習わせていたと聞く。

 この学習院が、文久二(一八六二)年七月頃から急増した朝廷と諸藩の間の折衝の場になり、投文・張紙などの横行に対応するため、翌年二月には陳情建白の類を受け付ける機関となった。長州藩は高杉晋作、桂小五郎ら多数の藩士を「学習院御用掛」に任じ、他藩でも土佐藩の土方楠左衛門、福岡藩の平野国臣、熊本藩の宮部鼎蔵さらに筑前の神官・真木和泉らを「学習院出仕」に任じたので、学習院は後に維新の志士と呼ばれる尊王攘夷の急進派が日々登院して国事を論ずる場所となり、諸藩の志士と尊攘派の公家が攘夷決行の密謀をめぐらす場所となった。ところが、文久年八月十八日の政変が起こり、公武合体派が三条実美ら尊攘派の公家を処分するに際し、学習院に対しても長州藩士ら関係者の出入りを禁止し、また陳情建白の受理も停止した。以後学習院は本来の教育機関としての姿に戻り、明治元年には「大学寮代」と改称したが同三年に廃止され、後に東京学習院に引き継がれた。

 
 ★中山忠伊=光格帝落胤説の真否と中山家系譜の謎

 
 学校歴史には出てこないが、光格天皇をめぐる重要な謎に中山忠尹の一件がある。安政八(一七七九)年に光格天皇が九歳で帝位に就くや、権大納言・中山愛親は天明二(一七八二)年に議奏に挙げられ、光格帝の側近として輔翼した。寛政四(一七九二)年の「尊号一件」に当たっては、正親町公明と共に正副勅使として江戸に下向、老中松平定信と交渉した。

 ここからがインターネットから転載した教科書歴史にない異説である。

 すなわち、正親町公明と共に閉門・逼塞の実刑を受けた中山愛親は、憤激の余り秘かに倒幕を図るが、幕府の察知する処となり、愛親の子の権大納言中山忠尹が、父と光格帝の反幕的行動に関する一切の責任を取り、文化六(一八〇九)年に自死した、とする(落合注・真否未詳)。いうまでもなく、これは尊号一件より十七年後である。

 さらに「それでも倒幕の志を棄てない光格天皇は、第二皇子・小松中官長親王を、忠伊【ママ】の子の中山忠頼に頼み、養子にしてもらいました。この子の名前も中山忠伊。おそらく、自害して果てた愛親の息子にちなんで名づけられたのでしょう。そして、この忠伊が、自分の祖父【愛親】・光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成。また、中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誄組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説くのである。

 家禄二百石の中山家は大納言を極官とする羽林家で、栄親→愛親→忠尹→忠頼→忠能→忠愛と男系を以て続くが、異説として愛親の父が栄親の弟の正親町実連とする記録も存在しており、何となく謎に包まれている。また、愛親が満十五歳四ヵ月足らずの時に忠尹が誕生したのも、有り得ぬことではないがやや不自然に思う。その中山家の系譜に、さらに大きな謎が加わったのである。

 上記のインターネット記事で「中山忠尹」を「忠伊とも称した」とするのはいかにも恣意的と思われるので納得がいかないが、一応、史料に照らして解釈する。まず、光格帝の皇子は記録上八人生まれたが、成人したのは第四皇子・恵仁親王(後の仁孝帝)だけで、他の七人は乳幼児のうちに没した。記録にない庶子の存在も在りも得なくはないが、問題は所謂「第二皇子・小松中宮長親王」が皇嗣中に占むべき位置である。中山忠尹が自死したとされる文化六(一八〇九)年までに生まれた皇子のうち三人は生後直ぐに他界、ただ一人生き延びた第四皇子・恵仁親王はまだ九歳で、今後無事に育つ保証もない。現に、その後に生まれた四人の皇子は悉く夭折、結局恵仁親王たった一人が成人されたのである。こうした状況にあって、夭折しなかった皇子が他にも存在したならば、生母の身分に関わらず皇嗣候補として貴重な存在で、中山家に養子に出す余裕なぞ有るべくもない。つまり、光格帝に当時「小松中宮長親王」なる皇子が存在したのなら、仮に庶腹であっても皇籍から外すことはまず有り得まい。

 因みに、仮に恵仁親王はじめ皇子がすべて夭折した場合には、その日のために置いた世襲親王家(それも閑院宮家)から皇嗣を選ぶこととなるので、宮廷の混乱も特にない。事は苟も皇嗣問題であるから、いざとなれば世襲親王家をアテにする所存で、光格帝の庶子を「小松中宮長親王」と称して中山家の養子に入れたなぞ有り得まいが、閑院宮皇統ならばどうか。つまり、インターネットにいう「中山忠伊=光格天皇落胤」説は首肯し難いが、閑院宮家の庶子ならば全くあり得ぬことではないと思う。当時、養子に準じた猶子という縁組制度があったから、或いは光格帝は、閑院宮流の庶子を秘かに猶子とし「小松中宮長親王」と称したのかも知れぬ。

 ともかく、中山忠尹が「光格天皇の遺志をついで討幕運動に身を投じ〈天忠党〉を結成」したというのは学校歴史にはない異説で、本稿も之を論ずるに典拠がないが、「中山忠能の実の息子・忠光も、〈天誅組〉の首領となって大和に挙兵するのですが、これはもうちょっと後の事件です」と説く「天誅組」の方には史実があるが、紙数が尽きたので、これについては、次月号に譲る。 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(48)     <了>。 

 

 ★参考 光格王朝と閑院宮皇統

  光格 系図 (579x800)   ←各画像をクリックして下さい。

  光格 上
  光格 中
  光格 下


 

 
 
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