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続・落合論文
  陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(3)
 周蔵の生涯に大きくかかわった人々

 1)国語嫌いの数学好き、吉薗周蔵の生い立ち
 


  吉薗林次郎は、大隅隼人の木下家からキクノを娶り、7人の子供を生んだ。その第三子が明治27年生まれの長男・周蔵である。

 周蔵の幼少の頃、父の林次郎は黙々と農作業をはじめ家業に勤しんでいたが、祖母のギンヅルは長期間吉薗家を留守にすることがあった。
 東京や京都に出掛けていたのである。
 
 その目的は、当時枢密顧問官だった高島鞆之助らを動かす政治工作であるが、上京後の上原勇作の教育のためでもあった。
 当時は宮崎から東京・大阪への船便があり、個室の一等船客となり宮崎の港を出航すれば、上等の食事とともに、安全で疲れない旅行が楽しめた。

 明治34年に小学校に上がった周蔵は、幼少時に柿の木から落ちた後遺症で、右手で文字を書き続けることができなかった。それが学業に影響をを与えたのか、ことに国語が嫌いだった。
 しかし数学は好きで、どんどん自習をしていき、進みすぎて訓導を困らせた。
 当時の学制では、飛び入学が可能で、小学校5年終了で県立・都城中等学校(現:県立都城泉が丘高校)に入学を許可された。
 (ヒロモト・註*もちろん何の関係もないが、いまをときめく、あの東国原知事の母校である。知事にメールでもしたい気もあるが、反応や如何。時代の流れだからしょうがないとはゆうものの、ハンカチ王子の初勝利にコメントするよりは・・・止めておこう。)
 時は明治40年の春の筈で、かなりの秀才だったのである。

 小林からの通学は困難で、周蔵は都城に下宿した。しかし、10日ほど通学した後、勝手に退学してしまう。旧制中学程度の数学では物足りなかったのである。
 心優しい林次郎は知らぬふりをしてくれたが、ギンヅルは収まらない。戊辰戦争以来の縁で親しい前海相・山本権兵衛に頼みこみ、熊本工業の入試を、特別に(予備試験なしで)受験させてもらうことになった。これを退学の翌年(明治41年)のこととすると、満14歳である。
 
 入学試験の前夜、下宿で悪友に誘われた周蔵は、断りきれずに登楼し、朝になっても娼家から出られず、試験をさぼってしまう。
 小林に帰ることもできず、やむなく下宿でゴロゴロしていた周蔵は、同期の<五高生>たちが解けずに苦労していた幾何の難問を次々に解いてやり、五高生たちを驚かせた。
 受験するはずだった熊本工高が五高よりも学力が低いと聞き、複雑な心境の周蔵に、五高生たちは、「自分達が数学の師と仰ぐ人がいるので、その人と数学の試合をしてくれ」と迫った。
  
 

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