カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)-2 

 
 ★紀州徳川家の古陶磁換金を阻んだ吉薗周蔵 

 
 それはさて、辰吉郎が博多から上京した頃、堀川御所生まれの重要女性が、堀川御所を出て紀州和歌山に移った。戸籍上では辰吉郎と同じ明治二十四年生まれの其の女性は、和歌山市郊外海部郡加太村の池田酒店の娘として突然降臨した。加太村K家の伝承では既に七歳で、「まるで天狗さんに育てられた子のようであった」と謂うから、実際の生年は明治二十年生まれとしで良いのであろう。女性の戸籍名は松下トヨノであるが、豊子と自称した。

 私(落合)が松下豊子の名を聞いたのは、恩師稲垣伯堂画伯から紀州家由来の古陶磁を引き受けた平成二年のことである。当初、焼物研究の師匠として選んだ岸和田市の研究家・新屋隆夫が初会の日にその名を□にした。「自分は、陸軍大将・荒木貞夫から義理の孫と認められていたが、荒木大将から松下豊子さんを紹介され、《この御方の美術品の面倒を観るようにと命じられた》)と謂うので、先考に尋ねたところ松下豊子は謎の貴婦人であると教えられた。わが叔母(実母の妹)たちも、その父・小畑弘一郎から聞いて松下豊子の噂を知っていた。その後、和歌山に隠棲した私(落合)は、至るところで豊子の話を聞いたが、ことに和歌山市加太では、今でも中年以上では知らない人は居ないと言って良い。

 紀州家古陶磁の来歴を探究していた私(落合)が、岸和田市の陶芸家・南宗明夫妻に案内されて、貝塚市の五味紡績の社主を訪ねたのは平成六年頃であった。その際にもK家の名が出たが、五味夫人の話では、昭和三十年にK家の当主に案内されてきた松下豊子と名乗る女性から、「紀州徳川家に素晴らしい東洋古陶磁があるので、その展観施設を作る計画に加わらないか」と誘われた。五味家の当主も乗り気になり、適地を探して一緒に行動して鎌倉まで行った事もある、とのことであった。

 それから数年経った平成八年、吉薗周蔵が大正九(1920)年に奉天で作った『奉天古陶磁図経』が周蔵遺族から手元に来た。ほぼ同時に、周蔵が昭和三十年に記した「紀州徳川家に入った焼物のこと」と題した手記も入手した。それによると、昭和三十年初頭に、千葉の犢橋(*現、花見川区)に住む周蔵を、陸軍中将貴志彌次郎の養嗣子・貴志重光が訪ねてきて、「自分は紀州家古陶磁の売却商談を進めてきたが、神戸の買手から真贋混淆を指摘されて頓挫中なので、真贋弁別のために貴殿が奉天で作った図譜を借りたい」と申し出た。

 紀州家の徳川為子夫人と松下豊子が企てたその商談に荒木大将も関与している、と聞いた周蔵は、真贋混淆のまま売却する意図を覚り、張作霖と紀州家を仲介した貴志彌次郎が、将来の真贋混淆を何より懼れていた遺志を慮って、図譜の貸与を断った、とある。この記載から、紀州家では昭和二十九年頃から古陶磁の一部を換金する動きがあったが、周蔵の非協力もあり失敗し、計画を展観施設の設立に変更したとの推察ができた。 

 
 ★将軍・家茂も和宮も生きて子をなした?

 
 K家は江戸中期に淡路島から加太村に移って造船業を営み、後に材木商に転じた富豪であるが、昭和三十年代に当時の当主がトヨノの財務に携わったことを遺族は今も記憶している。「関わったのは古陶磁ではなく、慈覚大師を祀る宗教施設の建立計画であった」と遺族は謂うが、五味家の伝承と合わせて判断すれば、宗教施設の建立資金を紀州古陶磁の売却によって捻出せんとした訳で、直接換金が難しいことを覚って展観施設の設立に変更したのであろう。

 何故慈覚大師なのか。それは皇女・和宮が将軍・家茂に降嫁するに当たり、公武合体を象徴する婚貨として持参した北朝重代の秘宝が、慈覚大師自作の十一面観音像と仏舎利であったからである。和宮からそれを相続したトヨノが祭祀施設の建立を志し、紀州徳川家もその志に賛同して、古陶磁の一部換金を図ったようだ。トヨノの言では「和宮の秘宝は徳川家の蔵に在ったが、渋沢栄一が持参した」とのことであった。明治十年に箱根塔ノ沢温泉で脚気により薨去した和宮が、実はその後も生存していたことをトヨノから聞いていたK家の先代は、トヨノが和宮の実子か実孫であると信じていたという。そうなれば家茂も大坂城で死んではおらず、隠れ住んだ二人が秘かに子供を儲けたという話になる。私(落合)が右(↑)の一件を「その筋」に確かめたら、「和宮が兄・孝明帝に、(家茂様のようにお隠れ遊ばしませ)との示唆をなされた」との答えであった。

 第二次長州征伐軍を率いた家茂は、慶応二年(1866)七月二十日大阪城で急死、四ヵ月後に家茂の義兄・孝明帝も突然崩御された。小判改鋳に乗じて家茂の公武合体献金を捻出した小栗忠順も、一年後に薩摩兵に惨殺される。これらは公武合体の本当の筋書に法ったものと考えざるを得ないが、家茂と和宮の間に生まれた娘ならば、正に公武合体の象徴である。トヨノがその娘の実子なら、次の一言の謎を解く手懸りになる。

 
 ★替え玉説の可能性と岩倉具視が厳秘した自害説

 
 「今の天皇は南朝であるが、私は北朝である。もし男だったら私が皇位に就いていた」とトヨノが漏らしたのを直接聞いた人がいる。この言の解釈については、本稿はまだその段階ではないが、現時点で考察する限り、トヨノは男系血統を論じたと視るべきであろうから、トヨノの実父は北朝皇統に属する男子で、母が和宮の御娘という筋合になろう。和宮に関する重要関係者の動向は、慶応二年七月二十日家茂が大坂城にて死去(暗殺の噂が高い)、同年十二月二十五日孝明天皇崩御(暗殺の噂が高い)、慶応四(明治元)年閏四月小栗忠順殺害(一種の暗殺)というものである。その後、二十四歳の和宮は明治二年一月十八日に京へ向かい、五年半御滞在され、七年六月二十四日に東京へ帰られた。三年後の十年八月七日、脚気治療のため箱根塔ノ沢へ湯治に行き九月二日薨去、とある。

 和宮を巡る巷説に、①降嫁の当初からの替玉説、 ②中仙道の某宿で自殺し他人が入れ換わった説、などがあるが、昭和三十四年に芝増上寺墓地から和宮の御遺体を発掘した時、発掘調査団に宛てて来た手紙が興味深い。和宮に仕えた御祐筆の孫からのもので、「明治五年ころ、岩倉卿と祖母が主になって少数の供廻りを従え、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊に逢い、宮を木陰か洞穴の様な所に匿い、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、家来の大方は斬られて傷つき、やっと追い拂って岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早之までとお覚悟あってか立派に自害してお果てなされた」との内容で、岩倉が一切を厳重に秘したと語る。

 世を謀るには影武者が基本であるから、替玉説はいかにも有りうる話であるが、静寛院宮の京戻りも、同じく世に隠れた家茂と堀川御所あたりで一緒に暮らすためならば合点が行くし、在京の五年間には、本人か替玉による秘かな江戸往復があってもおかしくはない。     

 ************* 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(47)
 <了>。

  



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