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 ●疑史 (第73回)  清朝宝物の運命(終)
 
 ●疑史 (第73回)  清朝宝物の運命(終)      
評論家・落合莞爾 
 
 中華史上最高の名君を論ずる時、民族感情もあって一概にはいかぬが、清朝の康煕帝を挙げる者が最も多いという。ツングース族の黒水靺鞨は十一、二世紀の交に族称を女真と称えて歴史に顕れたが、完顔部の首長・阿骨打が契丹族の「遼」を滅ぼして一一一五年に帝位に就き、国号を「大金」と称した。折しも日本は平安末期で、源平両氏が軍事力を以て朝廷で頭角を顕しつつあった頃である。

 「金」は契丹族の「遼」、漢族の「北宋」を亡ぼして中華本部の北半分を支配し、漢字と契丹文字の影響で女真文字を作った。西北異民族が建てた征服王朝は、漢字に倣って独自の文字を創るのが慣例で、突厥文字を初め契丹文字・西夏文字・蒙古文字・満洲文字などを考案したが、所詮民族文化を誇るだけに止まり、中華文明の芯核たる漢字を超克することは出来ず、徒に文化遺物と化した。共産主義革命で成立した中華人民共和国が用いる簡体字も、見方によっては西北文字の一種であるから、後代には「中共文字」などと呼ばれることもありえよう。これに対し、日本の仮名や朝鮮のハングル(諺文)は、漢字そのものを民族語の文法に適合させるために創った表音文字で、自ずから性格が違う。大韓民国が中華の影響を排するために漢字の使用を廃したのは短慮に過ぎるが、その代わり金正一を正日に変えたり、金正銀を正恩に変える操作が可能となった。

 さて阿骨打の大金帝国が新興の蒙古帝国に滅ぼされて後、華北に入っていた女真族は漢族に紛れてしまうが、満洲に残った女真族は「元」の支配下で隠忍自重し、「明」代には部族に分れて明に朝貢したが、やがてマンジュを称する建州女真の首長ヌルハチが一六一六年「後金」を建て、満洲部族連合の王として「金国大汗」を称した。後金二代目皇帝の皇太極(ホンタイジ)は一六三五年に蒙古のチャハル部を征した時、「北元」皇帝の末裔から大元皇帝のレガリアたる玉璽を献上されたのを機に、女真族・蒙古族・漢族の推戴を受け、天命を感じて国号を[清]と改めた。後金の三代目が山海関を越えて中華本部に入り、中華帝国大清の初代皇帝になった。すなわち康煕皇帝で康煕以後、雍正・乾隆と続く清初三代は中華史上でも空前絶後の最盛期であった。

 ルネッサンスにより物質科学的精神を解放した西欧文明が、その物理力を以てインド亜大陸・東南アジア圏に侵攻し、更に中華大陸を窺う勢いを示したのに対し、物理力では十二分に対抗できた筈の中華帝国は殆ど手を拱いた形で終始するが、中央アジアでは回・蔵の地を中華帝国の辺境として編入した。すなわちチベットを藩属せしめ、ウイグル族の地を領土に編入して新疆(ニュー・テリトリー)と称したが、その間に欧州諸国による西南・東南アジア・シベリアの占領が進む。之をもたらした要因を、一説には支配級の満洲族が中華本部の護持に汲々として対外発展の気力を自ら封じたとするが、蓋し満洲を「封禁の地」として過疎のまま維持したことは、朔北シベリアをコサックの蹂躙に任せロシア帝国の成立を助けたわけで、肯綮に当たるものがある。

 アジア的停滞は漢族支配の明朝によって明確化した傾向であって、異民族のせいにするのは如何なものかと思うが、折角漢族支配を恢復した中華本部が、世界史の分岐点に当たるこの時期に再び異民族支配に戻ったのが、偶然か或いは必然的要素があるのかは、中華史の一大問題であろう。

 さて、乾隆帝は乾隆四十七年(一七八二)四庫全書の完成を見るや、奉天宮殿を大改装して文遡閣を設けた。恐らく、これに紛れて皇太極を祀る北陵(正式名称は昭陵)にも改装を施して秘密倉庫を造り、紫禁城に秘蔵していた歴代の古陶磁に康煕・雍正・乾隆三代が特命で設けた御窯の御庭焼を併せ、厳秘裡に奉天に送って秘密倉庫に隠匿させたのであろう。「奉天古陶磁」これである。

 大正初年に二代目醇親王から「奉天古陶磁」を譲り受けた堀川辰吉郎は、これを張作霖支援の原資とするために、大正六年初頭に一先ず張作霖が強奪した形とし、大正十四年初頭に紀州徳川家から代金七百五十万円を受け取った張作霖が、それを奉天兵工廠の拡充資金とする。この時日本に渡来した「奉天古陶磁」は、大谷先瑞師の指示で、間もなくその一部が流出して世界各地の美術館の目玉となり、日本に残ったものは多くが重要文化財に指定された。流出品は全てオリジナル品で、清初三代の皇帝の御庭焼は最後まで紀州に残った。私見によれば、御庭焼を選んで残したのは意図的で、それは御庭焼が特殊な性格のものだったからである。

 清初三代の皇帝が景徳鎮官窯の振興を命じ、官窯品の品質向上に執着したことは記録にも残り、遺品も多い。殊に第二代雍正帝はその短い治世の間、政務に寧日無き中で、唯一の趣味は陶磁器の製作であった。官窯製品は紫禁城・円明園離宮・熱河避暑山荘で装飾・実用など宮廷生活に用いられ、或いは皇帝蒐集品として保管されたが、他に十万余件が予備品として奉天宮殿に秘蔵された。ところが、乾隆帝が奉天北陵に隠した「奉天古陶磁」の中に在った清初期の御庭焼は、並の官窯とは異なる特設の御窯で造られたらしく、その製作動機も、主として倣古を目的としたものであった。倣古品は一般の官窯でも宣徳・成化の明代窯業最盛期のオリジナル品を模倣して大いに造ったが、御窯の倣古品はそれらとは全く異なっていた。

 中華文明の本質は陶磁文明である。当時それを最もよく知る者が清初三代の皇帝で、この故に官窯を振興させて新作と復古を進めたが、同時にオリジナル品を上回る倣古品の製作をも秘かに試みていた。それが御庭焼で、意匠・作行において已にオリジナル品に勝り、もはや倣古品を超えて、古作を超克した「克古品」の域に達していた。乾隆帝はおそらく、之を天元の玉璽と同じく満州族・漢族・蒙古族が推戴する複合民族国家中華皇帝のレガリアとして奉天に送り、北陵に秘蔵せしめて学者家系の孫氏に管理を命じたのである。

 紀州家の購入資金七百五十万円のうち五百万円を肩代わりした大谷光瑞師は、資金回収のため一部を売却するが、売却対象に歴代の古陶磁と清初官窯の新作品を選び、御庭焼を紀州家に留めたのは、醇親王からおそらく辰吉郎を通じて、乾隆帝の素志を聞いていたからであろう。木稿を書きながら思い出したのは、本願寺忍者を自称して先方から接近してきた某氏が、「奉天古陶磁」について「張作霖はこれを待った因縁で満洲王となり、手放したので落命した。これは滅多な扱いをしてはいけません」と申し起こしてきたことである。恐らく「九龍の壷」が中華皇帝のレガリアであるとの注意を喚起するための、本願寺からのメッセージであろうか。

 私(落合)の想像では、光瑞師が上田恭輔に命じて満鉄窯で「奉天古陶磁」の倣造を始めたのも、日本人の手で清初御窯の「克古品」に匹敵するものを造ろうとしたものと見て善い。大正五年頃から上田恭輔に古陶磁研究を命じ、六年には小森忍を抜擢し、その技量に中尾萬三の薬学知識を併せて、満鉄予算を傾けて取り組んだので、謂わば「光瑞御窯」であるが、日本人陶工の力量が窯業極盛期の官窯に到底及ばないことを悟った光瑞師は、早ぐも方向転換を図り、上田に自立して倣古品製作に進むことを命じた。自立を決意した上田は、販路確保のため、満鉄窯の名義で関乗車参謀長浜面又助に接近する。一方、浜面は粛親王救済資金を造る目的で倣造工作への加担を陸軍中央に具申して認可を得た。


 紀州家に御庭焼を残したのは、辰吉郎か光瑞師の建てた基本方針によるもので、中華皇帝のレガリアを安易に流出させるわけにはゆかぬからである。「奉天古陶磁」の嵌め込み先として、財源が深い上に経済事業も消極的のため、多少の経済変動に煩わせられる心配のない紀州家を選んだのは、時機の到来するまでレガリアを安全に秘蔵せしむる主旨であったようだ。醇親王は正に満洲の将来を「奉天古陶磁」中の「克古品」と共に、堀川辰吉郎に託したのである。


 因みに、昭和七年建国の満洲国が悍恟した五族協和は、かつて皇太極を皇帝に推戴した満州族・漢族・蒙古族に、日本族・朝鮮族を加えた複合民族国家の理念を示すものであったが、醇親王の長男溥儀が就いた満洲国皇帝にはレガリアは渡らなかった。恰も、満洲国の前途を危ぶみ反対の姿勢を示した醇親王が北京を動かず、満洲国と一線を画したのと軌を一にするものがある。満洲国では甘粕正彦が官窯の設置を計画し、昭和十八年吉林省の五万坪の地に新設した厚徳官窯の製陶所長を小森忍に委嘱して清初御窯の再現を図ったが、日本の敗戦と共に烏有に帰した。

 日本の敗戦と時を同じくした中国の国共内戦が共産党軍の勝利に終わり、新たに生まれた中華人民共和国は、正に「後清」ともいうべき複合民族国家であったが、東西冷戦のために日中間の交渉は二十年に亘り閉ざされることとなった。「奉天古陶磁」を日中国交回復に活用しようと考えていた大谷高光瑞師は、終戦直後に満洲で発病しソ連軍に抑留されたが、二十二年に帰国して翌年病没、光瑞師の八歳下で明治十七年生まれの醇親王も昭和二十六年に病没する。

 光瑞師の遺志は、東本願寺の大谷光暢師が夫人の智子裏方を通じて継承を申し出て、了承されたが、冷戦の影響で日中の国交回復は進まず、レガリアは空しく紀州家周辺の蔵で眠りながら、発現の時機を待っていた。昭和四十一年の辰吉郎の逝去に間に合わなかった日中国交回復は、四十七年に田中角栄・大平正芳によって達成され、「奉天古陶磁」は終に出番を得なかった。平成元年に智子裏方が薨去、次いで徳川為子夫人も他界したので、「奉天古陶磁」は庇護者を喪い、稲垣伯堂画伯を介して紀州文化振興会に移ったのである。

 最近、牽牛子塚古墳が八角陵と判明して斉明天皇の御陵と確定した。斉明の属する大智天皇系の陵墓が悉く八角陵だからで、これに寄せた学校史家の見解は、仏教意識の高まりによる蓮華文とか、道教思想によるものとするが、墓制は文化の芯核として最も保守的で、一時的な流行や思い付きを採用するものでは決してない。

 「八」こそは、東北アジアの騎馬民族の聖数であり、これを用いる処に天智系皇統がその本質を顕しているのである。「八」が軍制・政治制度に顕れるのは、蒙古族ないしツング
ース・チュルク族の「契丹八部」、女真族の「満洲八旗」、北朝の北魏・北周などの「八柱国」など枚挙に暇がないが、わが朝に於いても応神天皇を表す「八幡」は騎馬系統に属する族種の象徴数である。聖徳太子に所縁の法隆寺夢殿と広隆寺桂宮殿も八角堂で、その祖形は騎馬民族が部族会議を催した八角の天幕であり、それを高層化したものが奉天宮殿の主棟の大政殿である。

 東亜の風雲は急である。五族が真に協和する時期の到来を願って已まず、その節にはレガリアがその姿を現すだろう。 

 ************* 

 
 ●疑史 (第73回)  
 <了>。
 
 


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