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●『大逆事件 死と生の群像』
 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 第十章 社会を動かす仏教一内山愚童・高木顕明
 
 四 内山愚童の「天皇と仏教」批判  

 
 高木顕明が大逆事件そのものとしてみるときは周辺に位置したのに対して、内山愚童はかなり中核的な役割を果たした。内山自身は直接テロに関わったわけではないが、自ら地下出版した『無政府共産』では、はっきりと天皇を批判しており、宮下太吉がテロを志したのにも影響を与えた。

 内山は明治7年(1874)新潟県の小千谷に生まれた。幼名・慶吉。父・直吉は和菓子の木型を作る職人で、慶吉は小学校を卒業すると父の見習いをしていた。17歳のとき父が事故で亡くなり、家長となったが、20歳のときに上京して、井上円了の家の書生または家庭教師になったという。明治30年(1897)、叔父の青柳憲道(曹洞宗の僧)の縁で神奈川県愛甲郡宝蔵寺、坂詰孝童について得度し、天室愚童と称した。この後、参禅修行を重ね、明治34年には神奈川県足柄下郡温泉村(現箱根町)大平台の林泉寺住職・宮城実苗の法を嗣いだ。同36年林泉寺に入り、翌年住職となった。大平台は貧しい土地で、内山はここで住職を続けるうちに社会主義に関心を深め、『平民新聞』の創刊(明治36)以来の読者であった。

 その後、平民社の社会主義者と交流して名を知られるようになり、伊藤證信の無我苑の運動にも共鳴し、交流を持っている。『平民新聞』廃刊(明治40年)以後、社会主義運動が穏健派の議会政策派と強硬派の直接行動派に別れた中で、内山は直接行動派に近づき、「革命は近づけり」という意識を持つようになった。明治41年、社会主義者たちが赤旗を持って街頭行進をしたところ、有力な指導者たちが逮捕され有罪となった赤旗事件があり、社会主義運動は壊滅の危機に瀕した。その状況に危機感を募らせた内山は秘密出版を志し、自ら執筆したパンフレット『無政府共産』を各地の社会主義者に送り、その後も二冊刊行した。明治42年、その件に関する出版法違反で逮捕され、家宅捜査で見つかったダイナマイトの不法所持と併せて同43年有罪判決を受けたが、獄中で大逆事件について再起訴された。こうして同44年1月18日に死刑判決を受け、24日に処刑された。明治42年に逮捕されたとき住職を退き、同43年有罪判決で曹洞宗から攬斥処分を受けた。曹洞宗が攬斥処分を取り消したのは、1993年であった。

 高木顕明がきわめてはっきりと仏教の立場を表明しているのに対して、内山は必ずしもその点が明瞭でない。確かに、『平民新聞』第10号(明治37年)には、「予は如何にして社会主義者となりし乎」という問いに対して、「予は仏教の伝導者にして曰く一切衆生悉有仏性、曰く此法平等無高下、曰く一切衆生的是吾子、これ余が信仰の立脚地とする金言なるが余は社会主義の言ふ所の右の金言と全然一致するを発見して遂に社会主義の信者となりしものなり」と答えている。それぞれ『涅槃経』『金剛般若経』『法華経』の文句に基づいており、これによるならば、仏教の信仰に合致するから社会主義に入ったということになるが、後述のように、必ずしもそうした理論的な理由によるものとは思われない。

 しかし、石川三四郎ら、林泉寺を訪れた社会主義者たちに座禅を勧めたり、伊藤證信に対して、「折角因縁あって住職した今の地が、三百年来、曹洞宗の信仰の下にあり乍ら、高祖道元の性格は勿論、其名も知らぬといよ気の毒な人ばかりであるから、之を見捨てて去る時は、千万劫此地に仏種を植ゆる事は出来ぬ」(明治38年11月初句頃。柏木隆法『大逆事件と内山愚童』所収) と書いているように、一時期は宗門人として生きる覚悟を強く示している。同じ書簡には、「何人も今の世に在って、真面目に道の為に働かんとする者は、魔窟より発する本山の偽法には堪えられません」と書いて、本山のやり方に義憤を露わにしている。そうした正義感が、貧しい大平台の人々の生活に触れる中で、その社会主義を深めていくことになったのであろう。

 内山の著作としては、地下出版した『無政府共産』と、獄中で書いたとされる草稿「平凡の自覚」が知られている。ただ、いずれにおいても直接仏教に関わるような思想や用語は用いておらず、仏教との関係ははっきりせず、その点が問題となる。「平凡の自覚」に関しては、獄中の執筆ではなく、もっと早い時期に書かれたものではないかという説もある(森長英三郎『内山愚童』)。大逆事件の被告が獄中で書いたものは、秘密保持のために遺族に渡されなかったはずにもかかわらず、この手記は遺族に渡されており、獄中の手記としては疑問があるからである。この点に関しては私には何とも言えないが、後述のように、獄中で書いたことがはっきりしている「獄中にての感想」と似た書き方のところもある。「平凡の自覚」は『無政府共産』に較べれば穏健であり、個人の自覚による社会改良という方向を示している。そこでは、資本家を倒すことではなく、「自覚セル資本家」のあり方をも説いており、社会協調主義的な面が見られる。

 「平凡の自覚」(諸書に収録されているが、ここでは神崎清編『新編獄中手記』による)は、現存の原稿は途中で切れており、最後のほうが散逸している。前書きに続いて、最初の目録では、個人ノ自覚・家庭ノ自覚・市町村ノ自覚・国家ノ自覚・世界ノ自覚・工場ノ自覚とあるが、実際には個人ノ自覚・家庭ノ自覚・村民ノ自覚・市町村ノ自覚・工業界ノ自覚・農業界ノ自覚と進んで、その中途まで現存する。

 その原稿では、まず「自覚」について説明する。「他カラ教ハツタ者デモ、自分が発見シタモノデモ、ソレニハ関係ナシニ、自心二深ク消化セラレテ吾物ニナツタ処ヲ自覚ト云フノデアル」。その自覚は、宗教家・政治家・哲学者などでいろいろ異なっているが、ここでは、「学者モ無学者モ貴キモ賤キモ富メルモ貧シキモ、共力(協力)シテ自覚セネバナラヌ者ガ、ナケレバナラヌ」と、すべての人に共通する自覚をあげている。これを内山は「平凡ノ自覚」と呼ぶ。

 その具体的なところを、「自覚的行動」という項目に記す。そこでは、「一個人ノ発達モ国体トシテノ発達モ同ジイ者」とする。「一個人ノ幼少ノ時代ニハ凡テノ利害が父兄・長者ノ意ノママデアルケレドモ、成長シテカラハ、自己ノ意二逆フテ父兄二盲従スル事ナク、即チ自覚的ニ行動スル」。それと同様に、国体も幼稚な頃は強い人に服従しているが、「事由ノ力量ヲ自覚スル迄二進ンデ来ルト、・・・各個人が参与スル事ニナリマス」。こうして、民本主義、民主主義になるというのである。このように、自覚の問題は、個人だけでなく、同時に政治の問題に関わってくるところに、社会主義者としての内山の面目がある。

 もう一点注目されるのは、続いて、「宗教家ノ自覚、学者ノ自覚ハ、ドウデアリマスカ知リマセンケレドモ、私共平凡ノ自覚二満足シテ居ル者ハ、人民各自ガココ迄、自覚シテクレバ充分デアルト思フノデアリマス」とあるところである。このように、ここでは★「平凡ノ自覚」が「宗教家ノ自覚」と異なるとされている。そのことは、すでに冒頭部分でも言われており、かなり強調されている。先にも触れたように、内山の著述には仏教的な用語や概念がまったくなく、そればかりか、このように宗教との相違が強調される。

 それならば、彼の「平凡ノ自覚」は仏教と無関係なものであろうか。簡単にそうも言えない。このように区別が強調されるところに、逆説的に宗教が強く意識されていると考えられるからである。高木が素直に信仰の立場に立つのに較べて、内山には宗教に対する屈折した思いがある。それは先に触れたように、内山が宗門の現状に対して厳しい批判的な見方をしていたからである。処刑のとき、教誨師から念珠を掛けるように勧められて拒否したというが、そこにも、形式化した仏教に対する批判の意が籠められていたと思われる。少なくともある時期からは、既存の宗派仏教には絶望していたのではあるまいか。

 確かに社会の問題を「自覚」というところから捉えようというのは、社会思想のレベルだけでは考えられず、禅の影響があるかもしれない。また、「平凡」を強調するところには、内山自身がかつて自ら挙げたように、「一切衆生悉有仏性」の発想があるかもしれない。社会問題を「自覚」に還元することは、社会主義の本流から言えば、真の問題を隠蔽するものとも言えるかもしれない。

 しかし、別の観点から見れば、個人の自覚の上に社会問題を考えていこうという姿勢は、思想史的にきわめて重要な意義のあることともいえる。これまで指摘してきたように、日清・日露戦争間に、日本の思想界ははじめて本格的に個の自覚の問題とぶつからなければならなかった。しかし、必ずしもそこでの個の確立は十分に成しえなかった。その中で、「自由・平等・博愛」「独立独歩・自治自適・自由自在」に目覚めた平凡な個人から社会問題へと出発しようという内山の構想は、まさにあるべき個のあり方を提示するものとして注目される。

 「平凡の自覚」についてこれ以上立ち入ることは略し、「獄中にての感想」(吉田久一 「内山愚童と高木顕明の著述」、『日本歴史』131、所収)について触れておこう。「獄中」とはいっても、出版法違反で逮捕された明治42年(1909)10月26日付のもので、大逆事件起訴以前である。はじめのほうが散逸しており、途中からしか残っていない。表題は仮のもので、実際には個人的な感慨を記したものではなく、理性的に行動すべきことを説いた論である。

 ここでも、学者などでなく、「一般の無学者にも、それ相応に理性に従って後悔なきの行動をとることができる」と、「平凡の自覚」と同じような論調で論じられている。ただ、「其理性に従って行動した為に、断頭台上の露となっても、十字架上の辱かしめを受けても、寒風骨を刺す北海の地下獄に半生を終るとも、泰然自若たることが出来る。これが人生の幸福と云ふものである」と、厳しい刑罰を予想して、それに動じない信念の確立を説くところに、獄中での切迫した状況がうかがわれる。

 最後に、『無政府共産』について見ることにしよう。本書は諸書に収録されているが、柏木隆法『内山愚童と大逆事件』所収本による。本書は前述のように、赤旗事件の後、社会主義壊滅の危機感の中で、地下出版の第一号として出されたパンフレットである。旧式の印刷機を林泉寺の本尊の須弥壇の袋戸棚に隠し、自ら活字を拾って作り上げた。表紙には「入獄紀念無政府共産」とあるが、「入獄紀念」は赤旗事件の入獄者を記念するということである。地下出版はその後、『帝国軍人座右之銘』(大杉栄の訳文の改変)、『無政府主義・道徳非認論』(バシンスキー、大石誠之助訳)の二冊を出している。

 本書は「小作人ハナゼ苦シイカ」として、もっぱら小作人に訴える形で進んでいく。そのポイントは、「なぜにおまいは、貧乏する。ワケをしらずば、きかせうか。天子、金もち、大地主、人の血を吸ふダニが居る」と歌われている。これは『日本平民新聞』第一四号付録『労働者』に載った「社会主義ラッパ節」の替え歌であるが(柏木隆法『内山愚童と大逆事件』、101頁)、その際、元歌の「華族」を「天子」に替えたところに、本書の主張がある。金持ちや大地主を攻撃するだけならば、社会主義に共通することであり、危険思想とされても、合法的な出版が不可能ではなかったであろう。しかし、その批判が直接「天子」に向かうことにより、その出版は敢然として「不敬」に挑むことになった。


 今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、すると云ふことがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義を おもんずる勇士の、することで あるかと云ふに。今の政フや親玉たる天子といふのは諸君が、小学校の教帥(ママ)などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の祖先は、九州の スミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの。ナガスネヒコ などを亡ぼした、いはば熊ざか長範や大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考へて見れば、スグ しれる。


 天子を正面から批判し、「今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、する」ことを訴える論調は、もはや完全に非合法な活動へと踏み込むものである。「何事も犠牲なくして、出来るものではない。吾と思わん者は、此正義の為に、いのちがけの、運動をせよ」、あるいは、「無政府共産と云ふ事が意得せられて、ダイナマイトを投ずる事をも辞せぬと云ふ人は、一人も多くに伝道して願ひたい」と、実行を迫ることになる。

 この内山の呼びかけは、あまりに過激として同志たちに無視された中で、正面から応じたのが宮下太吉であった。宮下は、・・・(既述の経歴なので)中略・・・

 そこで問題は、この『無政府共産』が仏教と関係するか、ということである。本書は最初に、小作人がなぜ一生懸命働きながら苦しいか、という問いに、「そは仏者の云よ、前世からの悪報であらふか、併し諸君、二十世紀といふ世界てきの今日では、そんな迷信にだまされておっては、末には牛や馬のやうにならねばならぬ、諸君はそれをウレシイト思うか」と、仏教の業説が「迷信」として批判の対象とされている。

 この場合も、仏教が意識されていることは確かであるが、「平凡の自覚」以上に、仏教との直接の関係は見がたい。「平凡の自覚」の場合は、そこに屈折した禅的な発想を見ることが不可能ではないが、『無政府共産』の場合は、そこに仏教を見ようとするのはかなり無理があろう。むしろ最初に仏教の業説示否定されているところに、因襲的な仏教に対して批判的になっている姿勢が見られる。

 内山が三番目に地下出版したバシンスキー『道徳非認論』は、大石誠之助の訳と考えられているが、平民の自覚を防ぐために、「これまでは宗教が其ノ道ぐ・具として甚だ有力なものであったが今日では最早昔日における程の効能がなくなった」として、宗教に対して否定的な見方を示している。その表紙には、「道徳と宗教とは、泥坊の為に番頭の役を勤むる者なり」と、明確に規定されている。

 内山が仏教を捨てたとは単純には言えないであろうが、内山においては仏教と仏教批判、そして仏教離れが屈折したかたちで深く関連している。批判という形で宗教、仏教に投げかけた問題を見るべきであろう。

 
 ★五 土着思想の可能性 

 
 大逆事件と仏教という問題は、大逆事件で刑に服した三人の僧侶の問題に限られるものではない。何よりも三人を出した宗派の問題であった。三人を出した曹洞宗・浄土真宗大谷派・臨済宗妙心寺派は、それぞれ慌てて三人を攬斥処分にするとともに、宗門寺院に諭達を発し、曹洞宗・臨済宗妙心寺派では宮内省などにおうかがいを立てたり、陳謝したりした。時代の制約とはいえ、★「尊皇護国ヲ以テ立教ノ本義トシテ此ノ宗門ヲ開創セラレ」「天恩二感激シ奉り日夜孜々トシテ報効ノ実蹟ヲ奏センコトヲ熱衷スル」(曹洞宗の諭達、吉田久一 『日本近代仏教史研究』、481頁)と何の躊躇もなく言い切る宗門に内山が絶望しきっていたとしても、それをとがめることはできないであろう。

 大逆事件によって逆説的に明らかにされた当時の社会主義者たちのネットワークは、上からの宗教利用と異なり、草の根レベルでのキリスト教と仏教、社会主義、部落解放運動、非戦思想などの交渉と習合、協力の関係を明らかにする。それは、先の大沢正道の批判とは逆に、純粋純血の輸入思想と正反対であるからこそ、土に根ざした思想の定着の可能性を明らかにしてくれる。

 彼らの復権は1990年代になってからであり、彼らが時代にあまりに先走って開いた可能性は、いまだに十分に受け止められていない。明治の仏教が垣間見せたわずかな可能性をどのように切り開いていけるかは、なお今後に残された課題である。

 **************** 

 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ 
<了>。
 

 
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