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●『大逆事件 死と生の群像』
 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 第十章 社会を動かす仏教-内山愚童・高木顕明 
 三 高木顕明の社会主義 

 
 249p~
 内山がかなり強いアナーキズムの思想を抱き、直接行動に踏み込もうとしていたのに対し、ともに紀州新宮の大石誠之助(1867~1911)このグループに属する高木や峯尾は、はるかに穏健であった。大石はアメリカ留学帰りの医師として財力もあり、地元の名士として人望も厚かったが、持ち前の正義感から社会主義へと入っていった人である。幸徳秋水とも親交があり、そこから共同謀議の濡れ衣を着せられることになり、そのグループのメンバーとともに一網打尽に逮捕されることとなった。その中でも高木は、逮捕されたとき46歳と、逮捕者の中でも年長であり、それまで新宮の浄泉寺住職として、地道な実践を重ねてきていた。それだけに、その社会主義も深い信仰と実践に裏打ちされたものを持っていた。

 高木は元治元年(1864)愛知県西春日井郡に生まれた。17歳頃までに出家して、尾張国小教校に学んだ。もともと山田姓であったが、30歳のとき道仁寺の高き義答の養子となり、高木姓を名乗るようになった。その頃から新宮を中心に布教活動に従うようになり、明治32年(1899)36歳のときに正式に浄泉寺の住職となった。浄泉寺はその檀家に多数の被差別部落があり、そこから差別問題に関する認識を深め、同時に、日露戦争に対しては非戦論を唱え、また、公娼制度に反対するなどの活動の中から、社会主義に接近した。
「余が社会主義」(1904*浄泉寺HPで読める。)は、このような中で書かれた彼の社会主義宣言である。

 その後も、「虚心会」を開いて部落改善運動に取り組んだり、新宮の社会主義の中心人物であった大石誠之助のグループと交わり、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したこともあった。こうしたことが大逆事件連座につながることとなった。明治43年(1910)逮捕され、翌年死刑判決後に無期懲役に減刑され、秋田刑務所に服役中の大正3年(1914)に自殺を遂げた。起訴されたとき、住職を差免され、判決時に大谷派から排斥されていたが、1996年ようやく処分が取り消されて名誉を回復し、今日その活動が評価されつつある。

 高木の社会主義思想は「余が社会主義」に述べられている。短い文章であるが、論旨が明瞭で、その思想をよくうかがうことができる。その緒言には次のように言う(以下、「余が社会主義」の引用は、真宗ブックレット『高木顕明』所収のものによる)。

 余が社会主義とはカールマルクスの社会主義を稟けたのでない。又トルストイの非戦論に服従したのでもない。片山君や枯川君(堺利彦)や秋水君の様に科学的に解釈を与へて天下二鼓吹すると云ふ見識もない。けれども余は余丈けの信仰が有りて、実践して行く考へであるから夫れを書いて見たのである。何れ読者諸君の反対もあり御笑ひを受ける事であろー。しかし之は余の大イニ決心のある所である。

 この箇所には高木の大きな自負が寵められている。緒言の前半は謙遜のように見えながら、じつは後半の揺るぎない自負と自信を導くための導入である。高きの社会主義はどこまでも自らの信仰に立ち、その実践の中から育ったものであり、決して頭だけの理論で生まれたものではない。頭だけの知識人がどれほど笑おうと、信仰と実践に立つ自分の信念は誰にも負けないという覚悟のほどが示されている。あえて片山(潜)、(堺)枯川(利彦)、(幸徳)秋水の名を挙げたのは、一面では彼らへのコンプレックスであるとともに、他面では彼らに負けないという自負でもある。

 大沢は、高木らの社会主義が「仏教思想そのもののなかから内発的に創りだされていったものではなく」と否定的に見ているが、少なくとも高木としては、それを仏教自体から出てくるものと考えている。そして、本論において、平民社をも含めて、外から持ち込んできた社会主義をしばしば批判の対象としている。身についた仏教の中から出てくるものこそ本物であり、外から持ち込んできたものは借り物にすぎないというのである。

 頭で考えられた社会主義ではなく、信仰と実践から出てきたものだという自負は、本論のはじめに、「社会主義とは議論ではないと思う。一種の実践法である。或人は社会改良の預言ぢゃと云ふて居るが余は其の第一着手ぢゃと思ふ」といっているところにも示される。「余は社会主義は政治より宗教に関係が深いと考へる」というのも、決して無理やり社会主義を仏教と結びつけたというわけではなく、以下を読んでいけば、きわめて自然な発想として彼の信仰から生まれていることが知られる。

 社会主義を政治の問題でなく、信仰の問題とするのは、一方にキリスト教社会主義があることを見ても、必ずしも不自然なことではない。仏教を地盤とした社会主義の構築は十分に可能であるが、成功した例は必ずしも多くはない。その中で、高木の実践に鍛えられた思想は一つの手がかりを提供しているように思われる。

 本論は、社会主義を信仰の対象と信仰の内容という二面から考察する。信仰の対象はまた、教義・人師・社会の三つがある。教義は南無阿弥陀仏であり、人師は彼の理想とする人で、釈迦やその他の仏教者、とりわけ親鸞を挙げる。社会は極楽という理想世界である。ここで注目される点を挙げてみると、第一に「南無阿弥陀仏」に平等を見ている点である。「詮ずる処余ハ南無阿弥陀仏には、平等の救済や平等の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ」と述べている。これは必ずしも無理な解釈ではない。法然の『選択本願念仏集』では、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」という名号を選んで衆生に与えた理由として、誰にでもできる易行であるということを挙げ、阿弥陀仏の「平等の慈悲」を強調している。もちろん親鸞も基本的に法然を受けている。

 ただ、法然にあっては、その平等性は宗教的な観点に関してのみ言われるもので、現実の社会の変革は当然ながら意図されていない。しかし、高木は極楽を理想世界と見て、必ずしもそれを来世のこととは見なかった。「真二極楽土とは社会主義が実行せられてある」といわれるように、それは理想の社会主義の実現を我々に示してくれる模範だというのである。極楽を手本として、現世にその平等の社会主義の社会を実現しなければならない。

 高木は、こうして浄土教の教義に社会主義を読み込む。釈尊は「霊界の偉大なる社会主義者」であり、親鸞もまた、「心霊界の平等生活を成したる社会主義者」であるという。戦後、服部之總らマルクス主義者によって親鸞の再発見がなされるが、高木の親鸞並びに浄土教解釈はそれを先取りするものである。しかも、高木は釈尊や親鸞の社会主義を「現今の社会主義者とは議論は違ふ」として、単純に当時の社会主義と一括されることを拒否している。高木の浄土教的社会主義は、十分に浄土教の近代的解釈の範囲内で出てきうるものであり、それほど無理のあるものではない。

 もう一つ注目されるのは、
「此の南無阿弥陀仏に仇敵を降伏するという意義の発見せらるゝであろーか」と、念仏者が日露戦争に対して開戦論を主張していることを批判していることである。「余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る」とはっきり言明し、念仏者でありながら戦争を主張する南条(文雄)や比較的身近にいた開戦論者の仏教者・毛利柴庵(牟婁新報)の名を挙げて批判している。後のほうでも、繰り返し非戦論を主張している。日露戦争時にはキリスト教徒の非戦論が名高く、仏教者の非戦論はないわけではないものの、これほどきっぱりと表明されたものは他には見られない。高木の態度は高く評価されなければならない。

 次に、信仰の内容としては、第一に「思想の回転」を挙げる。これは回心とも言うべきもので、「一念皈命(きみょう)とか、行者の能信」とかいうことであるが、それも単純な信仰世界の問題にとどまらない。一部の特権者のために「一般の平民が犠牲となる国二棲息して居る」のであるから、「実に濁世である。苦界である。闇夜である。悪魔の為めに人間の本性を殺戮せられて居るのである」。その中で、御仏の声を聞き、光明を見つけて、「真二平和と幸福を得た」のであるから、いまや「御仏の成さしめ給ふ事を成し御仏の行ぜしめ給ふ事を行じ御仏の心を以て心とせん」ということになる。ここには、精神主義に見られた受け身一方の阿弥陀仏信仰ではなく、積極的に御仏の行を自ら果たしていこうという実践的姿勢が見られる。

 それゆえ、信仰の内容の第二は「実践行為」である。我々は「大爵位とか将軍とか華族とか云ふ者に成りたいと云よ望みはない。・・・生産の為めに労働し、得道の為に修養するのである」。こうして「念仏に意義のあらん限り心霊上より進で社会制度を根本的に一変するのが余が確信したる社会主義である」。

 以上、「余が社会主義」を検討してみた。そこでは、浄土真宗の立場に立ちながら、そこからどのようにして社会主義が可能であるか、その可能性を切り開こうとしている。それは決して無理な理論づけではなく、高木自身の仏教者としての実践の中から生まれてきたものとして説得力を持つ。また、ともすれば受け身一方になりがちな浄土教の立場に立ちながら、あくまで積極的な努力を求める点でも、新しい方向を開くものである。「余が社会主義」に見る高木の社会主義は、暴力革命やテロに結びつく要素は少ない。その後も一貫して社会主義を主張したが、その基本的な方針を変更したようには見えない。

 高木は1994年に処分が取り消されて名誉が回復され、被差別部落解放や非戦論の実践を伴うその社会主義に対する再評価が進みつつある。ただ、今のところそれが浄土真宗という宗門内の問題にとどまっているところが大きく、その枠をどのように乗り越えられるかが一つの課題であろう。それには、大石誠之助を中心として地方に根ざした活動を進めた新宮グループの社会主義全体から見直してゆくことが必要と思われる。そのグループの中では、キリスト教徒で連座を免れ、一生小説などによって事件の真相を訴え続けた沖野岩三郎(1876~1956)も注目される存在である。与謝野鉄幹を通して、大逆事件の弁護士として名高い平出修を被告たちに紹介したのも沖野である。

 その新宮グループのもう一人の仏教僧、臨済宗の僧・峯尾節堂1885~1919)について
もここで触れておこう。峯尾はもともと新宮の出身で、幼時に父と死別して、寺に入り、妙心寺で修行した。しかし、僧としての生き方に疑問を持ち、大石誠之助のグループに加わったが、社会主義にも完全には共感できず、大逆事件の頃には大石とも離れていた。したがって、高木以上に事件のとばっちりを受けた冤罪性が強い。死刑判決後、無期懲役に減刑され、千葉監獄に服役中、流行性感冒で亡くなった。

 峯尾の著述としては、服役中に書いた「我懺悔の一節―我が大逆事件観」(神崎清編『新編獄中手記』所収)が残されている。回心して「陛下は私の生命の親様であります」という天皇主義の立場に立って、大逆事件を振り返ったものであり、その限界はあるが、事件の当事者による証言として重視されている。

 思想的には、「あゝ恐るべきは科学一方で即ち唯物論的見地に立って世を解釈し人を救ふとするの人である。私の失敗・堕落も、元はと云へば如来を信じ乃至天地間に厳たる因果律の存在するといふやうな天地的洪大な東洋思想が欠如して、唯々物慾にかられて其の日を空しく消費してゐた不敬虔な精神に胚胎してゐる」というところに尽きるであろう。社会主義者が転向して東洋思想を賛美するようになることは、大沢正道の指摘するように、この後パターン化するが、その原型ともなるものである。僧であったことはこの文中には出てこないが、もともと僧であっただけに、その方向へ向かいやすかったであろう。獄中では、禅よりも親鸞の他力思想に接近した。逮捕後、臨済宗妙心寺派より擯斥処分に処せられたが、1996年に処分を取り消された。

 ************* 

    続く。
 

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