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●『大逆事件 死と生の群像』
                      明治思想家論

 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 ★第十章 社会を動かす仏教  内山愚童・高木顕明 241P~

 一 社会変革をめざす仏教 

 
 ここまで個人思想家を中心に取り上げながら、明治の思想史の中での仏教の役割を考えてきた。ごく常識的にいえば、明治の思想史は、初期の啓蒙主義から自由民権運動へと進み、その退潮の中で、帝国憲法の発布(明治22、1889)、議会開設(明治23、1890)により、立憲君主国として近代国家の形態を整える。しかし、同時に教育勅語の発布(1890)により、学校教育の場を通しての国民道徳の形成へと進むことになる。そして、その後の「教育と宗教の衝突」論争を通してキリスト教が非難の槍玉に挙げられた。それに対抗する形で、個の内面の深化が、とりわけ日清・日露戦争間の10年にひとつの頂点に達した。これまで主として考察してきたのは、その間に仏教が果たした大きな役割であった。

 その中で、田中智学のように、そのような枠に納まりきらず、より社会的な活動に進んでいくものもあった。その面から見れば、清沢満之にしても、宗門改革や教育活動に最後まで意欲を燃やしており、決して社会的な側面を無視していたわけではない。しかし、満之の活動は挫折し、智学の活動は国家へと収束して、批判性を失っていった。清沢没後の精神主義一派にも日露戦争に対する非戦論的な動向か見られたが、それも大きな広がりを持つにはいたらなかった。

 それでは、社会的な問題に対して、批判的な目を持ち、底辺から社会の問題を考え直し、変革しようという仏教者は他にいなかったのであろうか。確かに、そのような面はキリスト教のほうが目立った活動をしている。明治期の社会主義の重要な部分はキリスト教徒によって担われている。だが、仏教者にも社会に目を開いた活動がなかったわけではない。

 日清・日露戦争期に確立した日本の資本主義体制は、同時に貧困問題や労働問題を惹き起こすことになり、社会運動・労働運動が活発化し、やがて社会主義へと展開してゆく。その間、仏教者の間でも社会的意識に目覚めた活動が始まる。当初活動の中心となったのは古河勇(1871~1899)で、明治27年(1894)に経緯会を結成して、伝統的な教団に対して批判的な自由な立場を主張した。しかし、古河が若くして没したため、その活動は頓挫し、経緯会も明治三一年には解散された。

 その後、境野黄洋らが中心となって、仏教清徒同志会(明治32)から新仏教徒同志会(明治36)へと新たな活動に向かうことになった。そこには、高島米峯、加藤咄堂、伊藤左千夫などが集まり、雑誌『新仏教』を刊行して論陣を張った。新仏教徒同志会の綱要は次のように謳っている。

  一、吾徒は仏教の健全なる信仰を根本義とす
  二、吾徒は信仰及道義を振作普及して社会の改善を力む
  三、吾徒は宗教の自由討究を主張す
  四、吾徒は迷信の勦絶(そうぜつ)を期す
  五、吾徒は従来の宗教制度及儀式を保持する必要を認めず
  六、吾徒は宗教に関する政治上の保護干渉を斥く

 ここには政治的な干渉を退け、自主的な社会改善へ向かう志向が明白に表明されている。『新仏教』の執筆者は、右から左まで多岐に亙り、必ずしも一方に偏ったものではないが、一方で旧弊を改めない伝統的な仏教への批判を行なうとともに、他方では清沢満之らの内省主義に対して、社会意識を失ったものとして厳しい批判を突きつけた。社会主義者たちにもかなり積極的に発言の場を与え、堺利彦や石川三四郎も寄稿している。

 活動の中心になった境野黄洋(哲、1871~1933)は、哲学館(東洋大学)の出身で、ま
た村上専精の高弟として仏教史学者としても大きな成果をあげ、後には東洋大学の学長ともなっている。他方、同じ真宗大谷派内の精神主義批判の先鋒に立つなど、強い社会的な問題意識を堅持した。また、やはり中心の一人であった高島米峰は幸徳秋水とも親しく、その遺稿『基督抹殺論』の刊行に尽力している。他にも、『牟婁新報』を刊行して、菅野スガ(幽月)・荒畑寒村らの先鋭的な社会主義者を記者として招いた毛利清雅(柴庵、さいあん)なども注目される。

 さらに、仏教系の社会運動としては、伊藤證信(1876~1963)の無我愛の運動が明治37年(1904)に始まっていることも注目される。伊藤は真宗大谷派の僧であったが、脱宗して自由な立場に立ち、仏法の根本を無我の愛に見て、その実践運動を展開した。明治38年に無我愛に基づく共同体の場として東京巣鴨に無我苑を開き、そこには経済学者・河上肇が教職をなげうって参じたことがよく知られている。初期の伊藤は日露戦争に反対し、社会主義とも近い思想を表明していたことから、内山愚堂も親交を持っていた。

 その運動はまた、西田天香(1872~1968)の一灯園の活動とも通ずるところを持って  おり、明治だけでなく、大正・昭和へかけて運動を展開するが、やがて天皇主義、国家主義の中に呑み込まれてゆく。そのあたりについて、ここではこれ以上立ち入らないが、栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争』(専修大学出版局、2002)という好著があることを紹介しておく。

 
 二 大逆事件と三人の僧侶

 
 そうした中で、一躍社会の注目を引いたのは、大逆事件に三名の仏教者が参与していたことであった。即ち、内山愚童、高木顕明、峯尾節堂二である。内山は曹洞宗の僧で、死刑判決を受けて、処刑された。高木は浄土真宗大谷派の僧で、死刑判決の後、無期懲役に減刑されたが、刑務所で自殺した。峯尾は臨済宗妙心寺派の僧で、同じく死刑を無期懲役に減刑され、服役中に病死した。いずれも強い社会的な関心を持ち、それが冤罪によって十分にその思想を成熟させるに至らず、不遇の死を遂げるに至った。

 以下、彼らの思想の検討に入るに先立って、大逆事件についてごく簡単に触れておこう。・・・中略・・・

 ・・・
 このように、大逆事件はその実態を長いあいだ国民に知らせないまま、控訴なしの大審院の一回限りの判決で、「恐るべき無政府主義者の陰謀」を裁いたのである。その実態が明らかになるのは、はるか後の昭和の敗戦以後であり、三人の僧侶の名誉の回復はじつに1990年代にまで下らなければならなかった。

 大逆事件に関与した仏教者の思想と活動については、吉田久一の『日本近代仏教史研究』(1959)が先駆的であると同時に、関連した資料を丹念に調べ、研究の基礎を作った。その後、内山については柏木隆法『大逆事件と内山愚童』(JCA出版、1979)、森長英三郎『内山愚童』(論創社、1984)などの単著がある。高木については、彼が住職をしていた浄泉寺の現住職・山口範之が復権に尽力し、浄泉寺のウェブサイトは高木に関する詳しい情報を掲載している。また、真宗大谷派の真宗ブックレットの一冊として『高木顕明―大逆事件に連座した念仏者』(真宗大谷派宗務所出版部、2000)が刊行されている。

 ところで、大逆事件に連座した仏教僧について、日本のアナーキズム研究者として名高い大沢正道は、
「アナキズムと思想の土着-大逆事件に連座した三人の僧侶」(中村雄二郎編『思想史の方法と課題』、東京大学出版会、1973)という論文で、この三人の仏教者の言動に問題を投げかけている。大沢は、「これらの僧侶のなかに現われてきたアナキズムは、もちろん、仏教思想そのもののなかから内発的に創りだされていったものではなく、逆にアナキズムが都市から地方へと浸透していく過程で、仏教が、というよりは地方知識人として現実の矛盾に苦闘する良心的な僧侶が、それを受容する、あるいはそれにひきつけられるというかたちで形成されたもの」(大沢論文、385頁)と見ている。その結果、伝統的な仏教と新来のアナーキズムとの「折衷主義路線があえなく挫折し、伝統思想の変革も、外来の革新思想の定着も結実し得なかった」と批判して、その理由を「社会主義ないしはアナキズムと、仏教思想という二つの異質な思想を、その表面上の共通性で結びつけ、わが国のあしき伝統である混合主義の論理によって、異なった次元に配置し、補完、共存、親和の関係でくくった」(同、397~398頁)ことに求めている。大沢の断罪はかなり厳しいものである。

 確かに彼らの社会主義や無政府主義がどれだけ仏教そのものと内在的に関係しているかは、必ずしも明瞭ではないところがある。とりわけ、内山の場合、社会主義・無政府主義に深入りしていく中で、仏教批判的な面をかなり強めていったと思われる。また、峯尾の場合、社会主義に必ずしも強く賛同したわけではないが、大石グループと関係を持ったことで逮捕されることになった。

 しかし、彼らが「異質な思想」としての仏教と社会主義を折衷しただけという大沢の評価は、あまりに無理解な酷評であるように思われる。内山にしても高木にしても、高等教育を受けていない中で、まさしく「土着」の思想としての仏教に立脚しながら、草の根レベルで実践的な思想を鍛え、展開しようとしているのである。とりわけ高木の場合は、きわめて自覚的に仏教に内在しながら社会主義へと展開しようとしており、仏教社会主義といってよいものである。内山も、仏教との格闘の中から無政府主義を深めていっている。

 彼らは確かに高等教育を受けた最先端の学者や活動家たちが、海外の動向を紹介しながら展開した純粋な社会主義、無政府主義とは異質なものであるかもしれない。しかし、海外直輸入の純粋理論のほうが、地道で泥臭い実践の中で苦しみながら生みだした草の根的な運動理論より優れていると、一概に言えるであろうか。むしろ逆ではあるまいか。そのような目で見直すとき、高木や内山の活動や思想には、荒削りで未展開のままで芽を摘み取られた新鮮な可能性と魅力が満ち満ちており、今日、むしろそこから学ぶべきところが大きいように思われる。

 ************** 

 
第十章 社会を動かす仏教一内山愚童・高木顕明 
へ続く。

 


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