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続・落合論文
  (2)-5)吉薗周蔵の母系ー隼人族の血と運命
 


 吉薗周蔵の遺伝子を構成する第三の要素は、母系木下家の有する<隼人族の血>である。吉薗家の血統も、萬助までは大隅隼人であった。

 隼人族と天孫大和朝廷との間には元来深い関係があった。逆に言うと、原初の「日本皇室」は隼人族と近縁であったはずである。

 六尺褌を締め込む姿から、フンドシ族とも呼ばれる隼人は、風習・形質を見ても明らかにポリネシア系で、古くから国禁を無視して、東南アジアの海洋を自由に往来し、各地の同族と通交してきた。同族は、現在もインドネシアにいるという。

 隼人は居住地により幾つかの部族に分かれ、大隅半島の「襲の国」を根拠としたのが<大隅隼人>である。
 <阿多隼人>は薩摩国・西南部の阿多地方に拠った部族で、後に<薩摩隼人>と呼ばれる。

 隼人の名が「日本書紀」に出てくるのは天武11年(683)で、大勢の隼人が入貢し、大隅隼人と阿多隼人が朝廷で相撲を取り、大隅隼人が勝ったと記されている。

 当初は親朝廷であった大隅隼人が、大宝律令の施行(702)以降、一転朝廷に強く反抗したのは、王朝が新たな渡来人に交替したことが原因と思われる。
 新王朝の施策に応じない隼人に対して、和銅6年(713)に大隅、曽於(襲)などの四郡を独立させて大隅国とし、また翌年に豊国・稲積郷から5000人に及ぶ人民を隼人町に移住させたのは、隼人制圧を目的とした新王朝の政策であった。

 こうした朝廷の圧制に対し、大隅隼人は養老4年(720)に大反乱を起こし、国守・ヤコノフミマロを殺害する。
 朝廷は大伴旅人を征・隼人の大将軍に任じ征討軍を派遣し、援軍として豊前国の宇佐軍が加わった。宇佐軍とは、宇佐近辺に定住した秦人(ハタビト)の軍隊と思われる。
 果敢に抵抗した隼人も、やがて1400人の犠牲を出して壊滅し、100個の首級が宇佐に届けられた。この隼人征伐に際して、宇佐族(秦氏)の果たした役割は大きく、宇佐神宮では今日に至るまで中秋祭を開いて、隼人の霊を慰めている。

 稲積からの移住民も秦人で、隼人町に定住し、郷名を、豊国郷、稲積郷と名付け、氏神を<韓国宇豆嶺神社>とし、聖山を韓国岳と呼んだ。これは彼らが朝鮮半島南部からの渡来民だったからで、元来この地は韓国・朝鮮とは何の関係もない。

 隼人は以後も大和朝廷の支配に対して抵抗したため、大隅国では班田制の施行さえ永らくできなかった。そこで朝廷は大隅国一帯を名目的に近衛家領とし、隼人族を荘官に任じることで朝廷の面目を保つこととし、隼人は院・薗・荘の付く姓を名乗り、それぞれ海・盆地・山林を実効支配した。

 その後、九州に移ってきて当地の領主となる島津氏も、出自は秦氏の武人にあると思える。
 

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