カウンター 読書日記 ●『大逆事件 死と生の群像』
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●『大逆事件 死と生の群像』
                    ポスト・モダンと天皇教の現在

 
 ●『ポスト‥モダンと天皇教の現在-現代文明崩壊期に臨んで』


 著 者 竹内芳郎  一九八九年四月二〇日 初版第一刷発行
 発行者 関根栄郷
 発行所 株式会社筑摩書房

 ************

 
 VI 現代世界における日本仏教の課題
 付論 『意味への渇き』 への諸家のコメントについて

 
 最近著『意味への渇き-宗教表象の記号学的考察』は、なにしろ独力で旧石器時代から現代にいたる人類の全宗教表象を視野に収めつつ宗教を論じたものなので、さだめし多くの誤解や無理解が残ったことと思い、そこを今後すこしずつ埋めてゆくためのよすがとして、多少でも協力していただけそうな各分野の専門研究者の方々に、公刊何日かまえに抜刷りまたは著書そのものをお送りし、ご意見を伺うことにした。その結果の重要と思われるものだけをここに掲載し、問題追求の志を同じうする読者の方々のご参考の便に供したいと思う。

 まず原始宗教の章に関しては、・・・
*以下、<原始宗教>、<国家宗教>、<普遍宗教>、<キリスト教>、<イスラーム教>に関して、著者・竹内と当該宗教の一級の研究者・宗教者との真摯な議論(概ね竹内・著への「賛意」や「異論なし」が表明される。)が交わされるが、ここでは省略する。・・・
 
 ***************

 ・・・197p~
 ★(『意味への渇き』の、)日本における宗教表象の特質の章のうち、親鸞については、阿満利麿氏にコメントを依頼してはと思い立ち、『ちくま』誌編集部にわざわざ懇願して氏のコメント原稿を同誌211号に掲載してもらうようとりはからった。しかし、これは無惨な結果におわってしまった。私にたいする氏の批判は、正直言ってすこしも常識論の域を超えていないばかりか、理論展開の次元の混同や論理的に矛盾してしまっている箇所さえあり、あまつさえ、『歎異抄』の「業報」思想にたいして私とはまったく対蹠的な否定的評価を下した加藤周一氏への批判をもって私への批判の代用とするにいたっては、とても並みの神経では肯いかねる底(*態)のものだ。したがって、これにたいして私の方で一つ一つお答えしたところで、その答えはすこしも生産的意義をもち得ないと判断したので、ここではとりあげないこととする。

 それよりもさらに残念だったことは、教祖にたいする宗派外の者からの批判はすべて無理解による雑音だとして排除してしまおうとする氏の一貫した基本姿勢であって、これこそ既述のように、日本宗教者にひろく見られる通弊であって、これでは仏教を現代世界に賦活せしめることなぞ、とても不可能だと痛感させられた。私の親鸞論をお読み下さればすぐさま感じとっていただけると思うが、実は私は親鸞にたいしては二十歳まえから深い敬愛の念を抱いて今日まで来ており、そうであるだけに、氏のような傲岸な態度は、むしろ親鸞自身のためにも悲しむべきもののように思えた。私の人選のまったくのミスであり、この点については『ちくま』誌編集部にも深くお詫びしておかねばならない。

 **************

 
 ★日蓮に関しては、
日蓮精神を現代に活かそうと奮闘している異色の宗教家・丸山照雄氏からコメントをいただく意図をもって、氏と面談した。しかし、結果はおなじく無惨なものにおわってしまった。日蓮については、私は一面ではきわめて高く評価していると同時に、他面ではやり切れないという思いもつよく、そこはきびしく批判しておいた。むろん私の誤解もあろうかと思い、その点の反批判を期待して氏と面談したわけだが、氏はそれにはまったく答えてくれず、それに代えて、もっぱら親鸞と真宗にたいするはげしい攻撃に終始してしまった。ただ、ここには重要な思想問題が伏在しているようにみえるので、あえてそれを紹介しておこう。氏の所論はつぎのとおり―

 親鸞は土着的なもの、特殊的なものから出発しつつそれらを捨象して普遍に到達した。ところが日蓮は逆に普遍から出発して特殊的なもの、土着的なものへと至り、それらを普遍のなかに包摂することができた。だから日蓮は偉大であり、親鸞はダメだ。事実、今日の真宗の最もラディカルな部分をとってみても、彼らは国家宗教としての「靖国」をつぶすのに一切の神社を敵視する運動方針をとっており、これは親鸞の「神祇不拝」に発するものだが、これではけっきょく、わが国の貴重な伝統文化の抹殺におわってしまう。これに比して、日蓮の方は神祇抱え込みであって、宗教的にはるかに寛容であった、と。

 私に言わせれば、この議論はあきらかにおかしい。氏の念頭には、最近のキリスト教「解放の神学」が土着宗教をかつてのようにあたまから排撃せず、むしろこれを包摂する新態度をうち出しているので、これを見習おうという思いがあったと思われ、この善意はたしかに評価できる。ただ、氏はコンテクストが彼我ではまるで逆であることを忘却しているという、致命的な誤りをおかしているようだ。キリスト教の場合、もともとはきわめて排他的な一神教として出発していながら、最近それについての痛烈な自己反省が生まれ、そこからもっと包容的な新態度が形成されるようになったのだ(それでも折衷主義なら何でもよいというものではなく、「キリスト教の将来は、正しい折衷主義とは何であるかの規準を確立する能力にかかっている」と、L・ボフも語っている)。ところがわが国の信仰風土では、もともと神仏混淆の方が伝統であり、そういう風土のなかで普遍宗教としての仏教を屹立させるためにこそ、法然や親鸞はまず「神祇不拝」の新態度をうち出したのである。とりわけ当時の仏教は、この神仏混淆をつうじてこそ国家宗教化してしまっていたのだから、国家宗教との対決を第一の任とする普遍宗教の初心にもどろうとするかぎり、「神祇不拝」はむしろ不可避の通路だったと言えよう。のみならず、今日でも、全国の神社の総元締めたる、神社本庁が「靖国」支持の最大の支柱となっており、しかもこのことに全国のどの神社も抗議の声ひとつ挙げようとせぬ-何たるだらしなさ!-そのかぎりでは、真宗のなかで「靖国」と闘っている人たちが神社一般に敵意を示したとしても、一体誰がこれを非難できるであろうか。
 
 それだけではない。親鸞はいかに「神祇不拝」を説いたといっても、いやしくもそれ
を権力に訴えて他に強制するなぞということは一切しなかったし、それどころか、そうした傾向を示したわが子善鸞を義絶さえしていることは、歴史上はっきりしている。これに反して日蓮の方は、いかに神祇包摂だといっても、それを説く自分の法華経信仰をまさに幕府の政治権力によって全国民に強制することをめざし、それに同調しない者たちは由比ヶ浜に連れだして斬首すべきだとさえ叫んでいる。つまり、彼の〈宗教的寛容なるものは、さきに見た明恵の場合とおなじく、背後に権力による宗教弾圧を秘めでいたのである。しかもこの論理は、現代にいたるもなお確実に生きているのであって、「神祇不拝を貫くキリスト者は不寛容でけしからぬ」とする例の「自衛官合祀」問題に見せた今日の最高裁判決(一名の反対意見か除く)こそ、その何よりの範例ではないか。最も革新的たるべき日蓮仏法が、いつも行政権力への隷従を旨としている今日の最高裁の判決と、こうして論理の上で完全に一致してしまうのである。ここに日蓮仏法の克服すべき負の一面があることに、一点の疑いもあるまい。

 しかるに丸山氏のようなきわめてラディカルな宗教改革者でさえ、こんな自明のこともわかろうとはしない。相も変らず宗祖を無謬のものとして囲いこんだまま自閉してしまい、宗祖をのり超えることこそ宗祖の真精神を現代に賦活する所以だという否定の弁証法が、まるでわからないままでいる。日本仏教には、その最も革新的な部分をふくめてさえ、ほんとうには超越性原理が確立していない証拠である。

 ************

 
★道元に関しては、
すでに執筆時から袴谷憲昭氏とのあいだでかなり立ち入った意見のやりとりがあり、道元についての氏の論考も多数送られてきていた。けれども、同意見の点と対立意見の点とが相半ばし、しかも両者がきわめて複雑に相交錯していて、いまにいたるもそれを解きほぐすことに成功していない。したがって論点整理の仕事は将来の課題に残し、ここでは議論を割愛しておきたい。ただ、私の駒沢大学での講演ならびにその後の討論の経験に徴するに、この大学の仏教者の方々には、むろん袴谷氏もふくめて、道元を囲え込んで自閉してしまう態度は見られず、むしろ自由闊達な討論を歓迎する気風すらみとめられた。これは日本仏教者のあるべき態度への第一歩として、高く評価さるべきだと思う。

 ************

 
★最後に「解放の神学」については、
山田経三氏にご意見を求めたところ、早速、電話で、私の見解に全面的に共感するとお伝え下さった。ただ、三八五ページに、異端訊問をおこなったのがイエズス会員であるかのような記述があるが、これはドミニコ会員に訂正すべきだとのご注意を受けた。もういちど調べなおしたうえ、誤りであればお詫びして次の機会に修正したいと思っている。

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 ★付論『意味への渇き』への諸家のコメントについて      <了>。

  

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