カウンター 読書日記 ●『大逆事件 死と生の群像』
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●『大逆事件 死と生の群像』

                     意味への渇き
                     

 ●『意味への渇き』からの引用を続ける。

 
 第五章 日本における宗教表象の特質

 D 鎌倉仏教の革命性とその限界

 
 320p~・・・ところで、このように悪しかおこなえない人間、罪深くしかあり得ない人間、というよりもむしろそのような人間だとみずから自覚するほかはなかった人間、「とても地獄は一定すみかぞかし」と覚悟をきめた人間-そういう人間が「深き淵より」呼ばわる声が、「他力」の信仰となって迸る(ほとばしる)こと、しかも絶対的な人格神への絶対的な帰依の心となって迸ること、これは見易い道理だろう。「自力作善の人は、ひとへに他力をたのむ心か(欠)けたるあひだ、弥陀の本願にあらず・・・煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを哀しみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、最も往生の正因なり」〔『歎異抄』〕、というわけだ。ここには、仏教伝統の「業」思想がふかく踏まえられており、実際、『歎異抄』十三段冒頭に見える「善悪の宿業」をめぐる親鸞・唯円の問答のやりとりほど、説得的かつ感動的に「業」思想を説いた例を、すくなくとも私は仏教思想史上他にひとつも知らない。そして、それを踏まえて考えるとき、他力浄土門が自力聖道門にたいして単なる「易行」なのかそれともむしろ「勝行」なのかといった議論も、すべて空しくなる。なるほど法然が、念仏を易行としてのみならずさらにすすんで他にまさる勝行として称揚し選択(せんちゃく)したとき、他の(*既存・主流の自力聖道門)宗派から思い上りもはなはだしいとはげしく弾劾を受けたわけだが、しかしその選択の理由づけを『選択本願念仏集』によって見るとき、「末法の世」論や経典出自論-こうした議論は現代の私たちには無意味だ- とは別に、「一切衆生をして平等に往生せしめむがため」という、信仰における万人平等性*が挙げられており、これはまさに普遍宗教の真面目躍如として、すでにしてきわめて説得的であった。ところが親鸞となると、『教行信証』でこそ著作の性格上、仏法の正統者意識をもって念仏の「最勝直妙の正業」〔行巻〕たる所以を力説している - この議論も現代の私たちには無意味- ものの、『歎異抄』でははるかに屈折していて、「たとひ諸門こぞりて、念仏はかひ(甲斐)なきひとのためなり、その宗あさし、いや(卑)しといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします」とへりくだり、さらに『末燈鈔』を見ると、「この念仏する人をにくみ、そしる人をも、にくみそしることあるべからず、あわれみをなし、かなしむこころをもつべし」という、イエスの教えとおなじ一種の愛他精神にまで徹底している。けだし、他力の信仰自体も己れのはからいでできることではなく、ひとえに「弥陀の御もよほし」〔『歎異抄』〕によるのだとの他力信仰の徹底化のゆえであって、この見地からすれば、聖道門の自力信仰自体ですらも、ほんとうはその人固有の力によるものではなく、「弥陀の御もよほし」によってその人にさずかったものだとも、言えば言えたであろう。ここにわが国における信教態度の伝統的な〈だらしなさ〉の結果としての寛容とはまったく異質の、むしろ己の信仰の絶対性に徹した末にはじめて生まれ得た真の宗教的寛容の、ほとんど神々しいまでの姿がある。 


  * 法然はここで、造像起塔、智慧高才、多聞多見、持戒持律などを本願(往生の条件)とすればいかに救済において差別、不平等が生じてしまうかを、実に説得的に語っているが、その結論が、「一枚起請文」中の結句 ― 「念仏ヲ信ゼン人ハ、たとひ(釈尊)一代ノ(説)法ヲ能々(よくよく)学ストモ、一文不知ノ愚鈍の身ニナシテ、尼入道ノ無智ノともがらニ同じうしテ、ちしや(智者)ノふるまいヲせずして、只一向に念仏すべし」、となるわけである。・・・


 実際、親鸞まできた他力信仰の徹底性たるや、まことにおどろくべきものがあり、「念仏は行者のために、非行非善なり」、「念仏には、無義をもて義とす」、「善悪の二つ、惣じてもて存知せざるなり」〔『歎異抄』、『末燈鈔』〕ぐらいならまだしも、『歎異抄』中の一挿話-「いくら念仏を称えても一向に踊躍歓喜の心がおこらないのはどうしたことでしょうか」との唯円の疑問にたいして、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり・・・仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と応じているのをまのあたりにするとき、その信仰の凄さにおもわず絶句するのほかはない。こういう立場からすれば、「念仏まうさんごとに罪をほろぼさんと」考えたり、「本願の嘉号を以ておのれが善根とする」態度をとったり、あるいは逆に「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざる」態度をとったりすることは、すべて「本願誇り」(「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさん」とするもの)として邪道だということになるが、しかし、「本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてさふらへ」として、それさえも弥陀の慈悲心にあたたかく抱きかかえられることとなる。こうしてみると、この信仰では一切がゆるされることとなり、「易行道」の名にふさわしく、すこぶる気が楽になりそうにもみえるが、しかし、実際にこのように信じ切るまでに信仰を徹底させることは、聖道門の「難行道」とすこしも違わず、ひどく困難なように私にはおもわれる。事実、『教行信証』に説かれている彼の信仰の理論的表現を見るとき、私たちはそれが自力聖道門における表現とあまりにも酷似しているのに、しばしばおどろかされるのである。たとえば ― 

 念仏は「不回向の行」〔行巻〕、「非作の所作」〔真仏土巻〕、と表現されている。私の信仰への決断自体、実は仏の方からのはからいであり、往相(自利)も還相(利他)もふくめてすべての回向が仏からの回向であって私からのそれでない以上、あるいはそう信ずべきである以上、この表現は的確である。けれども、やはりいかにも禅的ではないか? (たとえば道元の「静中の無造作」と比較。〕また、「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」-これまた彼自身の痛烈な体験*に裏づけられたもので、けっしてきまり文句の反復ではないが、やはり禅的である。さらに、涅槃諸経典などを引用しつつ、真実とは如来であり、虚空であり、仏性であるとされ〔信巻〕、また非作の所作は解脱であり、虚無であり、如来である、一切有為は無常であり、虚空は無為なるがゆえに常であり、仏性であり如来であるとされ〔真仏土巻〕、極楽もまた「無為涅槃の界」とされ〔化身上巻〕、「西方寂静無為の楽は、畢竟逍遥して有無を離れたり」、「仏に従ひて逍遥して自然に帰す。自然は即ちこれ弥陀の国なり」と語られるとき、念仏信仰もまた結局はおなじみの東洋的無為自然主義、禅的な悟達の世界とあまりかわりないものへと帰着してゆく**。したがって、ただひとつ肝要なことは、我のはからいを排除すること(「他力と申し候は、とかくのはからひなきを申し候也」〔『末燈鈔』〕)、「親鸞八十八歳御筆」(八十六歳時の筆になる『末燈鈔』五もほぼおなじ)で説かれている「自然法爾(じねんほうに)」ということ、以外にはないこととなろう。だが、どうしてこのように他力が自力と相接近してしまうのであろうか?


 * 親鸞は、一方では、「弥陀の五却思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばく(多く)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」〔『歎異抄』」とつね日頃述懐しながら、他方では、最晩年(八十五歳)になってからでも、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実(こけふじち)のわが身にて 清浄の心もさらになし」、「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆへに 虚仮の行とぞ名づけたる」〔『正像末浄土和讃』愚禿悲歎述懐〕と、煩悩不尽を歎じつづけていた。

 ** ここにはむろん、禅の「無」の思想と相重なって老荘のそれも同時に感じられるはずだが、このようになってしまったのは、★森三樹三郎『無の思想』〔一九六九〕によれば、浄土経の中心たる『大無量寿経』の中国での漢訳にさいして、当時支配的だった★老荘思想がそのなかに大量に入りこんだせいであって、それが親鸞晩年の「自然法爾」思想にも決定的な影響をあたえているという。


 問題は、どうも人格神としての阿弥陀仏の性格のあいまいさにあるような気がする。他力とは、(悟達を志向する自力とは対蹠的に)絶対的な〈帰依〉の感情を基盤とした信仰形態であり、そしてその帰依の感情は、活き活きとした人格神を絶対他者として定立しなければ、けっして発動できるものではない(ユダヤ、キリスト、イスラーム諸教の場合を考えよ)。ところが法然・親鸞における「阿弥陀仏」は、一方ではたしかに、どんな煩悩具足の悪人でも救済してくれる慈悲あふれた人格神であると同時に、他方では、法身、報身、応身、化身などと変幻万化するおよそ把えにくい存在であって、その抽象性たるや、さきに引用した『教行信証』中の仏性=如来=真実=虚空=無為=自然などの特徴づけと、『末燈鈔』中の「無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず」云々の説明文、さらに『唯信鈔文意』中の「法身(ほっしん)はいろもなし、かたちもましまさず。しからば、こころもおよばれず、ことばもた(絶)えたり」云々の説明文とを重ね合せるとき、思い半ばに過ぎるであろう。強いて表現すれば、それは純粋な〈はたらき〉-衆生済度のための- とでも評するほかはないかもしれない。そもそも仏教は、第四章Cで見たとおり、人格神なぞ一切立てぬ法=空を根幹とした無神論的な宗教だったのであり、にもかかわらず後世いわゆる大乗仏教がやたらと雑多な人格神を林立させたために、以後、仏教はすくなくとも神=仏概念において、収拾すべからざる混乱におちいってしまったとおもわれる。事実、当の親鸞自身でさえも、ほんとうに絶対神としての弥陀仏に帰依していたのであろうか? けっしてそうでないことは、『歎異抄』中の有名な次の一文にあきらかである-「親鸞におきては、『ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし』と、よきひと(法然上人)の仰をかふむりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また、地獄にをつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。つまり、彼が心底から帰依していたのは、弥陀仏であるよりもむしろ、それを説く★生ま身の法然その人の方だったのだ! 彼ほどふかい帰依の宗教感情をもった人-この点で彼に並ぶ人を私はひとりも知らない- が、人格神を立てないことは、絶対にあり得ない。ところが大乗経典の★捏造した弥陀仏では、このふかい帰依感を充たすには足りない。そこで、本来いささかも神性をもたぬ生ま身の人間たる法然の方へと、感情転移をひきおこしてしまったのではないか。だが、こうした矛盾は、たまたま彼において、その信仰の徹底性のゆえにこれほどまでにどぎつい形で露呈したというにすぎず、実は仏教の本質それ自体にはじめから伏在していた超越性原理における★或る種のあいまいさに起因していたものであって、このあいまいさは、やがてさまざまな問題をひきおこしてきたように思われる(たとえば仏教には、一方では殺仏殺祖の過激な精神があるかとみれば、他方で★師資相承の血脈(*のち一時、【男系長子相続】にまで至る!)を立宗の不可欠な条件とする風があるなど、なんとも不可解な現象である)。だが、それをあきらかにするためにも、もうすこし、この派のもたらした貴重な宗教革新の実態を追ってゆくこととしよう。

 浄土真宗の信仰が「摂取不捨」の〈信仰における万人平等主義〉(『教行信証』における、「竪出(じゅしゅつ)」・「竪超」と対立する「横超」の論がこれを支える)をもたらしたことは、既述のとおりだが、これは法然においてすでに確立していたことは、『歎異抄』中の次の感動的な一挿話にあきらかである― 「善信(親鸞)が信心も、(法然)上人の御信心も一なり」という親鸞の発言に、思い上りもはなはだしいとばかり、相弟子たち万場騒然となるなか、ひとり法然はこの発言を全的に支持して、「源空(法然)が信心も如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一なり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまひさふらはじ」、と断じたという。にもかかわらず、ここから出発して、「親鸞は弟子一人も持たずさふらふ・・・ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり」と言い放ち、弟子づくり、寺づくり、教団づくりをすべて否定して、弥陀のまえでの「同信、同行、同朋」の平等な人間関係*に徹していったのは、やはり親鸞の方であった。(法然ではまだそこまではいたらず、彼は人びとにたいして人師の立場をとりつづけていたという〔増谷前掲書〕)。ところで、親鸞によって一歩踏み出されたこうした現実世界での人間平等への志向が、やがて真宗信仰者だけの人間関係の枠を超えて社会関係全体にまで拡大膨張しはじめ、中世の封建的身分支配の総体を根柢から脅かすようになったとしても、それは当然の帰結であって、それが一向一揆として爆発したわけだ。この一揆が「百姓の持たる国」、「年貢対捍(ねんぐたいかん、納入拒否)」をスローガンに掲げ、またその内部組織も、やはり「ご同朋」思想にもとづく「講」を中心とした門徒たちの平等な寄合い、談合という、リゾーム状の横の連帯意識を基本とした**ところには、千軍万馬の戦国武士たちをさえ戦慄せしめたという農民たちの往生決定の安堵感にもとづく死を怖れぬ断固たる殉教精神とともに、いかにも浄土真宗信仰の面目躍如たるものがある(事実、既述のように、中国でも浄土門信仰はしばしば民衆叛乱の原動力となってきていたのだ)。これにたいして当時の真宗本願寺は、★本願寺教団の発展・延命を至上価値に置き、それに有利とおもえば大いに一揆を利用し、それに有害とおもえば大いにこれを抑圧するという態度をとったこと、周知のとおりだが、これはすでに始祖の信仰態度を大きく裏切り、平然と大寺院・大教団をつくったのみか始祖の自覚的な妻帯の決断に悪乗りして★男系世襲制までも制度化し、とっくに「王法為本」の元の木阿弥にもどってしまっていた本願寺としては、あまりにも当然の態度だったと言えよう。

 とりわけ一五八〇年のいわゆる「勅命講和」をもって一揆を終息させるや、本願寺はますます権門・貴族と結托してゆき、それ自身、巨大な権力装置と化してゆく。だが、本願寺なぞはいま論外としても、親鸞自身、もしもその生前にこのような一揆の勃発に遭遇していたら、どのような態度をとったであろうか? やはり一種の「本願誇り」として、これを非難したであろうか? これはあくまで仮定の問題なのだから、断定的なことはなにも言えはしない。ただ、こうした一揆は、すくなくともその最上の部分において、彼の信仰から帰結してくる自然の勢いだったにせよ、彼自身の宗のひとつの大きな限界があったこと、これもまた確実であろう。

 
 * 平等な人間関係のなかには、当然ながら男女関係のそれも入る。法然も親鸞も、むろん女性成仏をはっきりみとめていたが、しかし、両人とも「変成男子」の伝統的見解をまだ踏み超えた形跡はない〔『無量寿経釈』、『浄土和讃』、大経意十など参照〕。

 ** ただし、笠原一男『一向一揆』〔一九五五〕によると、寄合い・談合の可能だったのは、中・小名主層の農民たちにかぎられ、下人層にまでは及ばなかったという。そのため前者の成長・増加のみとめられなかった関東では、初期真宗教団の基礎がいちはやく築かれながらも真宗の飛躍的発展は見られず、それが見られたのはむしろ近畿・北陸・東海・中国地方の先・中進地帯であり、一揆もそこでこそ熾烈だったという。

 *** 一揆にたいする本願寺の態度については、笠原前掲書、山折哲雄『人間蓮如』[一九七〇]など参照。とくに後者は、親鸞とは対蹠的な蓮如〔一四一五~九九〕の信教態度の内面まで踏み込んで活き活きとこれを描き出している好著である。


 最後に、そして総括として、親鸞にきわまったこの浄土門信仰は、仏教思想のなかでも稀有なほどのその★一神教的な超越性信仰をもってして、原始宗教、国家宗教、普遍宗教を切れ目なくつなげてしまっていたわが国の例の〈長提灯式〉宗教風土の総体にたいして、ほとんどただひとつ、真に革命的な鉄槌を下した。まず最初に、葬式や祖先供養など〈イエ・家〉の宗教に対立する彼の言句を挙げるが、これがその後の浄土真宗をふくむ今日の日本仏教の常識にとってもいかに衝撃的な意義を有するかに着目されたい―「某(それがし)閉眼せば、加茂川河にいれて、魚にあたふべし」、「親鸞は、父母の孝養のためにとて、一返(遍)にても念仏まうしたること、いまださふらはず」。つづいて、ムラの宗教たる神祇崇拝、各種の民間信仰に対する嵯嘆と反逆―「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ ト占祭祀つとめとす」、「仏に帰依せば、終にまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」、「余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」。国家権力ならびにクニの宗教にたいする彼の態度については、既述したとおり。ところで、わが国の伝統的信教風土にたいするこのようなラディカルな挑戦は、一方では、いままで民衆支配の具となってきた諸神諸仏の重圧からはじめて解放される道を示したものとして、最下層の民衆からたいへんな熱狂をもって 迎えられると同時に、他方では、当然のことながら支配層からはおそるべき危険思想と看なされ、きびしい弾圧をひき出してしまった。この弾圧を前に親鸞は後退し、「念仏を信じたる身にて、天地のかみ(神)をすて申さんとおもふ事、ゆめゆめなき事也」と念仏衆に消息文を送り、また、「南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり」と、神祇を念仏者の守護霊として位置づけようともした。また、真宗が漂泊するワタリ職人たちから定着農民たちにまで拡がってくれば、ムラの宗教を単純に拒否するだけでは埓があかず、これを巧みに己れの信仰行為のなかにとり込むことも考案されたようだ―

たとえば、秋の収穫祭や春の予祝祭を、それぞれ報恩講や蓮如忌のなかに吸収する、といった具合に〔阿満前掲書参照〕。こうしたもろもろの妥協をあたまから非難することは、むろんバカげてもいよう。けれども、既述のように、この信仰では超越性原理にあいまいさを残したままだったために、旧宗教習俗をとり込みながらもそれをあらたな宗教原理でもって合理化しつつ、あらたな世俗内宗教倫理を形成することには、ついに失敗してしまったかにみえる。その結果、その始祖においてこれほどまでにラディカルな革命性を露呈した浄土真宗も、その後は大局的には旧仏教とほとんど変らぬ一宗派、ひたすら図体ばかりが大きい一宗派にすぎぬものとなってしまった。ただ日本の伝統宗教のなかでただひとつ、いまでも微弱ながら内部刷新の動きが見られること、現世利益のための呪術的祈願への拒否反応がつづいていること、例の〈差別戒名〉をつけたのは曹洞宗に多かったようだが、その屈辱から被差別部落民を救ったのはおおむね浄土真宗だったこと、靖国神社国家護持への反対を明確化していること、とりわけ東本願寺がおそまきながら(今年八七年)侵略戦令への加担にたいする自己批判を公表したことなどには、やはり偉大な始祖をもつことのできたこの宗派ならではのものが感じられるようである。

               *** 

 
 ●『意味への渇き』
の引用・紹介は、<一区切り>とします。

 


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