カウンター 読書日記  ●『大逆事件 死と生の群像』
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 ●『大逆事件 死と生の群像』

 ●『大逆事件 死と生の群像』
を続ける。

 *************

 七月に高木顕明ら五人が起訴される前に、二人の男が勾引、起訴された。一人は森近運平、もう一人は奥宮健之(一八五七年生まれ)である。

 森近は、かつて岡山県庁の職員時代に日露戦争の戦時国債を買うなと演説し、後に知事から社会主義の放棄を迫られて○四年末に辞職、堺利彦に導かれて翌年には岡山を離れて大阪や東京で社会主義運動に入っていく。だが社会主義弾圧のために活動と生活が逼塞し、秋水と菅野須賀子との一件も加わって、妻・繁子と一子・菊代と一緒に四年ぶりに懐かしい郷里の高屋に戻った。一九〇九年の春が深まる少し前の三月中ごろである。農学校を出た運平は、積極的に新しい農業に取り組んだ。実家から少し離れたところ、高屋の中心の笠岡に縁者の協力を受けて加温式ガラス温室を二棟つくり、欧州ブドウ、イチゴ、トマト、ナス、キュウリなど、当時にあってはまだ誰もやらなかった先進的な高等園芸を始め、郷里での生活は軌道に乗り出した。久しぶりに接する士に運平は、自分の帰るべきところがどこにあるのかを実感しただろう。そんな静かで平和な運平一家の生活が暗転した。六月一四日の朝、食事を摂っていた午前六時二〇分ごろである。温室近くの仮寓に、突然腕車人力車)九台が乗りつけられ、岡山地飲検事ら約一〇人が家宅捜索を始め、午後一時ごろ運平は勾引され、東京へ護送された。

 実は、運平はすでに三日前の十一日に「大逆罪」で起訴されていた。内務省警保局の調査資料には、このころの運平について「至極平穏ニシテ何等怪シムヘキ行動ナシ」と報告されているのにである。なぜ運平が勾引され、しかも「大逆罪」で起訴されたのか。「森近は「自分は親もあり、妻子もあり、乱暴なことをする考はない」。斯う云ふことを言って居る、・・・どうもそれは森近の口癖に云ふ言葉であるが、何か訳があらうから、別に端緒を得られさうもないことであるけれども、こういふことからでも何か端緒を得られるだらうと」。こんな乱暴な理由で運平を起訴したと、★小山松吉は二十年後の思想係検事の集まりで得意気に語っている。

 次いで六月二八日にはかつての自由民権運動の闘士で、土佐出身の★奥宮健之が起訴された。連座者中の最年長で、当時五四歳だった。奥宮は同郷の幸徳の頼みで目的も知らず、爆裂弾の製造を教えたとされているが、他の連座者と同じように「大逆罪」では無理があった。彼の長兄正治は、当時宮城控訴院検事長だったが、弟の一件で失脚する。

 捜査は熊野から、「巨魁」にされた松尾を手がかりに『熊本評論』関係にも伸びる。その際にも「決死の士」がキーワードになる。・・・中略・・・

 夏の終わりから捜査の網は、関西に広がる。東京からの帰途、大石の話を聞いた大阪の武田、三浦、岡本の三人が八月二八日に起訴された。翌二九日、韓国を名実ともに植民地支配する韓国併合条約が公布された。啄木が「地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつヽ秋風を聞く」と詠んだのは九月九日である。 P68


 捜査は神戸に伸びた。九月二八日、神戸・夢野の海民病院(後の湊川病院か)職員の岡林寅松と養鶏業の小松丑治(ともに一八七六年生まれ)が、「大逆罪」容疑で予審請求された。二人は高知の小学校の同級生で、日露戦争前から非戦論に共鳴し、『万朝報』や『平民新聞』を読み、神戸平民倶楽部をつくり、社会主義の研究会活動をしていた。二人の起訴には、★内山愚童が絡んでいた。すでに愚童は○九年五月に出版法違反(『帝国軍人座右之銘』『無政府主義道徳非認論』も秘密出版)や家宅捜索によってダイナマイト(これは爆裂弾とは違う)などが出てきたことから爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、一〇年四月に懲役七年の刑が確定し、横浜監獄(根岸)に服役していた。愚童は、逮捕前の○九年春、永平寺で修行(約一ヵ月)を終えた後、名古屋や大阪の社会主義者らに会い、神戸に足を伸ばし、岡林寅松、小松丑治(うしじ)らに会った。二人には初対面だったが、すでに小冊子『無政府共産』を送っていた。愚童は「革命運動では儲嗣(ちょし、皇太子)」に危害を加えるほうが効果的」などと言い、爆裂弾の製法などの話もしたとされる。二人は、愚童の意見に賛同せず、爆裂弾の薬品については、話の域を出るものではなかった。ところが二人は、愚童の意見に「賛同の意を表し」爆裂弾製造の薬品名を教えたなどとデッチ上げられて、起訴されてしまった。社会主義者やそれと思しき人びとを手当たり次第に起訴していった様子がここにもよく現れている。服役中の愚童が刑法弟七三条で起訴されたのは、一〇年一〇月一八日である。こうして「大逆事件」の捜査の幕は下りた。

 事件が拡大していく中で、文部省は全国の図書館に社会主義関係図書の閲覧禁止を訓令し、また主義の名前を口にする教職員、学生、生徒の解職、放校処分を指示(八月四日)した。九月初めには社会主義文献五種が発売禁止され、残本が差し押さえられ、その後も毎日数種類の社会主義関係書が発禁とされていった。朝日新聞校正係の啄木は、日々思想弾圧の情報に接し、「題号に「社会」の二字あるが為に累を受けたるものあり・・・一笑にも値ひしがたし」と「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」(一九一一年六月)に記している。

 潮ら三人の予審判事は一九一〇年十一月一日、二六人全員が刑法第七三条に違反するとの意見書を大審院院長・横田に提出した。これを受けて、大審院特別刑事部(裁判長・★鶴丈一郎)は検事総長・★松室致(いたす)の意見を聞き、十一月九日、大審院の公判に付すと決定した。同日『東京毎日新聞』は、先走って★「社会主義者廿六名死刑に処せらる可し」の見出しをつけた号外を発行した。二六人の大半は、国民には知らされないまま闇の中で勾引され、起訴され、検事・判事らのつくった物語の中にはめ込まれ、演じさせられた。それは個人の思想が暗殺されていく恐ろしい光景である。この日から、社会は「非戦・平和の徒」である連座者らに「許されざる逆徒」というレッテルを貼りつけていく。それは、社会全体に接着剤でくっつけたように容易に剥がれなかった。

 大審院の公判は十二月十日からと決まったが、★特別裁判を担当する七人の判事は、鶴裁判長以下全員が有罪を前提に公判に付すべしと決定した同じ判事だった。 

 
 高木顕明は公判に付された直後の十一月十一日、本山から住職を解く差免(さめん)の処分を受けた。日清戦争以後、国家に迎合した大谷派は自派の僧・顕明を切り捨てた。これは、顕明の平和と平等思想を本山が抹殺したのも同然だった。顕明にはしかし、この後にもっと過酷な仕打ちが待っていた。曹洞宗の愚童に対する処分はさらに早く、「大逆罪」で起訴される前の一九〇九年七月六日に林泉寺の住職を諭旨免職し、まだ予審判事の意見書さえ出ない前の十年六月二一日に最も重い「宗内攬斥(ひんせき)」処分にし、僧籍を剥奪してしまった。妙心寺派も十一月十四日付で峯尾節堂を攬斥に処した。
 P70

 顕明の孫の義雄が二〇〇二年に亡くなったのを知ったのは「大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース」四二号 〇三年一月)に掲載されていた泉★の「高木義雄さんのこと」と題した追悼文によってだった。義雄の死を知って、私は一枚の写真を引っ張り出した。少し大仰にいえば、それは日本の近現代の民衆の歴史を繋ぐような写真である。「大逆事件」で刑死した一二人のうちのただ一人の女性、菅野須賀子の遺体が埋葬された東京・代々木の正春寺では、毎年、処刑された一月二四日(菅野だけ二五日)前後の土曜日に追悼の集いが開かれ、全国から関係者らが参集する。手元にある写真は、九八年一月二四日の集いの後に正春寺本堂前で撮影された。写真中央には、黒のコートに身を包んだ義雄がいる。その隣りに毛糸の帽子を被り分厚いキャメルのコート姿の大柄な感じの男が写っている。二人は背中を互いの腕で支えあっているようでもある。厳しい表情の中にもうっすらと笑みを泛(うか)べている義雄に比べ、大柄の男はこの一瞬を悦んでいるような表情だ。「横浜事件」の被害者の一人で新宮出身の木村亨である。アジア・大平洋戦争の最中、天皇制国家体制の変革を企て、共産党再建を図ったと、神奈川県特高警察にデッチ上げられ、官僚、企業人、編集者ら約六〇人が治安維持法違反で囚われ、半数が有罪にされた。その大半が敗戦後の裁判であった。この事件では、特高の激しい拷問によって五人が獄死し、木村も拷問によってありもしない共産党再建に加わったと認めさせられ、敗戦後の横浜地裁で有罪にされたが、戦後一貫して特高の暴力を告発し続け、無実を主張して再審請求を続けていた。「横浜事件」の連座者に暴力をふるった特高警察は、「大逆事件」をきっかけにして全国に設けられていったのである。

 「大逆事件」の被害者の孫と「横浜事件」の直接の被害者が並んだ写真は、たぶんこれ一枚だろう。写真を撮る前、木村は「大逆事件」の追悼集会の席で、「みなさんは怒りが足りない」と大きな声で叫ぶように言っていたのが、私の耳に今も残っている。木村には、事件の「先輩格」の国家犯罪である「大逆事件」が法的に無罪になっていないことへの強い苛立ちがあった。「横浜事件」の再審請求の重い扉が開いたのは、有罪判決から半世紀後の二〇〇五年だった。しかし木村は、この吉報を聞けなかった。正春寺本堂前の記念写真から七ヵ月後の九八年八月に亡くなっていたから。その四年後に、義雄も不帰の客になってしまった。 72p

 ****************

 ・・・略・・・ 203p~

 時代をほんの少し遡上する。 

 近代日本の最大の悪法、治安維持法が公布されたのは一九二五年四月二二日である。その直後の五月五日には、女性を排除した男性のための普通選挙制度(普選)を採用した改正衆議院議員選挙法が公布された。弾圧法と一歩進んだ民主主義制度の普選の抱き合わせは、「大正」というねじれた時代を表象していた。関東大震災後の朝鮮人虐殺、労働者虐殺、さらにアナキスト大杉栄・伊藤野枝虐殺と続き、第三の「大逆事件」となる「朴烈(パク・ヨル)・金子文子事件」(一九二三~二六年)がデッチ上げられている。それらに反発したアナキストらの活動は激しくなり、秘密結社「ギロチン社」のように先鋭化したが、「虎ノ門事件」によって大弾圧を受け、活動の拠点を東京から関西、とくに大阪へと移したものの、追い詰められていた。いっぽうロシア革命の成功の影響を受けて共産主義思想が伸張し、労働争議も激しくなっていた。また無謀なシベリア出兵の失敗があり、帝国日本はあちこちで揺さぶられ、綻びが目立ちはじめていた。平沼騏一郎の「国本社」や大川周明、安岡正篤の「行地社」などの国家主義団体が登場してくるのは、そうした状況への危機感からであった。社会主義・共産主義を危険視し、天皇を戴く国家こそが最重要であると信じて疑わなかった佐藤は、普選による日本の共産主義化(赤化)を恐れた。天皇制国家の存亡への危機意識であった。ではどうするか―佐藤は、旧知の内務官僚で大阪府知事であった中川望と密かに協議を重ね、危機を救うために左右の有能な活動家を「思想緩和」し、国家再建のために糾合していこうと目論んだ。

 二五年四月十四日、六月二七日、十月三日の三回、金光教の大阪難波教会、王水教会、真砂教会で、国家社会主義団体、左右の労働運動組織、全国水平社、日本農民組合、左右の在日朝鮮人団体などの主だった活動家を集めた懇談会が聞かれた。主催者は佐藤である。第一回の出席者は十人と少なかったが、普選を前にそれぞれの思惑もあったのか、敵対関係にある活動家が呉越同舟のように一堂に会した。名簿には、大西黒洋や木本凡人の名も見える。この二人は三回の会合にすべて出席している。王水教会で開かれた第二回の出席者は十七人と増え、この中に無政府主義者の武田伝次郎の名が初めて記録されている。懇談会の名が「社交桜心会」と決まったのは第二回の会合である。伝次郎が大西や木本と懇意になったのも、このときの懇談会である。真砂教会で行なわれた第三回「社交桜新会」の参加者は、二四人とさらにふくれた。伝次郎も参加した第三回会合は、午前中から深夜まで続き、かなり盛り上がったようだ。最後に全員が寄せ書きをし、アナキストの伝次郎は「十五年前の森近を想う」と記している。伝次郎は、東京での社会主義運動が弾圧され、生活も苦しくなり、やむなく帰郷した運牛の胸塞がれたような思いと、自らの追い詰められた状況を重ね合わせたのだろう。

 佐藤が普選による無産政党の登場を射程に入れ、活動家たちの「思想緩和」を目的に始めた「社交桜新会」はしかし、三回で終わる。鈴々たる活動家の集まったこの会合を特高警察は毎回、会場を取り巻くように監視していたが、それを抑えていた府知事・中川が転任したために継続できなくなったのである。「社交桜新会」については、歴史の中でほんの  一瞬しか登場しなかったためか、まとまった研究は金光教教学研究所員だった渡辺順一と佐藤武志を除いたほかにはないようだ。

 武田伝次郎が兄・九平の仮出獄を佐藤に頼むには、二年間の空白があった。「たぶん、伝次郎らが昭和大礼の恩赦を睨んで、内務省など中央にも影響力のある佐藤を頼った、つまり利用したのだと思います」。佐藤武志はそう見ているが、佐藤範雄も伝次郎らの意図を承知し、宗教家として九平の救出活動を「感化救済」の一つと考え、喜んで動いたにちがいない。佐藤の仮出獄協力活動は、教団としての運動ではなく、彼の個人的な活動とされるが、教団の施設を使用しており、当時の金光教とずれていたわけではなかったろう。

 渡辺順一によれば、佐藤は、早くも一九〇二年に内務省主催の感化救済講演会で、「感化救済」は仏教、神道、キリスト教など宗教家の本来的職務であるとして、「人の為に人を救う」と語っていたという。佐藤はそれを実践した。伝次郎は兄の「解放」の後に、獄に残されていた小松丑治の健康状態の悪化を心配し、神戸で夫の帰りをひとり待っていた妻・はるからの依頼で、佐藤に救出願いの書簡を出している。それだけ佐藤は信頼されていたのだ。そして佐藤はそれに応え、実際に具体的な救出活動をし、死後まで九平や遺族に心ばせをしていたのは紛れもない事実である。いっぽうで、天皇主義国家観や有為な青年たちを国家のために思想改造しようとする宗教家・佐藤の思想と善意の言動には、いつの時代にも潜む宗教(家)と国家の危うい関係も見える。205p

 時代は二〇世紀の終わりから二十一世紀へと下る。 P205
 「主人が亡くなったのは平成十四(2001)年九月ですから、早いもんで七回忌になります。でも、亡くなる前に復権とゆうんですか、名誉回復されて、ほんまによかったと思っています。顕彰碑まで建つとは、夢にも思っていませんでしたから。そら、主人、ものすごぅ喜んでました」

 大阪・守口市の高木顕明の孫に当たる亡き義雄の妻・芳子を訪ねたのは、湿気をたっぷり含んだ生暖かい梅雨の風が膚にからみつくような二〇〇八年七月半ばだった。

 「あれは十年以上前、そうそう、長女が結婚した年でしたから九六年、平成八年でした。四月の終わりごろやったかしら。誰からもろうたか知りませんが、主人が『朝日新聞』のコピーを見せてくれたんです。大谷派が高木顕明を八五年ぶりに復権という記事でした。へえと思いました。それからどれぐらいしてからか憶えがないんですが、うちの主人、高木顕明の孫なんです、と大谷派の本山に電話したんです。ええ、私がしたんです。主人は、私が電話する前には、芳子、今さら大谷派には電話せんでもええて、ゆうたんです。顕明さんの復権を大谷派がしたことが新聞に載っただけで、今までの願いが果たされたと思ったんでしょうが、私は、やっぱり伝えたかったんですね。そしたら大谷派の人がえらいびっくりしはって、すぐに、二人の人が家へ飛んでこられました」

 これがきっかけで、大谷派が浜松市営三方原霊園に顕明の娘・加代子の建てた「高木家代々之墓」の 竿石(さおいし)の部分を、新宮の南谷墓地の急斜面の一角に移して新たに墓をつくり、傍らに顕明の「顕彰碑」を建て、彼の事績についての説明板も設置した。九七年九月二五日に、その除幕式が現地であった。大谷派から宗務総長らが出席し、遺族の義雄・芳子夫妻、娘やその家族らも参加した。叩きつけるようなひどい雨が降り止まぬ日で、高木の頬にとめどもなくいく筋もの涙が流れ、雨とともに南谷墓地の土に染みていった。

 私(*田中)が「大逆事件」の旅を始める出会いとなった顕明の処分撤回への道筋を追っておきたい。宗教者・佐藤の国家観から出た「救済」との対比になるだろう。

 
 「大逆事件」に巻き込まれた顕明に対する大谷派本山の処分は二段階に分かれている。最初は顕明らが「大逆罪」の公判に付されると決定した翌日の一九一〇年十一月十一日付で、住職を解く差免(さめん)処分。この処分はすでに触れたが、次いで死刑判決の出た十一年一月一八日付で宗門からの永久追放という最も重い擯斥(ひんせき)処分が出されたのである。ただ本山は、差免後に始まった大審院の公判中の十二月二〇日から一週間、奈良・南林寺の住職・藤林深諦を新宮に派遣し、顕明の僧侶としての活動や人格などについて調査させている。その「複命書」の下書きが九六年七月に大谷派僧侶の泉恵機によって明らかにされた。「何れの方面から聞いても本人性は、廉直にして慈善心あり、又人との約束を違えず、人を詐らず、酒も飲まず」「平素仏祖尊敬かなり」「平素檀家中へ教も怠らず」「性質実直にして居動静か」― ほぼこんな趣旨が記されてある藤林の報告の下書きからは、真宗僧侶・顕明の真面目ぶりと実直な性格が滲み出てくるようだ。

 ところが本山の二つの処分に際して出された「論述」や「諭告」は、顕明を「僧侶の本分を顧みず」「国家未曾有の大陰謀に加わり」「非違なる」僧侶と断罪し、宗門の他の僧侶に布教する上では、天皇と国家に従順になれなどと諭していた。死刑判決から二日後の二十日には大谷派法主が「逆徒」を大谷派から出し、「皇室に対し奉り恐懼に耐えない」と、内務大臣に執奏方を願い出ている。本山は、顕明の実像を無視し、天皇制国家に随順してしまった。徳冨蘆花が「謀叛論」で激しく論難した一節が想起されよう。

 
 「出家僧侶、宗教家などには、一人位は逆徒の命乞いする者があっても宜いではないか。しかるに管下の末寺から逆徒が出たといっては、大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐れ入り奉るとは上書しても・・・」。

 過酷な境遇に追い込まれた人に手を差し延べ、その運命や状況に共感・共苦するところに宗教の存在の大きな意味がある。たとい国家の意に沿わずとも宗門独自の判断をすべき覚悟が宗教教団(者)には必要だった。まして顕明は、真宗の教えに従って、非戦を貫き、平等を求め差別を無くすための活動をした見事な僧侶だった。真宗は「弾圧教団」の歴史を持ち、弾圧の中で生きてきた。そこに存在意義があった。「国王不礼」という教義さえ持っている。冤罪の罪を背負わされた顕明は教団からも罪を背負わされてしまったのである。

 明治初期の神道国教化政策のもとで吹き荒れた廃仏毀釈の嵐の中で、生き残るために、大谷派だけでなく仏教教団は国家に随順する道を選んだ。日清・日露戦争に賛成し、植民地支配に抗わず、四五年の敗戦に至るまで国家への荷担の歴史を積み重ねた。顕明と同じように擯斥処分された曹洞宗の内山愚童、臨済宗妙心寺派の峯尾節堂もその被害者だった。

 顕明への処分は、戦後になっても振り返られなかった。敗戦から十六年後の一九六一年に「大逆事件」の唯一の生存者だった坂本清馬と森近運平の妹、栄子が再審請求を起こしたのがきっかけで、ようやくマスメディアの事件観にも変化の兆しが見え始めたが、大谷派は自派の犯した過ちに目を向けず、再審請求にピクリとも反応しなかった。個々の宗教者の動きもなく、まるで明治の教団のままであった。六〇年代半ば以降、靖国神社を敗戦前と同様に国家で護持する法案が大きな問題になり、真宗各派もこぞって法制化に激しく抵抗する行動を起こした。靖国問題は過去の戦争への協力・荷担の問題を抜きにしては語れない。当然、それは日清・日露戦争への荷担にまで射程は伸びる。その過程で「大逆事件」での顕明への処分問題が浮かび上がってくるはずだが、そうはならなかった。七一年に宇治市役所職員の★高木道明が「大逆事件と部落問題―高木顕明の人と思想」を書き、初めて顕明の思想と人となりに光が当てられた。そのころから、大谷派は被差別部落問題で糾弾されてもいた。顕明に目を向ける状況は生まれていたはずである。それでも動かなかった。また泉が顕明の事績や宗門の過ちを指摘するようになっても、最初は見向きもされず、顕明の名前さえほとんど知られていなかったという。本山が動き始めたのは、教科書の記述内容や中曾根康弘首相(当時)の靖国神社「公式参拝」が、アジアの人びとから問われるようになり、ようやく自派の戦争責任問題にも目を向けるようになった八〇年代の後半からで、八七年四月に聞かれた全戦没者追弔法会で当時の宗務総長が初めて戦争荷担を反省する責任告白をした。敗戦五〇年に当たる九五年六月十三日と十五日には、宗議会と参議会で初めて「不戦決議」をし、その中で「宗門が犯した罪責を検証し」「惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意」し、かつて「非国民とされ、宗門からさえ見捨てられた人々に対し、心からなる許しを乞う」と初めて踏み込んだ。また宗務総長は顕明の擯斥処分に「深く慚愧」し、名誉回復を図ることを明らかにした。顕明への処分取消しは、国家への癒着と戦争協力の大谷派の近代史の見直しの潮流と関係していたが、そこには★泉の長年にわたる研究と粘り強い働きかけがあった事実も忘れられない。顕明への処分撤回は、住職差免から八六年、敗戦から五一年、再審請求から三五年も経ってからだった。

 新宮・南谷墓地の顕明の「顕彰碑」の傍らの説明板の一節には「時の宗門当局が国家に追随して行った師への遺憾なる行為とそれを今日まで放置してきた宗門の罪責を深く慚愧し心から謝罪」とある。これを読みながら、写真でしか知らぬやや頭の尖った顕明の自死を思った。
房内には氷柱さえぶら下がるような北の果ての凍りつく秋田監獄で、彼が自裁に追い込まれたのは警察の記録にあるように、仮出獄がかなわないことへの絶望というより、「非戦の宗教」「平等の宗教」と信じてきた教団から切り捨てられ、悲しみの底が抜け、絶望してしまったからではなかったろうか。それは、本山への強烈な抗議も含んでいたのではないか。泉が、「顕彰碑」の建立時に静かな口調で語った言葉は、私の中に澱となって今もある。「顕明は大谷派に殺されたようなものです」。であれば、顕明か立派だったと「顕彰」すればそれで終わるわけではないだろう。他教団にも通じるが、国家に随順した過ちのプロセスを検証し、それを内部で共有化し、再び繰り返さないための営みをどうやり切るかである。顕明の「復権」の意味はそこにある。

 武田九平には独立した墓がない。森長の『風霜五十余年』で、妹のさとの結婚した津田の墓に埋葬されていると教えられ、○八年夏に大阪府寝屋川市の本門佛立宗清風寺の広い霊園を訪ねた。ようやく津田家先祖代々之墓を見つけたが、墓石には武田九平の名はどこにもなかった。霊標に「本津院妙里日享大姉昭和三十一(1956)年九月廿五日寂 津田さと」とあるだけだった。そこに一緒に埋骨されているのだという。妹・さとが一九五六年まで存命だったことを初めて知った。しとどに流れる汗に一瞬だが、風が舞ったようだった。 P210

  続く。

  
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