カウンター 読書日記 ●『大逆事件 死と生の群像』
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●『大逆事件 死と生の群像』
 ●『大逆事件 死と生の群像』
 
 大逆事件には、3人の仏教者が関与していたこと↓を再確認して、次に進む。

 ① 内山愚童-曹洞宗の僧で、死刑判決を受けて処刑された。

 ② 高木顕明-浄土真宗大谷派の僧で、死刑から無期懲役に減刑され秋田に収監されたが、刑務所内で自殺した。

 ③ 峯尾節堂-臨済宗妙心寺派の僧で、無期懲役-服役中に病死した。

 強いて言えば、内山愚童こそ天皇不要論を記した謄写版のパンフで宮下太吉(爆裂弾)に影響を与えた、と言えるものの、具体的計画にはまったく関与してなく、高木、峯尾の両名は無関係であった

 **************

 竹内芳郎・『意味への渇き』の著述意図-問題意識は次のようだ。

 以下、★終章 宗教とマルクス主義―「解放の神学」を中心に から引用。 

 
 ・・・・・

 そもそも、私が宗教に関して公的発言をはじめたきっかけは、いま(*1986~7年)からもう十年近くもまえのこと、人間の全体的な在り方を問う「新しい宗教改革」とも評された六十年代末の「大学闘争」の余燼がまだかすかながらもくすぶっていたころ、今からするとまるで嘘のようだが、〈文明転換〉の旗幟のもと、「創価学会」の青年層が旧左翼の革命路線とは異なるあらたな変革の道をもとめてマルクス主義者と宗教者との創造的対話を企て、それへの思想形成上の協力を私に要請してきたときだった。そのとき私がうち出した基本姿勢は、およそ次のようなものであった―相互の自己肯定のうえに立った提携では〈馴れ合い〉以上にはならない。それぞれのきびしい自己検証、自己批判を介したうえでの協力だけが有意義だ。宗教者はいままでマルクス主義者をまるで悪魔のように見てきた。一方、マルクス主義者は宗教を一片の阿片だときめつけてきた。いま必要なことは、それとはまったく逆に、宗教者自身が宗教とは実は悪魔の所業ではなかったのかと自省すること、マルクス主義者自身がマルクス主義もまたもう一つの阿片ではなかったのかと自省すること。そういう仮借なき自己批判を介した相互提携だけが、人類のあらたな血路を拓くに足るであろう、と。そしてこの基本姿勢の底にある思想は、①〈狂気を賦与された動物〉homo demensとしての人間存在にとって、宗教幻想は簡単に払拭できる二次的な幻想ではなく、実に根源的かつ本質的な現象である、②宗教的と世俗的とを問わずあらゆるイデオロギーの考察は、それが社会関係のなかで果す現実的機能、つまりその〈社会的身体性〉とも言うべきものまで考慮に入れなければかならずやそれ自体、欺瞞的イデオロギーにまで転化してしまうであろう―という二点についての痛切な認識であった。前者は旧マルクス主義者の唯物論的地平を突破するためのものであり、後者は旧宗教学者の観念論的地平を突破するためのものである。

 当時と今日とでは、わが国および世界の宗教事情はすっかり変ってしまった。当の創価学会も、いまではかつての大いなる抱負なぞどこへやら、ごくありふれた中間政党としての「公明党」の選挙母胎だけに甘んじている。なるほど、平和運動にたいしては池田会長を先頭として依然たいへん熱心にみえるが、それでもその平和運動なるものは、公明党の基本政策を見ればすぐわかるとおり、アメリカ合衆国という、戦後一貫して軍事行動に終始し、しかも事あるたびに原水爆投下を企図してきたことのはっきりしている「超大国」の一方との軍事同盟=「日米安保条約」をあらかじめ容認したうえでのきわめて欺瞞的なものにすぎず、これではとうていこの宗教集団になにかを期待することは無理だと断ぜざるを得ない。一方、こうした巨大な組織教団にとって替って登場してきた新・新宗教なるものも、既述したとおり、この核に古めかしい原始宗教的な怨霊信仰を抱きこんだごく小さな趣味宗教の簇生流行現象の域を出ず、それにたいしてマスコミ論壇などが空疎な「ポスト・モダン」のお喋りでもって唱和しているにすぎない。一方、既成の仏教大教団の方も、高野山や叡山の最近の国際行事を見ればわかるように、己れの過去の行跡には一切頬かぶりしたまま、ポスト・モダンの流行にあやかろうとしきりに人目を惹く派手なパフォーマンスに狂奔するだけのことだ。というわけで、日本国内の宗教事情は、ごく少数の良心的宗教者が個人としておこなう貴重な諸営為を別にすれば、総じてひたすら退廃の色をふかめつつあると言わざるを得まい。だが、ひとたび目を海外に向ければ、事態は一変する。私たちにはまだ十分には事情のよくつかめぬイランおよびアラブ地域のイスラム原理主義者たちの過激な闘争は、いまは保留しておいてもいい。それ以外でも、欧米ではさまざまな宗教団体がエコロジーと反核・反戦を軸にして、人間の在り方についての根源的な問いかけを掲げつつ活動しているし、第三世界では「解放の神学」を中心に、アメリカに支援された軍事独裁政権の搾取と圧政を向うにまわして神父たちが死を賭してまでも戦っている。世界的視野で見る限り、すくなくとも近代史上で、これほど多くの宗教者が、これほど燃える情熱をもって、人類解放のために起ちあがったのは、実に前代未聞のことではなかろうか? しかもアメリカから帰国してきた武藤一羊の言によれば、むしろこの方がマルクス主義に依拠した純世俗的な革命運動よりもはるかに熱気にあふれているとのことだ。おそらく、現代世界を支配している物質主義的な価値観にたいして、これら宗教者たちの方がはっきり異なる倫理的価値観を原理的なかたちで呈示できるからではないかとおもわれる。

 というわけで、宗教事情はかつてといまとでは大いに変ったにせよ、〈解放〉をめぐるマルクス主義と宗教との双方に相渉る思想的課題は、いまもなにひとつ変ってはいない。したがってまた、この課題に思想的に応えてゆく私自身の思想者としての姿勢も、なにひとつ変える必要をみとめない。そこで、今日のあらたな状況を踏まえながらも如上に記した十年まえとおなじ基本姿勢をもって、もういちど問題をここで追求してゆくこととしよう。ただし、今日最も熾烈に戦っている〈解放の神学〉にぞくする宗教者たちは、むろんキリスト教系の人たちであるから、ここで宗教と言う場合、かつてとは異なり主としてキリスト教を問題とし、それとマルクス主義との契合の問題が本章のテーマとなるであろう。しかも、私自身は、いままで概ねマルクス主義の立場に身を置いてきた者であるので、ここでもマルクス主義の側から、それも如上の基本姿勢のゆえにマルクス主義の自己批判の立場から、問題に迫ってゆくこととしよう。・・・以下略・・・

   続く。 

 
 <参考>

 高木顕明については、★遠松山・浄泉寺のHP ➔ここ が大変参考になります。
 

  
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