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●『大逆事件 死と生の群像』
            日本の百年 005


 ●『大逆事件 死と生の群像』  田中伸尚 岩波書店 2010年5月28日 


 ***************


 未曽有の冤罪事件のきっかけは、明科(現・安曇市)での宮下太吉の何とも不可思議かつ不用意な爆弾実験であったが、確たる証拠もなく未だに実況検分さえもなされないこの職工の「実験」から国家権力は一大事件として「絵・構図」を描き、強引に「大逆事件」としてデッチあげていった。

 「デッチあげ」の首謀者・山縣有朋は、後の明治天皇の死亡時、「悲しみに包まれた」宮中でこう呟いたという。
 『伊藤ハ、ヨイ時ニ死ンダナア・・』
 
 これから、紹介していく「死の群像」と遺族や縁戚者そして住民たちが「なめさせられた」苦悩を前に、山縣は同じ言葉を吐けるのだろうか?


 以下、田中著・『大逆事件』の紹介です。

 蛇足ながら、大石誠之助は熊楠、漱石と同時代人で、一級の知の先覚者・国際人である。

 *************


 2 縊られる思想 (P47~)


 前略・・・
 代々医師や学者が出ている家庭に育った大石は、一八九〇年二三歳のときに渡米し、オレゴン州立医科大学二年に編入、在学中に医師免許を取得し、学びながら同州のポートランドで開業した。卒業後はカナダヘ行き、モントリオールで外科学を学び、コロンビア州でも開業し、けっこう流行っていたという。しかし郷里からの帰国の催促が激しく、九五年一一月に新宮に戻り、翌年一月には内務省から医師免状を受けて仲之町に「ドクトルおほいし」の看板を掲げて開業した。新宮の人びとは、耳慣れない「ドクトル」を梅毒や胎毒を取る「毒取る」医者と思い込んで「どくとるさん」と親しんだ。

 大石は根っからの自由人で、情歌(都々逸)に凝り、後に斯界では最高の雅号とされた祿亭永升を師匠の鶯亭金升から与えられ、許しを得て宗匠にまでなっている。知識欲旺盛な大石は、開業して二年そこそこで今度は、伝染病研究のためにイギリスの植民地だったインドのボンベイ大学に留学する。九九年の初めである。インドでは脚気の研究までしているが、凄まじいカースト制度による激しい貧富の差を知り、イギリスから入ってきた社会主義に出会い、それが彼の一生に大きな影響を与えた。持ち前の反骨精神に加えて、新思想の社会主義が大石の中に注入されたのである。一九〇一年に帰国した大石は、今度は場所を船町に移して再び開業、間もなく社会主義者を名乗る。三三歳のころで、秋水らが社会主義協会で活動を始めたのが一九〇〇年一月だから、紀州・熊野の大石は日本でも早い時期に社会主義者になったといえる。○三年に『平民新聞(週刊)』が誕生すると、すぐに支後者になり、投稿も始める。いっぽうで大石は、自宅の向かいで洋食レストラン「太平洋食堂」を開店する。これは一七歳下の甥の西村伊作(一八八四年生まれ)と相談して始めたようで「ザ・パシフィック・リフレッシュメント・ルーム」と名づけられた。ちょうど日露戦争の開戦のころだ。「私たちは戦争反対の考えを持っていた。平和主義者(パシフィスト)であった。それでその洋食屋を太平洋(パシフィック)食堂とした。それにこの新宮の町が太平洋に面しているからでもあった」と西村は洒落たネーミングの訳を解説している。「太平洋食堂」の前で大石らを撮った写真が新宮市立図書館に所蔵されてあるが、レストランはうまくいったとは言えないようだ。

 大石はまた、若い人たちが社会主義関係の新聞・出版物に触れられるようにと、『熊野実業新聞』記者で俳人の徳美松太郎(号:夜月)の仲之町の自宅に新聞雑誌縦覧所を設け、若き佐藤春夫らも出入りしたという。こんなふうに大石は新しいことを、いいと思えば、あるいは面白いと感じれば、既成観念や閾を軽々と超え、貪欲に採り入れ、試みた。実に異能異才、多彩な自由人だった。一〇年ほど前に、新宮市立図書館の一隅で彼が海外旅行で使っていた鋼製のライト・ブラウンの横長の大きなトランク縦四五センチ横七五センチ)を見たが、その中には医学だけでなく、社会主義などの新思想がいっぱい詰まっていたのだろう。

 残っている彼の写真の多くは、短髪で、白皙に似合う見事な髪、ステッキを持ち、時に異国の帽子を被り、風変わりな衣装を纏い、いつも微笑を湛え・・・という感じである。実際、当時にしては長身、すらっとした大石は新宮の町を、そんなスタイルで闊歩していた。しかし日露戦争に対して堂々と非戦論を主張し、県の公娼設置に(高木)顕明らと一緒に反対し、権威・権力に抗う生き方は一級であった。大石とつき合った人びとは、宗教の面、非戦を含む社会主義の面、差別問題などの側面、また文人の面などさまざまなレベルに広がっていた。

 当局は、強引に捕縛・起訴した地方の大物・大石を軸にして、事件をエスカレートさせる新たな物語を創っていく。何しろ「大逆罪」につながるかもしれない物証は、宮下(太吉)の関係で押収したブリキ缶と薬品しかなかった。そこで大石を「大逆罪」に結びつけるために、予審による供述から「物語」を創る手がかりを得ようとした。「大逆事件」の裁判では、非公開・証人不採用だっただけでなく、刑事訴訟法で保存を義務づけられていた法廷での被告人供述などの裁判記録「公判始末書」が不可解だが行方知れずで、検事聴取書はいうまでもなく、本来中立であるはずの予審でさえ「大逆事件」での尋問は、有罪に持ち込む意図を持って行なわれており、したがって予審調書にはよほどの注意がいる。しかも調書は、尋問の後に判事が恣意的に取捨選択して問答スタイルにまとめた記録である。ここでは当局が、信州を舞台にした事件を端緒にして「大逆事件」をどのように拡大していったかを知るために、一〇年六月八日に東京地方裁判所で行なわれた予審判事・潮恒太郎による大石への第一回の尋問の冒頭のところだけを見よう(要旨)。

  問 幸徳も無政府主義を主張しているか。
  答 さようです。
  問 幸徳は、どんな方法でその主義を実行しようというのか。
  答 四十一年十一月中私が上京したとき、巣鴨の平民社に二回幸徳を訪ねました。最初行ったときいろいろ主義のことについて話しましたが、そのとき幸徳は日本でもロシアやフランスのように暴力の革命が必要であると申しました。その後二、三日たってまた幸徳を訪ねましたとき、同人はフランスのコムミュンの話しをしまして十人ばかりあれば、これに爆裂弾その他の武器を与え、裁判所や監獄、市役所やその他の官庁、さらに富豪の米庫を破壊し、暴力によって社会の勢力を占領すれば、革命の目的にとって非常に利益であると申しました。

 大石が所用で上京したのは一九〇八年一一月一〇日で、二六日まで滞在し、その間に巣鴨の平民社で秋水を診察し、腸結核と診断している。各地の社会主義新聞は発行禁止処分を受け、しかも「赤旗事件」から間なしで、桂政権による思想弾圧が一段と厳しくなっていたころである。秋水と大石の間で閉塞状況を何とか打破したい、打破しなければという話が出たとしても不思議ではない。むしろ当たり前だったろう。自由・平等・博愛を大事にした人びとなのだから。だがそれらは、雑談や放談の域を出ず、何かを企てたり、具体的な行動計画を練ったなどというものではなかった。

 だが当局にはおあつらえ向きというべきか、大石らにとっては運悪く、たまたま「赤旗事件」で最も激しく当局を批判し、廃刊に追い込まれた『熊本評論』の中心人物の松尾卯一太(一八七九年生まれ)が、別の用件で同じころに上京し、秋水を訪問していた。これは警視庁の尾行記録でつかまれていた。松尾の訪問と大石の予審における供述を結びつけて、当局はこんな物語を書く。「熊本の松尾卯一太と言ふ主義者が大石誠之助と同時に巣鴨の平民社に来て居ることが判った。熊本の巨魁と和歌山の巨魁が、二人同時に幸徳を訪ねたと云ふことは、何か不穏の話をした」にちがいない。それは、革命のために「決死の士」を集めるための謀議だった、と。検事・小山松吉はデッチ上げの筋書きを後にこう明かしている。さらにこのとき、折悪しくというしかないが、やはり休刊した大阪の『日本平民新聞』の森近運平が九月下旬に上京し、一一月二六日まで巣鴨の秋水のところ(平民社)に同居していた。また高知出身の坂本清馬もこのころ秋水の書生として平民社にいた。こうして秋水、大石、松尾、運平、清馬が、一緒にではなく、ばらばらに居合わせた○八年十一月の巣鴨平民社は、大きな悲劇を生む架空の「十一月謀議」の格好の舞台にされてしまった。

 大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、実は司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石は東京からの帰りに京都に寄って、新宮から転居していた歯科医の山路二郎や、新聞雑誌縦覧所をともに開設した俳人で京都出身の新聞記者(当時は『日出新聞』記者)の徳美松太郎らと懇談し、東京での厳しい事情などを披露した。大石が大阪へ入ったのは十一月末で、常宿にしていた和歌山県人経営の西区の「村上旅館」に投宿し、十二月一日夜に大阪平民社のメンバーで金属彫刻業・武田九平(一八七五年生まれ)、会社員・岡本頴一郎(一八八〇年生まれ)、ブリキ細工職人・三浦安太郎(一八八八年生まれ)ら数人と茶話会を持った。それらも大石らへの取り調べから当局の知るところとなり、「大逆」の計画が進められた場に相違ないと、「十一月謀議」はさらに広げられていく。帰郷した大石は、翌○九年一月下旬の旧正月のころに新年会を催し、そこに成石平四郎、高木顕明、三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺で留守居僧をしていた臨済宗妙心寺派の峯尾節堂(一八八五年生まれ)、崎久保誓一の四人が参加した。しかしこの新年会さえも当局は「十一月謀議」の教宣の場として捉えたのである。

    続く。

 

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