カウンター 読書日記 ●『言い残しておくこと』 (2)  鶴見俊輔
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●『言い残しておくこと』 (2)  鶴見俊輔
 
 ●エリ-トと官僚(似非エリート)、それを産み出す日本の転機としての明治末年。

 この二つをめぐる鶴見俊輔の「語り」を続けます。 

 
 *************

 以下、引用。 

 
 ★メモラビリア② ― 留学のとき

 留学のとき 

 
 三度退校処分になっているわけだから、アメリカヘ行って、また退校というわけにはいかないと思って、勉強しようと思ったんですよ。ですから、勉強は十五からですね。十五から十九の終わりまで、たいへん勉強したことはたしかです。頭のなかで、日本語から英語に代わったわけですから。(★57二〇〇四年)

 初めは英語がわからないから、プレップスクールヘ行ったんです。ものすごくたくさん試験があるんだけど、必ず白紙を出してたんです。日本でも、私は白紙を出してたんです。それは、教師に対する反抗の意味なんです。教師を怒らせるために白紙を出してたんだけど、アメリカヘ行って白紙を出したのは、できないからなんです(笑)。白紙の意味がぜんぜん違ったわけです。でも、白紙を出しつづけているあいだも、頭に英語が入ってたんですね。百人ぐらいの学生で、寄宿舎には二十五人で、英語以外には何もやっていないし、英語が喋れないのは私一人ですから。
 三か月ぐらい経ったときに、高熱を発してインフルエンザになって、一週回ぐらい病棟にいて、出てきて教室に座ったら、英語が全部わかるんです。〔略〕ところが、逆に日本語が出ないんです。十五歳だと、そういうことが起こるんですね。つまり、入れ替わったんです。(★58二〇〇四年)

 とにかく私が受けたカレッジ・ボードで、いちばん苦しかったのは英語でした。六個の問題が出て、三時間にエッセイを六つ書くんです。たとえばヨーロッパ近代史で六問のうちの一つに「ポーランド分割」というのがあって、三十分でエッセイを書く。これは難しいですよ。
 ロシアはポーランドと関係があって、これは大変なものでしょう? それからナポレオンが出てくるからまた違うんです。そして、進行中なのがドイツのナチスですからね。これを全部組み入れて、三十分で一つのエッセイを組み立てるのはたいへんな力技です。そういうものを六つ書くんですが、私は、そのポーランド分割を落として失敗したんです。もう、それから六十六年経ってますけれども、”Partition of Poland”それだけは覚えてます(笑)。それ以外はなんとかやったんですが。(★59二〇〇四年)

 一五歳から一九歳までアメリカにいました。一五歳というのは三ヵ月経ちますと日本語しゃべることを忘れます。日本語が無くなっちゃうんです。〔略〕戦争中で「鬼畜米英」でしょう。鬼畜というと、内面からいえば私が鬼畜なんですから、いつでも身にこたえるわけです。私の内面は英語の世界で、日本語で考えなくなっているんですよね。日本語の本を読んでいる時も、ノートをとるのに必要なところは英語でとるわけです。たとえば脳髄と書いてあるでしょう。一五(歳)までは知っていたんです。ところが四年書いていないから、髄という字は難しいですからね。英語でメモするとブレインと書けば済むでしょう、一秒ですよね。だから、鬼畜というと、自分のことで、・・・気が狂いそうでした、戦争中は。戦争が終わるとき、二三歳でしたから、このことは大きいです。何となく異物として日本にいた。(★60 一九九〇年)

 一九三七年にわたしはアメリカに行ったんですが、あるとき大学の前の学生食堂みたいなところで、なんかコロッケみたいなものを食ってたんです。目の前にアザラシみたいな顔をした老人がいて、やはり彼も同じようなものを食ってた。そのうち、「ミスター・ロスコウ・パウンド、お電話です」と知らせがあって、その老人が立っていったんだ。ロスコウ・パウンドっていったら、プラグマティズムの法学の世界では知られている人なんです。そういう人が学生食堂で、学生と同じものを食ってる。日本では、当時東大の教授だったら、軽井沢に別荘を持ってるくらいとうぜんだし、位階勲等でやってるから、学校前の食堂でコロッケ食うなんてありえない。しかも、東大法学部の教授は全員、ロスコウ・パウンドの名前は知っていたでしょう。日本にいたころの十五歳のわたしが知っていたくらいですから。
 そのときアメリカは偉大だと思いましたね。一方で大量生産の時代がはじまっていても、根っこにハックルベリィ・フィンの伝統が生きている。(★61 一九九三年)

 アメリカで下宿においてくれたおばさんが、貧乏だったんだけども、私を受け入れてくれ、部屋を一つくれて、そこの長男は食堂のすみで組み立て式のベッドに寝てたんです。その長男というのは、ブリューニング ー ブリューニングというヒトラーのまえの総理大臣がいるでしょう ― がハーバードヘ来たので、その助手をしてた男なんです。だから私よりちょっとまえに卒業していて、そのころは大学院生だった。その長男の友だちがいっぱい来ると、ハーバードの教授たちがその小さな部屋にひしめきあってお茶の会をやる。自分の貧乏をすこしも恥じないんだ。
 私を助けようと思って私に部屋をくれた。やはりそれがものすごく自分のなかにはいっているんだな。だからアメリカがひどいことをやると、自分の屈辱として感じるんですよ。(★62 一九七七年)

 彼女が私に与えてくれたものというのは、日本にアメリカがはいってきた以後、アメリカにたいしては徹底的に抵抗しなくてはいけないというかたちで私のなかに貫通しているわけです。彼女の身ぶり、それが貧乏も恐れず、スックと立っていたその姿勢というのが私のなかで生きるわけですよ。それは彼女が予期しないしかたで生きるわけだ。だから私は、私の先生だったライシャワーが大使になってきたけど、大使館から呼ばれる者としては私はあそこへ行かず、坐り込みだけやりに行ったわけだ。そのエ不ルギーというのはどこからきたかというと、その下宿のおばさんなんだ。彼女の身ぶりが私のなかに生きてる。それは民衆から民衆への身ぶりですよね。(★63 一九七七年)

 
 永井道雄について

 
 永井道雄(元文部大臣)と六つのときから友だちなんですよ。永井道雄の家というのが、とても親切にしてくれて、私か小学校だけでクビになっちゃってウロウロしているときに、揉み療治の人を紹介してくれたんです。島本さんというんだけど、そこへ行くと、永井道雄の兄貴で明雄さんといって、早稲田の学生だった人が隣に来ていてね。本当に、人生に悩みのある人だった。それで帰ってきたら、揉み療治の島本さんが、永井道雄のお母さんに電話をして「あの人(鶴見さん)は二十歳まで生きません」と言ったらしい。率直な人なのよ。

 それでお母さんは、永井道雄にその話をした。だけど、永井道雄というのは非常に気配りのある人で、そのことを私に言わなかったんです。二十歳を超えて、あるときに「いまは君も二十歳を超えたから言うけども、揉み療治の島本さんは、『あの人は二十歳まで生きません』と言ってたよ」と教えてくれた。そして、永井道雄の兄さんは、戦争に行った帰り、日本に着く前の日に海に身を投じて死んだ。だから、永井道雄と私との関係は、兄さんがあいだにいるんです。(★64 二〇〇四年)

 小学校四年ぐらいのときかな? 同じ教室でグ永井道雄が「僕は、昭憲皇太后のような人としか結婚しない」と言ったんだ(笑)。当時の小学校ですから、「永井君、それは不敬にあたる」と皆に責められたんだ。それで、永井道雄は孤立しちゃったんだ(笑)。(★65二〇〇四年)

 私は、永井道雄の家がとっても好きなんですよ。お母さんの次代さんも、柳太郎も。私の親父に比べると偉いような気がするね。というのは、柳太郎が死ぬときに永井道雄がそばにいたんです。柳太郎氏は、「自分の一生は失敗だった。君には何も言い遺すことはない」つて言ったそうです。それで、昭和十九年の十二月一日に死んだんです。
 私はその話を聞いて、ほんとうに偉い男だと思ったね。柳太郎は、自分が若いときの理想を裏切ったということを知ってたんです。もともとは平民社出身なんですよ。同志社に社会主義者が集まっていた時代の学生で、ストライキをやってクビになって、それで早稲田に来たんです。早稲田に来てからも、平民社との友情はつづいた。だから、堺利彦とか、安部磯雄とか、みんな仲間だったんです。(★66二〇〇四年)

 私が永井道雄でいちばん感心したのは、文部大臣になったあと「三木おろし」があったでしょう。彼はそこでパッと辞めたんです。もともと、朝日新聞を辞めるときに「また帰ってきますから」と言ったんだって。(★67二〇〇四年)

 「君は小学生の頃、いくつまで生きると思った?」と聞いたんだ。そしたら、「まあ、六十ぐらいまでかな」と言った。「じゃあ、もう目的を達したじゃないか」「うん」というんだ。それが、私の生涯で、永井道雄と交わした最後の会話だった。(★68二〇〇四年)

 
 嶋中鵬二について

 
 小学校二年生のころ。嶋中君の書いた、煙突男が小便をしている絵が、その図柄そのまま目にのこっている。クレヨンでくろぐろとえがかれた煙突の上に男がたっていて、小便がまっすぐに地上にむかってたれていた。その絵を、教室で見た。
 会社への抗議。ストライキ。そういうことは、私にはまだわかっていなかった。嶋中君にはわかっていたようだった。彼の父が中央公論社社長の嶋中雄作であり、父の兄が当時社会民衆党の中央執行委員だった嶋中雄三だったのだから、家庭の話題から、煙突男に共感をもっていたのではないか。それにしても、ある人が六日間、一三〇時間にわたって高い煙突の上ですごした事実は、彼にとっておそろしいことだった。彼は高所恐怖症で、それはどの高さもない肋木(ろくぼく)のてっぺんにのぼることさえ、できなかった。
 小便をする場面をえがくのは、すでに彼が、暗黒面から人間を見すえるジャーナリストのまなざしをもっていたことを示している。(★69 一九九七年)

 
 中井英夫について

  
 もの書く人として中井英夫に出会ったのは、偶然である。本屋で、本をあさるうちに、棚の高いところに塔晶夫という私の知らない著者による大冊がおいてあった。理由もなく、背のびをしてその本をおろし、ページをくってから買い求めて、宿にかえった。『虚無への供物』という長篇推理小説で、読むうちに、描かれている風物が私の見たことのあるように感じられてきた。
 あとから考えてみると、あたりまえのことで、この著者と私とは、私にとっては六歳から十四歳まで、東京高師附属小学校十府立高校尋常科で、著者にとっては六歳から二十歳まで、東京高師附属小学校十附属中学校十府立高校高等科で、おなじ道をかよっておなじ学校の建物の内部でくらしたので、彼の創作の細部が、私にとっておさないころから見なれた形象になる。(★70一九九八年)

 小学校の仲間では、中井英夫は人物だった。彼の戦中に書いた日記はすさまじいものがある。彼の親父は認めないだろうけどね。(★71二〇〇九年)

 
 宮沢喜一について

  
 宮沢(喜一)は私の三つ上なんてすが、〔略〕永井道雄のほうは、彼が小学校のときから親父は領袖だったんですね。それに対して、宮沢の親父は地方の政治家で、選挙は固いけど陣笠だから、宮沢は、政治家には必ず汚い金が必要だということを小学校のときに知らないんです。彼は、小学校のときからずっとできたんですよ。頭ひとつ抜いてるぐらいできたんだけど、推薦で中学校へ行くのが嫌で七年制を受けてるんです。だから、尋常科から七年・・・。戦争はまずいとわかっていたから、日米学生会議に行ってるんですよ。戦争が終わってからも、アメリカ占領軍との折衝にあたったでしょう?
 だけど、彼に見えなかったのは政治が汚いということ。汚いところを超えて何事かをやるんだったらやれると。彼は、自分が領袖に選ばれるまで、汚い金を集めたことがないんですよ。いつでも一番できているし、東大法学部から大蔵省でしょう? ポッと領袖に選ばれたので、皆に配り物をしなければいけなかった。それでああいうふう〔大蔵大臣時のリクルートーコスモス未公開株の譲渡事件等〕になった。(★72二〇〇四年)

 わたしが宮沢さんに興味をもったのは、安保(一九六〇年)のあと、政府で出している小さな雑誌に「夜遅くまで仕事をしていたら、学生大衆がいっぱい押しよせている。この連中は何を考えてるのかひじょうに興味をもっていっしょに話してみたいと思った。夜の十時ごろ仕事をすましてから学生のくるま座のなかへ入っていっしょにしゃべってみた。そうしたらおよそセンチメンタルなことばかり言っていて、具体的なプランをもっていないので失望した」という趣旨のことを書かれたと思います。わたしはとても感心しました。とにかく反対の人たちの感情と意見のなかをくぐってみようという姿勢ね。(★73 一九六五年)

 
 若槻礼次郎について

 
 戦後に仕事をはじめたころ、聞き書きをとりにまわった。夏のあつい日、伊東に元総理大臣・若槻礼次郎氏をたずねると、褌(ふんどし)はつけてはいたが、はだかで出てきて、老妻が晩飯のおかずを買いに出ているので、ということで八十代の若槻さんと二十歳そこそこの私は対座して、私の手づくりの質問に答えてもらった。私は捨て子であって両親を知りませんという生いたちからはじまる若槻さんのはなしは忘れがたい。明治国家をつくってきた人の風格が残っていた。
(★74 一九九六年)

 わたしは戦争終わったころに、若槻礼次郎に会いに行った。夏だったんだけれども、ごめんくださいと言ったら、わりに広い家だったけれども、だれも出てこないのです。しばらくして出てきたのが若槻礼次郎で、まっ裸なんですよ、一人しかいないんですよ。細君は晩メシのしたくでどこかに買い出しに行っているんです。若槻礼次郎は八十越している。細君は八十くらいですね。そのあいだ若槻礼次郎は、褌(ふんどし)一つで坐ってジーツと暑さに耐えているだけなんですよ。わたしはまっ裸の若槻礼次郎と坐って、彼の話を聞いたんです(実はあとで浴衣を着たのですが)。

 いろいろな話をしてくれたけれども、自分は親はだれだか知らない、捨てられたんだ。どこかの足軽に拾われて、明治維新になってから、金がないからどうかと思っていたら、小学校でよくできたんですね。小学校出たらすぐ校長にされた、十二か三で。仕事が終わると川に行ってメダカ取りしたりしていた。そのうち、そんなことをさせていたらかわいそうだというので、村の人たちが金を出して東京にやってくれた。東京で大学へ入ろうと思って、受験準備はどうしたらいいかと聞いたら、『資治通鑑』が出るというので、話を聞いて、図書館にかよって通鑑を読んだというんですね。だから通鑑を読む能力で東大に入った。全部金は村から出してもらった。そういう時代があったんですね。それから幾星霜経ているから、戦争中ずっと冷飯食わされて、戦争終わってからも、一人で裸でいるというのは別に不思議でもなんでもない。(★75 一九七三年)

 たとえば若槻礼次郎(元首相。一八六六-一九四九)は捨て子なんです。私が会ったとき、最初に出てきたのは褌(ふんどし)ひとつで裸なんですよ。「いま、細君が夕食を求めにいっていて、私ひとりしかいません」と、浴衣を着て座って、私の質問に答えてくれたんですが、「私は、母も父も知りません。捨て子なんです」と。小学校はタダですから、小学校へ行って、あまりできるからというので校長にしてくれたんですよ。だから、すぐ十四歳かなにかで校長になってる。子どもに教えるのに、別に下読みする必要はありませんから、川へ行って魚とりをしてたら、「あんなにできるのに、魚とりなんかに時間を使ってるのはかわいそうだ」といって、村の金持ちが金を出してくれて東京に送ったんです。

 そういう気運が、明治初年にはあったんですよ。皆が金を出してインテリをつくろう、ということですよ。(★76二〇〇四年)

 **************

 
 ★もう一つの物差し ― 後藤新平

 
 私は、おやじだけではなくてもう一つ身内に「物差し」をもっていたんです。私が生まれたのは、いまの中国大使館のあるところでしたけど、そこの主人は私のじいさん、後藤新平なんです。

 後藤新平は岩手県水沢の十石取りの家に生まれた。しかしその十石も戊辰戦争に負けて取り上げられてしまう。それこそ乞食も同然だった。それを、肥後から県庁の役人として水沢に来ていた、安場保和が拾って給仕にしてくれたんです。安場はそのときに後藤を含めて三人拾ったんだけども、一人は後に総理大臣になった斎藤実で、もう一人が、日本で最初の社会学の本を翻訳して、同志社の新島襄の右腕になる山崎為徳。この三人。

 その後、後藤は須賀川―あの松川事件があったとこですね―の医学校に行くことになるんだけど、それは嫌々でね、医者になんかなりたくなかったんだ。しかし、そのまま医者になって、やがて愛知県の病院の院長になる。そのとき、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助の手当をしているんです。いわゆる岐阜事件(一八八二〔明治十五〕年四月六日)だね。

 後藤がいたのは県の病院だから、県の命令、つまり中央政府からの命令がなければ治療に行くことができないんだけど、一刻を争うと思った彼は、黙ってさっさと板垣のところへ行く。そうすると、板垣の取り巻きの壮士連中がいて、こいつは何者だというように威嚇するんだね。そこで後藤はメスを出して、いきなり板垣が着ていた高価なラッコのチヨッキをズズズッと切ってしまう。壮士たちは、そんな高いものをさっと切ってしまうのを見て目をむくんだけど、そうやって壮士たちの肝を冷やしておいて、診察にかかるわけだ。板垣は胸や腹を刺されていたんだけど、内臓の傷は大したことがない、一番深いのは手だった。つまり、板垣は軍人だから、白刃を手で受け止めたわけだ。これを膿ませないことが勝負どころだった。それですぐに消毒して、しばらく話をして帰った。壮士連中を目の前にして臆せず的確な治療をした後藤のことを、板垣はおもしろいやつだと思ったんだね。それが、後々の後藤の進路を決めるわけです。そういう意味では、後藤新平は、言葉の正確な定義によるエリートかもしれない。

 余談だけど、後藤は西郷隆盛も覚えているんだよ。水沢から官吏の書生として東京に出てきたとき、官吏に従いて宮城の前を歩いていたら、突然その官吏がぱっと顔色を変えて下駄を脱いだかと思うと、裸足になってひざまずいた。で、向こうから大兵肥満の男が歩いてきて、「お暑うごわすな」と声をかけた。それが西郷だったんだ(笑)。

 私は、六歳まで後藤と同じ家に住んで、毎日会っていましたけど、彼は子どもが好きで、こうしろとか、ああしろとか、お行儀よくしなきゃいけないなんて決していわずに、「おれは牢屋に入ったことがあるんだぞ」というんだ。ああ、このじいさんは牢屋に入るほどの偉い人なんだ、牢屋に入る人が偉いというのが、私の基準になっちゃったんだよ(笑)。やがて十九歳のときに私も牢屋に入ったんだけど、そのときは俺もおやじを飛び越してじいさん並みになったと、非常にうれしくて、その晩はゆっくり寝られた(笑)。

 後藤に限らず、おそらく日露戦争の終わりまでは、ある日本人の型があったんだと思う。たとえば、日清戦争のときの外務大臣は陸奥宗光ですね。陸奥宗光も牢屋に入っている。牢屋の中から世の中を見るという、その期間が彼にとって「学校」だったんです。陸奥は牢屋を出たのちに外遊して、日本に戻ってきてから外務大臣になる。

 彼は和歌山藩の家老の息子で、父親が失脚したあと江戸に出たときに坂本龍馬に会う。そこで龍馬という人間に感応して後に海援隊にも加わるんです。その当時陸奥はまだ十代だから、日々接しているうちに、龍馬の頭の働きが彼の頭にも移ってくる。若いときにはそういうことがあるんですね。それは絶大なもので、だから、突拍子もないことを考えるんですね。

 陸奥はしょっちゅう浅草に出て、雑踏の中を人の流れと逆に歩いていく。かなり難しいゲームなんだけど、何度も何度もそれをやっているうちに、だんだんコツがわかってくる。書生仲間が、「どうして君はあんなにしょっちゅう浅草へ行くんだ?」と訊いたら、「雑踏に逆らって歩く練習をしているんだ」「なぜだ?」「おれは、見てのとおり、やせっぽちで腕力がない。喧嘩をすれば必ず負ける。おれにできることは逃げることだ。逃げる練習をしているんだ。どうだ、おれと喧嘩してみるか。逃げるのは速いぞ」と(笑)。

 それを実践したのが日清戦争なんですよ。三国干渉に対する彼の態度がまさにそれなんだ。そのプロセスは『蹇々録』という彼の日記に書いてありますけど、驚くべき人物を日本はもっていたんですよ。学校で教わるのじゃなしに、海援隊で坂本龍馬の日常を見ることでそういう型を身につけたわけです。

 なぜそういう仕種、流儀が身についたのか。それは、日清戦争、日露戦争のときの軍部の指導者は幕末に生まれ育っているからです。大学なんか出ていない。日露戦争の一番の知謀の中心は、児玉源太郎でしょう。彼はものすごい知恵のある人間で、日本だけでなく世界史の中でもあれだけの軍人はいなかったと思いますよ。
 世界史二百年の幅で考えてみましょう。天才といわれるナポレオンはロシアに負けた。狂気の天才たるヒトラーもロシアに負けた。しかし児玉源太郎は負けなかった。世界史から見てもずば抜けた人物であることがわかります。戦争を始める前に児王源太郎は京都の山県有朋の別荘、無鄰菴(むりんあん)で会議をやったんですよ。彼はそこで、重臣―現役武官制なんて布かれる前だから重臣が力をもっていた―に対して約束をとったんです。「やりましょう、ロシアと。だが、私かここで止めといったら、必ず止めてください。どんなに不利な条件でもロシアと講和を結んでください」といったらしい。その約束を、伊藤博文、山県有朋、桂太郎それから小村寿太郎もいたと思うけど、それら重臣たちに約束させたわけです。そして戦争になって、奉天会戦直後に極秘で帰国した参謀長の児玉は、いまが止めるときだと、講和を進言する。この講和交渉においてロシア側から出てきたのがヴィッテで、これは知謀の人なんだ、ものすごく頭がいい。日本側は小村寿太郎を出した。講和条約はヴィッテのほうが優勢だったでしょう。小村寿太郎は初めから覚悟を決めてるんだ。行きは万歳、万歳といって出ていくけど、帰ってくるときはどういう状態になるかということ
を充分に承知していたわけです。

 それが日露戦争なんです。しかし、その後の十五年戦争では、そうした引き際を見定める人間がいなかった。これは、大衆の中から抜かれた真の意味でのエリートではなくて、試験で選んだエリートたちが指導者になったからだと思いますね。そういう似非(エセ)エリートを養成したのが官僚組織なんだ。

 **************

 
 ★メモラビリア③

 ★後藤新平について

 
 私と(姉の)和子の下には、二人のきょうだいがいます。私と和子には、威張った身ぶりがあるんですよ。私は、それが嫌で、隠そうと思い、克服しようとするんですが、隠せないところがあるんですよ。なぜそれが生じたか。和子と私は、祖父の後藤新平が生きているうちに生まれて、いま中国大使館になっているあの家の内に、家をもらって住んでいたんです。だから、ゼロ歳のときから六歳まで、毎日、私は後藤新平と一緒だったんです。和子は四つ上ですから、十歳までそうだったんです。だから、チヤホヤされて、自然に、自分も偉いんだという錯覚が起こっちゃうんです。それで、年を取るとその身ぶりが出てくるんだね(笑)。
 でも、私の妹と弟は、後藤新平が死んでから育っているし、後藤の家の背景のある中で住んでいないわけです。
(★77二〇〇四年)

 私の母方の祖父(後藤新平)のいた藩は一万石で、彼はそのなかでいうと真ん中なんだけど十石なんですよ。賊軍だから、それも奪われて単なる乞食になったんです。それが、江刺県庁の給仕になって身を立てるんですが、乞食学生から高いところまで昇るんですから、明治の終わりには非常にうれしいんですね。自分の子どもや、子どものいとこたちを集めて、「ゆかい、ゆかい、ゆかい。明治の御世」と歌わせるんです(笑)。彼は、乞食身分から上まで昇ったんだから、たいへん愉快だったんですね。それも、自分に才能があったからだという自信があるんですよ。
(★78二〇〇四年)

 率直にいって、明治天皇は私の祖父に比べて、はるかに品行正しい人だった(笑)。最後は若い人を家のなかに入れて、怒った跡継ぎに張り倒されちゃったんだから。
 私が子どもの頃、谷を越えた向こうの小さな家に、跡取りは追放されたんだ。彼は、跡取りを廃嫡すると言ったんだけど、絶対にそういうことをしちゃいけないと、私のおふくろは、自分の父親のことをものすごく怒ってね。後藤新平も、自分の娘に怒られると堪えられなかったんだ。なにしろ私の母は歯止めのきかない人だったからね。そのとりなしのあと跡取りは屋敷の中にいられなくて、谷を隔てた向こうにそば屋があって、その隣に小さな家があって、そこに行ってたんだ(笑)。やがて何年か経って彼は許されて、彼と私の家とを交換したんだ。
 そば屋の隣で、私の愉快な記憶は、そこからちょっと出て行くと紙芝居がきたことなんだ。ただ、なぜ私たちがその小さな家に来たのか、当時の私にはわからなかった。つい一年ほど前に、姉が電話で教えてくれた。その後ろには何かがあったんだ。妾を自分の屋敷に置くことに対して、跡取りが怒って張り倒しちゃったんだけど、私のおふくろ(次女)が追放を止めた。私の家は平民で、跡取りは伯爵なんですね。その家へ行くと、跡取りの奥さんがいつでもすごく優遇してくれるんだ。そこの家へ行くと、そこの子どもたちより、私と私の姉のほうが偉いんだ。それは、私のおふくろの親父批判のおかげで、自分と自分の夫は追放をまぬかれたという、その感謝の気持ちなんだよね。だから、星ヶ浦に銅像が建ったときも、除幕式には跡取りと、私のおふくろと和子と私が招待されるんだけど、跡取りの子どもは長女だけだった。いま考えると変なことなんだよ。だから、私たち姉弟の威張った身振りというのは、明らかにその数年のうちに生じたんだ。
(★79二〇〇四年)

 わたしのじいさんの後藤新平が、伊藤博文といっしょに宮島にある晩泊まるんです。二十ぐらい年が違うわけで、伊藤博文のほうがずっとえらい。だから、別の宿をわざわざうやうやしくとって、そこで寝ていると、寝ちゃってからドンドン戸を叩く音がする。何かと思って女中さんが出てみたら、伊藤博文が来ているんですって。さっきのここのところを ― 満州の経営の話でしょう ― もっと聞きたいからと夜中になってもう一度思い出して自分で歩いてきたんですよ。それでもういっぺん宿をあけ放して、話をするんです。そういう気風というのは、わたしは感心だと思いますけれどね。わたしのじいさんは岩手県の出身ですから藩閥とはぜんぜん関係ない。官吏として、博文との差というものはひじょうなものです。とにかく、そういうのを引きあげていかなければ、国家はたいへんになるという危機意識があったんですよ。
(★80 一九七一年)

 (後藤新平の背丈は)そんなにたいしたものではない。だけど児玉源太郎よりは高い。だから児玉源太郎と二人で写真を撮るときは、みかん箱を置いて、その上に児玉源太郎が立つ。それで後藤新平はちょっと低くなる。横に立って。それで写真ができてきて、それは台湾総統と民政長官でしょう。だからちょっと落差がある。
(★81二〇〇八年)

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