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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(46)
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(46)
 -明治日本を専断主導したのは薩長藩閥ではなくこの怪物 

 
 ★薩摩ワンワールドと手を携えた政治結社群 

 
 本稿の淵源は、佐伯祐三絵画の伝来を巡って私(落合)が偶々入手した吉薗周蔵の手記にある。平成八年三月以来、百十八回かけて解読した分がその第一部に当たるが、一段落した後一年の休載のあと第二部に入り、「手記」以外の外部資料から周蔵の生きた世界の真相を探究した。例えば、周蔵が仕えた元帥・上原勇作の背後関係を洗うと、在英ワンワールド勢力の日本支部と見るべき薩摩軍人の結社の存在が浮かび上がり、これより進んで樺山資紀と高島鞆之助が台湾政策の基本を固めたことや、鈴木商店の真相及び周蔵が東亜煙草会社に関与した所以などが、連鎖的に明らかになった。

 それも一段落した今春、維新史の闇を透かして見えてきたのは、薩摩ワンワールドを包含する広大な政治的勢力の存在である。当時の玄洋社や西本願寺は、事実上強大な政治結社であって、薩摩ワンワールドと手を携えて日本を動かしていたことが明白になった。更に、丹波の上田氏を頭領とする大江山衆が、宗教を足掛かりにして、国内は勿論満洲にまで進出し、国家と陸軍の大陸政策の露払いをしたことも把握できた。その広大な政治勢力を統べていたのは、軍人でも政治家でも宗教者でもなく、堀川辰吉郎という白面無冠の貴公子で、辰吉郎を輔翼した者もやはり無冠の浪人・杉山茂丸であった。

 この観点に立てば、従来の学校歴史が説くごとく、薩長藩閥が日本の政治を専断的に主導したとは到底考えられない。そこで本稿は、この政治勢力の全体像を明らかにすべく、本年六月号(第四十二回)を以て実質的に第三部に入った。本月稿はその三回目で、前月に続いて杉山茂丸を論じていく。

 さて、前月稿に述べた経緯、すなわち茂丸が元老院議官・安場保和に福岡県令就任を請うた処、安場が上司・山田顕義の承諾を条件にしたので、後藤象二郎の紹介で司法大臣・山田顕義に会う処までは良いとしても、安場と玄洋社の結託を警戒していた山田が、茂丸の弁舌に屈して終に安場の福岡県令就任を認めたとするに至っては、皮相どころか苦し紛れのコジツケと観るしかない。弘化元年(一八四四)年生まれの長州藩士・山田顕義は、戊辰役で賞典禄六百石を受けた功臣で、明治七年に陸軍少将、明治十二年参議に就き、以後各省の卿を歴任して十七年の華族令で伯爵に叙せられ、当時は司法大臣であった。安場は天保六年生まれで、山田より九歳年上だが、戊辰役の賞典金は三百両の中級功臣で、福島県令などを経て、時に元老院議官、男爵叙爵も明治二十九年である。政界の実力は山田とは段違いであるが、山田の部下というわけではない。

 炭鉱払い下げの筋書きを書いた策士が誰か、いまだ明確ではないが明治史上最大の実力者であることは間違いない。その策士は玄洋社育成を実行に移すに際し、長州人であるが山縣有朋と反目して政界で特殊な位置にいた山田参議の支持を取り付けたわけで、長州派の分断を図る存念であろう。安場は、子分の熊本県学務課長・八重野範三郎から佐々友房を通して玄洋社の内情を聞き、福岡県令としての己の職責を理解し、納得したから県令を受けたので、山田の指示に従ったのではない。ともかく、安場保和は明治十九年二月、炭鉱払い下げ策を実行すべく福岡県令に就いた。

 
 ★京都皇統の密名で動くもうひとりの人物・佐々友房

 
 戦国武将・佐々成正の子孫と称した佐々友房は、肥後藩士として肥後勤皇党に属した。西南戦争で西郷軍に加わって入獄したが、出獄後は教育界に入り、国家主義を鼓吹する学校を創立して明治一五年に済々黌と改称、国家有為の人材を多数輩出してきたのが現在の*熊本県立済々黌高校である。国権主義に立つ佐々は、二十二年九月熊本国権党を組織し、第二回帝国議会が開設されると衆議院議員に立候補して当選を果たす。友房の子息・弘雄も参院議員で、孫にも参院議員・紀平梯子と警察官僚・佐々友房がいるが、紀平悌子が市民運動政治家・市川房江の後継者となったのは興味深い。(*姜尚中の出身校でもある。)

 友房こそはどうみても只者でない。そもそも熊本国権党の実情は玄洋社の友好団体で、肥後藩士出身の安場もこれに与していた。友房が茂丸に対して行ったことは、玄洋社の実質社長・頭山を紹介して入社に導き、筑豊炭田の玄洋社への払い下げのために安場を県令に就けさせ、熊本人の内閣書記官長・井上毅(のち法制局長官・子爵)を紹介したことなどである。茂丸の主要人脈作りに、佐々ががくも勤しんだのは、京都皇統の密命を直接的に受けたものと視て良いであろう。

 辰吉郎は井上馨の兄・重倉の五男が死んだので、身代わりとして入籍したもので、戸籍上は明治二十四年生まれとなったらしい。玄洋社に預けられた辰吉郎が長州人の籍に入るのは不可解だが、重倉は玄洋社員と仄聞するし、長州三巨頭の中でも井上馨は京都皇統と密接な関係にあった。ともかく安場福岡県令の申請で、四か月後の十九年六月総理大臣・伊藤博文から九州民営鉄道敷設の許可が下りた。黒幕の茂丸は時に二十三歳であった。

 同年八月、清国北洋艦隊が示威航海のため長崎に寄港したが、その水兵が長崎市内で軍威を嵩にきて暴行を働き、之を眼前にした国民間に国権意識が沸騰した。元来反藩閥の民権主義団体であった玄洋社が国権主義に転じたのはこの事件が契機で、人権の前にまず国権の確立をと謂う訳で、熊本国権党もその流れである。

 因みに、軍事力が充実した時に対外暴挙に出るのは中華国家の通例で、爾来百二十年経った平成二十年代の今日その虞が再来しつつあるが、これに応じてわが国内でも国権意識が昂揚するのは当然で、となれば、「対華事勿れ主義」を標榜する現政権党も、党内に国権派が台頭して分裂の危機に曝され、現状のように選挙中心主義と政権争奪ゴッコに終始してはおられまい。間もなく国家意識を主軸にした大連立時代の到来が予測される所以である。

 
 ★井上馨を狙った者、その命を救った者

 
 明治二十年三月、旧藩主・黒田長淋の薨去により上京した頭山満に会った茂丸は、国家主義に転じた玄洋社の政治活動資金として炭鉱鉱区払い下げを切り出し、躊躇する頭山を説得して承諾させる。堀政昭『杉山茂丸伝』によると、頭山を納得させた茂丸は上京中の安場福岡県令を訪ね、さらに農商務大臣・井上馨に相談して、海軍予備炭田として閉鎖中の筑豊炭田の払い下げを要請した。玄洋社の炭鉱払い下げの詳細は本稿の主旨でなく時期を調べていないが、井上馨は十八年から二十年九月まで外務人臣で、その後は宮中顧問官を経て二十一年七月に農商務人臣に就く。つまり、茂丸が訪ねた時には井上は外相であったが、井上本人が炭鉱払い下げの筋書きに関わっていたから訪ねたのである。この年、堀川御所から博多に移る辰吉郎が、後に井上馨の兄・重倉の戸籍に入籍したことを視ても、京都皇統と井上馨の間には深い関係が在ったと観るしかない。

 外相として不平等条約の改正を担った井上は、欧化主義を唱えて鹿鳴館外交を展開していたが、改正案に外国人判事登用を盛り込んだのを政府法律顧問のボアソナードに暴露され、農商務人臣・谷干城の猛烈な反対に遭った。茂丸は、井上馨の改正案に反対して下野した谷干城を牛込邸に訪ね、本人に向かって異議を述べた。堀前掲書は、その時期を、巻末年譜には明治二十年、本文では二十二年とするが、おそらく後者が正しいと思う。

 維新の功臣・谷干城は、明治四年薩長土三藩の御親兵募集に応じて初任陸軍大佐、西南戦役では少将熊本鎮台司令長官として西郷軍を撃退、勇名を馳せて中将に登り、十七年の華族令で子爵に叙せられた当時の政界の重鎮である。京都皇統を支援する勢力には土佐派も加わっていて、谷干城による井上の条約改正案反対も玄洋社と軌を一にするものであったが、茂丸は「自身の代案を示せ」と、谷の急所を突いた。無冠の茂丸が子爵陸軍中将の谷に面悟して異議を呈したのは、谷が必ず応対するとの確信が有ったからで、茂丸の黒田長溥の遺児たる素性が谷に伝わっていたと観るしかない。堀前掲書を始め巷間に茂丸伝記は多いが、ひたすら茂丸の野人振りを強調するものばかりで、なぜ茂丸に限って謂うような野人振りが当時の支配層に通じたのかを説明したものは一つもない。いかに野人を気取っても、支配層が相手しなければ世に顕れないのは当然で、茂丸の隠れた貴種性を補助線にして初めて茂丸の謎が解けるのである。

 二十年七月二十六日の谷子爵の反対意見書呈出と閣僚辞任に国民が喝采した反面、井上は国権派壮士から生命を狙われる。谷の辞任後の農商務大臣に就いた井上が、二十一年秋に九州入りした際、玄洋社員・来島恒喜が暗殺を図るが、井上に炭田払い下げの大恩がある頭山は来島を説論して井上を救った。井上辞任後は伊藤博文総理が兼摂していた外相に二十一年二月から大隈重信が就き、条約改正に腐心する。大隈の案が二十二年四月に外紙『ザ・タイムス』に報じられたことから、大隈は十月十八日来島から爆弾を投じられて、片脚を失った。大隈襲撃の背景に茂丸ら玄洋社幹部がいたことは紛れもない事実で、茂丸の末裔や周辺は之を不名誉としているが、政治の本質に関わることであって小市民的道徳律を適用すべき事項ではない。

 
 ★朝鮮知識人と英商と明治陸軍の将星たちと

 
 不平等条約改正は国民の悲願であったが、実現するには結局「力」しかない。そこで、「弱い国と戦って勝ち、その現実を世界に見せつけるこししかない」と茂丸に教えたのは金玉均とともに朝鮮国から亡命していた宋秉峻であった。叩くべき相手は清国で、攻撃の主目的地を奉天として、旅順・大連・威海衛も攻撃対象とすべきことを教えた。清朝にとって発祥地たる満洲の重要性は誰でも思いつくが、宋の発言が満洲の地政学的重要性を意味していたのかが興味を惹く。日・漢・満・露に挟まれた半島国家の伝統的外交策は、時の周辺最強国に阿諛する事大主義であるから、地政学的思考とは往々にして矛盾するが、当時の朝鮮知識人が地政学を体得していたのなら、真に驚くべきことである。

 その地政学こそ、明治二十二年頃から茂丸の思考を規定したものであり、契機は香港との石炭貿易を通じて知り合った英商・★シーワンである。筑豊炭田の石炭は、安場県知事(十九年七月官名変更)が二十二年七月から実施した門司港の整備に因って輸出が可能となり、香港貿易の途が開けた。これより前、茂丸は尾張藩士出身の陸軍少尉・★荒尾精に会う。外国語学校(フランス語)を中退し明治十一年陸軍教導団に入った荒尾は、成績優秀につき、十三年一月陸軍士官学校旧制五期に入学、十五年二月に少尉に任官した。下士官を養成する陸軍教導団長は、八年二月以来十二年二月まで実に三年間も高島鞆之助で、高島大佐は十年二月長崎警備隊指揮官を兼務し、西南戦役に際しては少将別働第一旅団司令長官となり、十月に凱旋する。その後、欧州出張に出る十二年二月までの一年余は教導団長専任であったが、十三年三月帰朝して熊本鎮台司令長官に就任するまで、ずっと教導団長の職にあった。荒尾の教導団時代は十一年から十二年十月で、前半は高島の団長専任時代であったから、欧州出張前に高島が荒尾の士官学校進学を決めたとの推測は充分成立つ。

 歩兵十三連隊付少尉の荒尾は、十八年参謀本部出仕を命じられ、清国担当の軍事探偵になった。茂丸が参謀本部付軍事探偵の荒尾に会うのは十八、九年の頃で、場所は大阪であった。大阪鎮台司令官は高島鞆之助少将で、この出遭いには高島の関与が考えられる。佐々友房が茂丸に頭山を紹介したのと軌を一にするもので、勿論偶然ではない。十九年に清国出張を命じられた荒尾中尉は、眼薬「精水」で知られる岸田吟香が上海で開いていた薬局「楽善堂支店」で働き、岸田の信認を受けて漢口に楽善堂支店を開き、参謀本部から命じられた特別任務の活動拠点とした。

 二十一年、ロシアがシベリア鉄道敷設計画を発表したのを観た荒尾は、ロシアの南下を防ぐために清国との連携が肝要と考え、二十二年四月に帰朝して、貿易を通じて日清間の連携を強める主旨で、日清貿易研究所の設立を全国で呼び掛けた。荒尾が博多を訪れたのは二十二年十二月二十ー日で、その頃、茂丸は筑豊石炭の輸出商談のために香港に向かっていた。既に、荒尾が日清貿易研究所を上海に設立する資金を、茂丸が石炭貿易の利益で支援する約定が出来ており、荒尾は、清国商人・譚蘭亭の紹介で知った英商・シーワンを、茂丸の石炭貿易の案内役として紹介し、シーワンがイギリス船ベンラワー号を茂丸に貸すことで茂丸の石炭貿易が始まる。シーワンの正体をまだ知らぬが、海洋勢力の本宗たる在英ワンワールドの世界戦略を茂丸に教授したことからして、これも只者でない。

 ここら辺りの茂丸を取り巻く人脈の形成と進展は、偶然の累積では到底説明できることでなく、系統立った策略の下に動いている、その策源地が京都皇統に在るのは確かで、辰吉郎を博多に移したのも同じ策士であるが、問題はそれが誰かである。薩摩ワンワールドの初代総長・吉井友実は、当時宮内次官兼枢密顧問官で、二代目総長を第四師団長(大阪鎮台司令長官を改称)高島鞆之助中将に譲ろうとしていた。上述の荒尾と茂丸の出遭いの一件からしても、薩摩ワンワールドが策源地と解すると、符節の合うことが多い。

 
 ★あの高島鞆之助が孫文を支援した陰に玄洋社あり

 
 茂丸の石炭貿易による利益を以て二十三年九月に開所した上海の日清貿易研究所は、全くの国事工作機関であった。四年後の日清戦争の際、山崎・鐘崎・藤崎の三人の所員が玄洋社の声援を受けて満洲に渡り、金州で清国兵に捉われて軍事探偵として処刑されることでも明らかである。国事工作の資金を私的貿易の益金で賄うのは世の条理に反する。通常は政商なる者が存在し、国家から利権を貰う見返りに私的利益の中から国事資金を提供したり、乃至は国事活動そのものを行う。ところが政商にも真仮の二種あり、真の政商は究極の目的を財貨の私的穫得におき、国事をそのための手段とするもので、大倉喜八郎これである。仮の政商はこれに反し、真の目的を国事として、非合法ないし極秘活動における政府の関与を隠蔽するために私営事業を装うもので、代償として国家から無形の援助を受ける。この観点からすると、茂丸の石炭輸出事業は正に後者である。とすれば茂丸は真の私人
ではなく、本質を在野の国策遂行家と視て浪人政治家と規定すべきである。

 荒尾は明治二十六年年七月に予備役編入、ニ十九年三十九歳で病没するが、日清貿易研究所はその後東亜同文書院に発展し、根津一が院長に
就任する。日清貿易研究所を荒尾と共同運営した根津一は、横浜師範学校から陸軍教導団歩兵科を経て、十一年十月に教導団砲兵科から成績優秀のため陸士旧制第四期砲兵科に進むが、教導団で一年後輩の荒尾も根津を追いかけて陸士旧制第五期の歩兵科に入る。根津が荒尾の親友であったことは、同時に根津が茂丸とも近かったことを示している。

 根津は経歴からしても高島鞆之助の子飼いで、陸軍を去った後も高島の腹心であったと見て良い。明治三十年代から四十年代に掛けて、高島と根津の関係は、『宇都宮太郎日記』に見られる。参謀本部第二部長・宇都宮太郎少将が、高島の家政窮乏を憂いてしばしば東亜同文書院長・根津一に相談しているが、四十四年十二月、宇都宮が根津を訪れたところ、根津は孫文革命党を支援する善隣同志会の創立を図り、その会長に高島鞆之助を仰ぐ所存であった。

 『日本の下層社会』で知られる横山源之助は、その著『怪物伝』で頭山満を評し、「その交際してゐる人物を調べて見ると、平岡浩太郎、金子元三郎とも交れば、京橋に三興社を創立して石油事業に関係してゐる杉山茂丸や、北海道に幅を利かせてゐる結城寅五郎の如きは、曾て彼の恩恵を受けた門下生。かといふと、大井憲太郎、岡本柳之助、遠藤秀景のやうな物騒な連中とも交際(つきあ)ってゐる。子爵高島鞆之助とも懇意であれば、谷干城子爵とも睨懇、故人児玉参謀長とも親しければ、金子男爵(金子堅太郎)とも知り合ってゐる。特に故近衛公爵とは最も親かったやうである」とし、高島との関係を特筆した。

 高島が孫文革命を支援したことも玄洋社との密接な関係を示唆するもので、大正二年、第二革命に失敗した孫文の日本亡命を首相・山本権兵衛に認めさせたのは高島であった。孫文は赤坂の頭山満邸の隣家に匿われたが、高島邸に保護されたことも伝わっていて、高島の神戸別邸を用いた可能性もあるとされている(『大阪偕行社附属小学校物語』)。

 こうして見ると、其処此処に玄洋社と薩摩ワンワールドの関係が窺えるのであるが、これを指摘した史家を未だ全く観ないのは、一体なぜなのか? 
 
                        <了>。
 


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