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●疑史 第72回

 ●疑史 第72回    ★清朝宝物の運命(5) 


 先次大戦後、満洲は中華人民共和国東北地区となり、辰吉郎と醇親王の謀った満洲計略は満洲国建国だけの線香花火に終わったかに見える。此処までの経緯は畢竟在英ワンワールドの意図に沿ったものと思われるが、彼らの建てた河豚計画(ユダヤ教徒の満洲移住計画)は未だ全く終っていないから、満洲問題はパレスチナ問題の今後の推移を観てから結論すべきであろう。

 前月稿に続き、満洲族の漢族潜入仮説を略説する。その前に「満洲」(マンジュ)の語源を述べると、元来仏教の文殊師利菩薩を指す満洲語で、文殊を信仰した建州女真族の総称でもあるが、族称に「文殊」の文字を使うのを避けて「満洲」又は「満珠」を当てたものである。この語はまた民族の発祥地(現在の中国東北地区)を指す地名としても用いられた(同地区は英語でマンチュリア)。今日の史家やマスコミは「満州」を常用するが、これは戦前の庶民が頻繁に用いるために簡略化した表記を、上記の由来を知らず、或いはマン
チュリアを中華本部の一地方名(州)と看倣した誤用で、漢字制限のためと強弁する者もいるが、それならば八重洲も「八重州」と改むべきことになる。

 中華人民共和国において「満族」と呼ぶのは、現支配層を構成する漢族が満洲族の民族的覚醒を警戒してマンジュという言葉に敏感なためだという。二〇〇〇年の人口調査で一〇六八万人しかいない満族は、清朝期の支配階級だったために今日でも漢族に比べて教育水準が高く、一九九〇年の調査によれば人口一万人当たり大学進学者教は千六百五十二人で、全国平均の一三九人、漢族の一四三人より遥かに高い。

 また文盲・半文盲率も僅か一・四%で全国平均の二二・一%、漢族の二一・五%とは比較にもならない。辛亥革命で満洲に追放される筈だった満洲族は、革命後も満洲を漢土に編入した漢族に抱えられたため、国家中枢から排除された少数民族となったが、如上の教育水準を観れば、満州族が今日でも一種の貴族・士族的立場にあることが窺える。

 英国は謂うに及ばず、仏伊露などの上層階層にユダヤ種が潜入していると指摘されるが、ある民族が意図的に異族潜入を図る例は世界史上少なからず、その場合多数派民族への同化を装うのは当然である。わが史上にも例あり、本年発表の豊田有恒『世界史の中の石見銀山』によれば、安土城天守閣の完成の翌年即ち一五八〇年に、スペイン国王フエリッペ二世に滅ぼされて亡国となったポルトガルの貿易商人が大挙して秘かに来日して各所に潜入したが、一部が石見銀山を驚異的に発展させた。当初の鉄砲鍛冶も実はポルトガル人で、余談だが、少年の頃に読んだ吉川英治『神洲伝馬侠』に、★「鼻欠け幻斎」とかいう南蛮人の鍛冶屋が敵役で出てきた。巷間史書で戦国時代のイメージを形成していた私は、異人がそのような形でこの国に居住していることを信じられず、吉川の創作と視てその荒唐無稽を悪み、以後全く読まなくなった。ところが本年豊田説に接し、吉川が南蛮人鍛冶の口碑を確かに耳にしていたことを覚った。吉川が、さりげなく「鼻欠け幻斎」を重要人物として登場させてリアルに描いたのは、学校系の史家先生が彼の少年小説を荒唐無稽として嗤うことを計算した上で、嗤い返す心算があったのでないか。

 当時東アジア来往のポルトガル人の大半は、一四九二年にスペインを追放された旧ユダヤ教徒の子孫であった。その九十年後再びスペインの追撃による危険を感じた彼らが、日本人となって永住するために日本女性と通婚し、乃至は「托卵」して、多数の混血児★タカス(日本版マカイエンサ)を産ませた。種子島で刀鍛冶・八板金兵衛がポルトガル人に娘を差し出して秘伝を受けた例は周知だが、タカスが外来の素性を隠して鉱山業、銃砲製造や絹織物など貿易関連産業に潜入した史実は、多数の邦人男女がポルトガル人奴隷商により輸出された史実と同様、学校系史家の黙殺と黙秘に因って未だ国民周知の歴史認識となっていない。伊集院で鉄砲鍛冶となったタカスは鹿児島城下に移り加治屋町方眼に住んだが、彼らが薩摩藩士として維新を主導し、明治政府の主要部分を占めた秘史を本稿は既に明らかにしてきた。

 辛亥革命後の満洲族の動向に関する通説は「漢文化に馴染み過ぎて自ら漢族化し、満洲族としてのアイデンティティを失った」とし、所謂亡国の民と看做している。世界にはかかる例も少なくないが、ほとんどが被圧迫民族か少数化した先住民である。これに対し、満洲族はいやしくも清朝の貴族・支配層として権力・経済力と世界史的知識を有していたから、もしその気があれば、表向きの満漢通婚禁止令をかいくぐり、秘密通婚や「托卵」の形で漢族家系へ潜入するのは容易であった。地球上で漢族社会の存在が絶対に無視し得ない現実であることは、統治者の満洲族が一番善く知っていた。故に、世界史上稀なる政治力と統治能力を有した満州族は、清朝の初期から表向き満漢通婚を禁止しながら、実は意図的且つ積極的に漢族へ潜入し、或いは自ら漢族化を図ったとの推定が可能である(さもなくは、辛亥革命後の満洲族の無策ぶりは目に余る)。思うに、今日の中華人民共和国の政権中枢には、満洲族ないし満洲血統が、漢族を装って多数参与しているのではないか。以上が、洞察史学により構築した「満洲族漢族潜入仮説」である。

 さて、乾隆帝が逸品を選んで奉天北陵に秘蔵した「奉天古陶磁」は醇親王から堀川辰吉郎に渡り、奉天特務機関長・貴志蝋仲介により大正十四年紀州徳川家に入った後、大半が昭和初期に流出して現在世界中の美術館に飾られている。大正九年に貴志支援の密命を受けて奉天に赴いた吉良周蔵薗周蔵は、愛新覚羅氏の命令で「奉天古陶磁」を管理していた学者・孫游から親しく教示を受け、現物を実写した図に蔵帳の記載と孫游の解説を加えた手作りの冊子(「奉天古陶磁図経」)をまとめた。この十数年来それを研究してきた私は、「奉天古陶磁」には乾隆帝の遺志が込められていることを痛感する。清初三代すなわち康煕・康正・乾隆の三帝が倣古陶磁の製作に熱心した事は、史書に記され現物も遺されている。紫禁城伝来のオリジナル品と共に紫禁城・奉天宮殿及び熱河避暑山荘に蔵されていた清初倣古品は、辛亥革命後に一部が流出したが、大部分は今も台北と北京の故宮博物院にあり、近年調査が進められている。その結果、従来オリジナル品と思われていた品の多くが倣古品であることが判明した。

 周蔵が「図経」に所載した逸品の多くは、購入資金の大半を賄った大谷先端師が資金回収のために売却した結果、今は世界各地の美術館を飾っている。美術館の時代考定ですべてオリジナル品とされ、「図経」の記載とも一致している。ところが紀州徳川家に残った品の中に、「図経」にはオリジナル品と記載される特殊な倣古品がある。当初は「図経」の記載通りのオリジナル品と信じていた私は、実物に即して研究するうちに、それらが倣古品であるのに気付き、陶技が絶頂に達した清初期の作品と考え直したことで、雍正倣古品の真の器量が初めて観えてきた。

 その代表例は「奉天古陶磁」の最高品とされる「青花釉裏紅九龍大酒會壷」で、当初は永楽品と見立てていたが、今は清初品と確信する。「図経」には、これに類する倣古品が幾つか、オリジナル品に混じっていて、中には明初の年款を書いた品もある。「図経」にはオリジナル品と記載されているが、実際は倣古品である(ただし、上記九龍壷だけは「図経」に年代記載がない)。つまり、蔵帳には元代や明代と記してあり、孫游先生もそれを信じていたが、実際には清初三代期の倣古品である。そのいずれも、オリジナル品を凌駕する見事な出来栄えで、倣古年款を入れていない品の方が多い。

 この問題は、「図経」の作成の経緯を考察することで解決した。醇親王から辰吉郎が買い取った「奉天古陶磁」を、大正三年初に秘納庫から張氏帥府と北陵内の番小屋に移したのは、紀州家で換金して張作霖の軍資金にするためである。以前の秘納庫では整然と並べられて蔵帳(漢字だけ)だけで識別できた「奉天古陶磁」は、この移動で混淆してしまい、輸送の担当者が、同類と看做した品々を寄せ集めて並べたから、蔵帳と現物の厳密な対応が崩れた。そこで周蔵は、孫游先生の指導の下に、蔵帳を頼りに窯名・形態・寸法などを察して「図経」を作成したのであったが、幾つかの倣古品をオリジナル品と取り違えたのも無理からぬことで、この時に誤って記載したものと思われる。問題は、それら倣古品が通常の倣古品とは異なり、オリジナル品さえ超える見事な出来栄えであることで、おまけに年款を記さないものが多く、倣古品かオリジナル品かの断定が最後まで出来なかった。それを、モデルとなったオリジナル品と比較しながら、倣造の仔細を推定することにより、倣古品と断定されたのは最近で、清初三代にこのような驚くべき倣古品が作られていたことを明確に認識するに至ったのである。

 因みに両故官博物院蔵の倣古品には、①実際製作期の年款を入れたものと、②倣古対象期の年款(倣古年款)を入れたものと二通りあるが、それらを区別した基準は善く分っていない。ただ、倣古品には大別して二種類あり、古拙性まで含めて古物を忠実に写そうとしたものと、古代の精神を汲み取りながら当代の好尚に即し,当代の技術で作ったものがある。古物そのものを写そうとした前者は「倣古品」で良いが、古代の精神・感覚を尚びつつ、当代の技術で再現を図った後者は、「尚古品」とても称すべきであろう。

 ところが「図経」所載の倣古品は、両故宮博物院蔵の倣古品とは作行きが全く異なり、ここに「窯の性格の違い」、即ち通常官窯とは異なる御窯の存在が実感される。要するに、清初三代の皇帝が自ら指導して漢文化の精粋たる古陶磁を再現したものである。乾隆帝にとって、それら御窯品は祖父康煕と父・康正および乾隆自身が、眼前の漢文化を克服するために精魂を込めて造ったものであった。単に古物の模造に成功した「倣古品」ではなく、栄光に満ちた漢族の古文化を満州族が克服したことを証する「克古品」であったから、満洲族のレガリヤとして乾隆帝が奉天に隠したと考えるべきで、そこにこそ紫禁城に遺された通常倣古品との違いがある。固より乾隆帝は、表向き満漢平等を謳う清朝社会にそれを公開して誇るがごとき稚気は微塵もなく、大人の知恵を以て奉天に運ばせ、厳重に隠したのではあるまいか。

 辰吉郎から「奉天古陶磁」の管理処分を任された光瑞師は、奉天で実物を観た時に乾隆帝が克古品に懸けた思いを覚ったのであろう。日本渡来後にそれらを換金するに当たり、売却対象にはオリジナル品を選び、「御窯克古品」をすべて紀州家に遺したのは無論意図的で、乾隆帝の遺志を汲んだのである。上田・小森の倣造工作の謎もこれで解ける。光瑞師は清初三代皇帝の顰に倣って、日本人による克古品を企てたのである。しかしながら我彼の力量差は大きく、小森の腕で「克古品」作りは無理と見た光瑞師は、以後彼らが販売用倣古品の製作に転じるのを放置するしかなかった。 

                 <了>

 **************


 ★過去の参考記事です。↓ 


  ⇒ ★マカイエンサ 
  ⇒ ★真方衆

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