カウンター 読書日記 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3)
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●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3)
 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3) 
 
 第四章 戦後体制の形成と昭和天皇 は、次の一節で一区切りとして、
 
「松井文書」へ進むことにする。 
 
 ★「内乱と侵略への恐怖」 

 
 それでは昭和天皇は、おそらくはいかなる政治家よりも、なぜこれほどまでに安保体制の、〔揺らぎ〕に対して強烈な危機感を抱いていたのだろうか。実は、二〇〇七年になって公刊された、天皇の最後の側近であった元侍従・卜部亮吾が残した日記の短い記述に、問題のありかを理解する手掛かりが隠されているようである。それは、一九七一年四月十二日付の日記である。前日の一一日に統一地方選挙が行われ、東京では美濃部亮吉が、大阪では黒田了一がそれぞれ知事に当選し、さらに横浜市長選では飛鳥田一雄が選ばれ、革新勢力の躍進という結果に終った(前年四月に、京都では蜷川虎三知事が六選を果していた)。その翌日の日記でト部は、「統一地方選挙の結果につきお尋ねあり、調べて奉答す」と記し、この事態について「東京・京都・大阪の三府を革新に奪われしは政府ショックならん」と感想を述べているのであるが、それに続いて「政変があるかと御下問あり」と、天皇の反応を書き残しているのである(『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』第一巻)。

 明治学院大学教授の原武史は、作家の半藤一利、東大教授御厨貴との鼎談で、「二・二六事件に限らないのですけれども、昭和天皇には常に「内乱への恐怖」というものがあったと思うんですよね。戦後、象徴としての地位が安定したあともなお、革命が起きるかもしれないという恐怖を、ずっと持ち続けていたのではないか」と述べて、右(↑)のト部の記述を例として挙げているのである(半藤一利・御厨貴・原武史『ト部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』)。

 たしかに原も指摘するように、議会制民主主義の枠組みがそれとして定着している中で行われている選挙、しかも地方選挙の結果について、いかに革新勢力が躍進したとはいえ、それを「政変」と結びつけて危惧を表明するとは、
尋常の感覚ではないと言わざるを得ない。まさに「内乱への恐怖」「革命が起きるかもしれないという恐怖」というものが、若い時代の体験を背景に、昭和天皇の考え方を呪縛し続けていたのであろう。

 こうした「恐怖」は、戦後体制のもとにおいては、ソ連や中国という共産国家による直接侵略と国内共産主義者による間接侵略という新たな脅威にむけて収斂されたと言える。例えば、次節で触れるマッカーサーとの第十一回会見(一九五一年四月十五日)でマッカーサーが東京裁判をめぐり、「天皇裁判を主張しているソ連と中共」を批判したのを受けて昭和天皇は、「共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう」と、脅威のありかについて自らの認識を明確に述べていたのである。

 この会見から約二年を経て、先に見たようにマーフィ-米大使との会見で昭和天皇は、朝鮮戦争が休戦に向かうという緊張が緩和され始めた時期にあっても、日本が共産主義の「ターゲット」になっているという危機意識を訴えたのである。ここにも示されているように、天皇は常に変わることなく、内外の共産主義が天皇制の打倒をざして侵略してくるであろうという恐怖感にさいなまされていたのであろう。そして、こうした脅威を阻む最大の防波堤が、米軍のプレゼンスに他ならなかった。

 すでに第三章や本章で詳細に検討してきたように、この安保体制の枠組みを確保するために天皇は、新憲法の施行後もなりふり構わぬ「天皇外交」を展開した。天皇の認識からすれば、戦後政治における最大の「事態の重要さ」は共産主義の脅威であり、この脅威に対して「皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器」を守り天皇制を防衛することこそが最上位に位置づけられるべき使命であり、そこにおいて憲法は自らの「政治的行為」に伴うはずの政治責任を免れさせてくれる、〔ヴェール〕であった。天皇がしばしば、自らは戦前も戦後も変わることなく立憲君主であったと自己規定する内実は、「事態の重要さ」に立ち向かうべく〔超憲法的〕に自らがイニシアティブをとった場合を除いては、という意味に他ならないのである。

 以上の検討からも明らかなように、天皇の憲法認識を把握するためには、『独白録』が提示している二・二六事件と終戦の「聖断」という戦前・戦中の、〔二つの例外論〕の周辺を論じているだけでは本質に迫れないのであって、戦後の新憲法下における天皇の「政治的行為」を正面から分析することが不可欠の作業なのである。

 
 ●昭和天皇と「靖国問題」

 
 ★東京裁判に「謝意」

 
 第三章で触れたように、「松井文書」は、昭和天皇とマッカーサーとの最後の会見となった第十一回会見の内容を初めて明らかにした。改めて引用しておくならば、昭和天皇は離任するマッカーサーに対し、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。つまり、自らは免訴されたが、東条英機を始めA級戦犯七名が処刑された東京裁判に関して、天皇は明確に「謝意」を表したのである。ここにも、個人感情を排した昭和天皇の、〔リアリズム〕を見ることができるであろう。

 ***********

  続く。
 

 
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世界平和で 減税世界
マッカーサー A級戦犯 東条英機 で プログ検索中です。日本の歴史教科書を 少し 思い出します。
真実と事実。非国民とは なんだろうか?不敬罪?~
映画で 見る戦争。たくさんの戦争映画。
洋画 パールハーバー 奇襲攻撃。日本の官僚は わかっていたのか? 国民を苦しめた 集拾がつかない~玉砕戦法?~広島 長崎 の原爆。
私は 戦争を知らない子供達です。
政治研究会(名前検討中 戦争
【2013/01/02 13:49】 URL | 村石太ダー&コピーマン #c5kz0NVw [ 編集]

 昭和戦前期では、「コミンテルン」による議会制民主主義否定論(ブルジョア革命論)があり、なおかつ、1935年開催の第7回コミンテルン世界大会では「人民戦線戦術」の名のもと、各国に対し、官僚などの合法的立場の者も含む「革命(要するに内乱、騒乱)」が煽動されたことから、昭和天皇が、戦後の「革新勢力の台頭」=「共産主義革命」と認識し、警戒したことは別に不思議じゃない。あなたは「議会制民主主義の枠組みがそれとして定着している中~」と記しているが、現に日本共産党は現在にいたっても「暴力革命」の路線を放棄していない(いわゆる、「敵の出方論」の維持)しかも、あなたが記した革新勢力の台頭時期は日本共産党の台頭時期と重なることから、昭和天皇が、「共産革命」を警戒しても、なおさら不思議じゃない。
 ソ連による「間接侵略」は「コミンテルンの一員としてソ連」と「国家としてのソ連」とのソ連特有の二重性を考慮してみるべきあり、昭和天皇に限らず、昭和の政治家、官僚は、この二重性を考慮し、ソ連に対応していたと見るのが自然。つまり、昭和天皇が特別に「共産革命」に警戒していたわけではない。
 なお、「天皇制」という用語は学術上、全く無意味な用語であることも指摘されている。具体的には伊藤隆氏による「昭和政治史研究への一視角(昭和期の政治に収録)」を読むことをお勧めする。
【2011/01/10 21:21】 URL | A #- [ 編集]


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