カウンター 読書日記 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』 (2)
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●『昭和天皇・マッカーサー会見』 (2)
 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』 (2) 
 
 昨日に続いて、熟考に値する一節の紹介です。 

 
 ★戦後の「国体」としての安保体制  (128p~) 

 
 ・・・東京裁判に「謝意」を表しつつその地位を守りぬいた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。結果として天皇の行った「外交」は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講和問題でも、政府外務省の政策決定を見事に、〔先取り〕するものであった。そこには、共産主義の脅威から天皇制を守り切るためには無条件的に米軍に依存する外はなく、それを確実にするためには吉田であれマッカーサーであれ〔バイパス〕し、侵略に対してはあらゆる手段の行使を米軍に求めるという、〔天皇リアリズム〕とも言うべき冷徹さが見られる。要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである。

 しかし、こうした〔リアリズム〕は戦後の日本外交に、〔安保の呪縛〕を押し付けた。仮に天皇が、中国における共産政権の成立を日本の独立にむけて米国に対して切ることのできる絶好の、〔カード〕とみなした、白洲次郎の如きしたたかなパワー・ポリティクスのセンスを持ち合わせていたならば、日本外交は選択肢の幅を広げつつ、より柔軟なダイナミズムを発揮し得たかも知れないのである。

 この問題に関わって驚かされることは・「松井文書」で明らかとなったマッカーサーとリッジウェイとの全会見記録を通して、日本の戦争がアジアの国々や民衆に及ぼしたであろう多大の犠牲や惨禍について天皇からただの一言も発せられていない、という事実である。民衆レベルヘの言及は、日本の国民の食糧問題やシベリア拘留者の問題など、〔被害者〕としての日本人(沖縄は含まれていない)についてであり、それ以外には、共産主義の侵略や抑圧にさらされている地域の民衆についてのみである。マッカーサーとの第一回会見で天皇が「全責任発言」をしていたとするならば、それは誰に対するいかなる罪について「責任」を負う決意を表明していたのであろうか。

 たしかに天皇は、例えば教科書問題が深刻化した八二年当時、入江侍従長に対し、「朝鮮に対しても本当にわるいことをしたのだから」(『入江相政日記』第十一巻)と個人的には述懐していたが、戦争責任問題から講和問題にいたる時期の「トップ会談」における、〔アジアの不在〕は、これまた戦後日本外交を、〔象徴〕するものと言えるであろう。

 もっとも、以上に見たような天皇の「外交」については、その。〔先見の明〕を評価する見方も出てくるであろう。とはいえ、政治的責任を負えないもの、公に説明責任を果たし得ないものが政治過程に介入し影響力を発揮するということは、日本の政治と民主主義の根幹を突き崩すことを意味している。仮に、この状況を評価せざるを得ないとすれば、日本の政治の持つ病根は限りなく深く、日本の民主主義は救いがたく末成熟である、と言わざるを得ないであろう。・・・

 ************ 

 
 ★米軍撤退は「不可なり」   (214p~) 

 
 以上のように、
共産側の「平和攻勢」を深刻に危惧していた昭和天皇にとって、五四年末に日本民主党の総裁・鳩山一郎が政権の座についたことは、新たな危機の到来と感じられたことであろう。なぜなら、同党は憲法改正や「自衛隊の整備」を唱える一方で、「逐次駐留軍の撤退を可能ならしめること」をめざし、さらにソ連や中国を念頭においた「積極的自主外交」を推進することを中心課題として掲げていたからである。こうして、翌五五年六月から国交回復をめざした日ソ交渉が開始される一方で、八月には重光葵外相が訪米してダレス国務長官との会談に臨むこととなった。 

 この会談に向けて重光は、安保改定を企図した「日米相互防衛条約(試案)」を準備したが、その第五条では、「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始するものとする」「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」と明記されていたのである。まさに対米交渉に向けた重光の眼目は、
米軍の全面撤退にあったのである(豊下著『集団的自衛権とは何か』)。

 ところで
重光は、訪米する三日前の八月二〇日に昭和天皇に「内奏」したが、彼の日記には、「渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」と記されているのである(『続 重光葵手記』)。その後訪米を果たした重光はダレスとの会談で、集団的自衛権をめぐって激しい議論を展開したが、結局、米軍〔撤退論〕を提起することはなかった。その背景に、右(↑)の天皇の発言が影響を及ぼしていたか否かは不明である。 
 
 そもそも、訪米直前の多忙を極めている時に、なぜ重光は那須の御用邸まで「内奏」に赴いたのであろうか。かつて
芦田が「内奏」に憲法上の疑義を感じていたにもかかわらず、繰り返しの要請を受けて結局昭和天皇のもとに行かざるを得なかったと同様の事態が重光にも生じたのであろうか。重光が「渡米の使命」について縷々説明したと記しているところを見れば、彼が米軍撤退構想をも持ち出し、それに対して昭和天皇が「不可なり」と「御下命」した可能性も否定できないであろう。

 いずれにせよ、昭和天皇はいかなる政治的責任において、「駐屯軍の撤退は不可なり」といった「高度に政治的判断」にたった発言を行ったのであろうか。この天皇発言が新憲法の規定に照らしていかに重大な意味をもっているかということは、仮に天皇が所轄の大臣に対し全く逆に、「米軍の撤退を推進せよ」とか「安保条約を改定せよ」とか、あるいは「共産中国と直ちに国交回復せよ」と言明した場合を想定するならば、きわめて明瞭であろう。とはいえ、天皇制の打倒をはかる内外の共産主義の脅威に危機感を募らせる昭和天皇の感覚からすれば、米軍の全面撤退の可能性を阻むということは、〔超憲法的〕な課題に他ならなかったはずなのである。

 
 昭和天皇がソ連や中国など共産主義の脅威にいかに深刻な危機感を抱いていたかということは、沖縄国際大学の吉次公介准教授がアメリカ国立公文書館で発掘した資料によっても確認することができる。吉次によれば、五八年一〇月に来日したニール・マケルロイ国防長官は同六日に昭和天皇と会見したという。そこで天皇は真っ先に、「強力なソ連の軍事力に鑑みて、北海道の脆弱性に懸念をもっている」と述べて意見を求めた。

 これに対しマケルロイは、「ソ連の支援を受けて共産中国は台湾海峡地域で武力を用い、また武力の脅しを行っている。それは、その地域での自由世界の撤退を目論むものだ。自由世界が国際共産主義による武力行使や武力による脅しに強い姿勢で臨むことがきわめて重要だ。・・・この意味で我々は、沿岸島嶼を天皇が北海道を見るような眼で見ている」「アメリカ政府は、この地域〔アジア太平洋〕の平和と安定のために日米協力がとくに重要だと考えている」と答えた。天皇は直ちに、「日米協力が極めて重要だということに同意」し、「軍民両方の領域におけるアメリカの日本に対する心からの援助に深い感謝」を示したという(吉次公介「昭和天皇と冷戦」『世界』二〇〇六年八月号)。

 昭和天皇が「深い感謝】を表明した背景には、五七年一〇月のソ連による人工衛星スプートニクー号の打ち上げ成功が米ソの軍事バランスに及ぼした「スプートニク・ショック」や、五七年には約十二万一千人であった在日米軍が五八年には約半数の六万八千人にまで削減されたという在日米軍をめぐる情勢変化もあった。いずれにせよ、強力なソ連軍が脆弱な北海道に侵攻するのではないかという昭和天皇の危機感は、八○年代の「ソ連侵攻論」を、〔先取り〕するかのようである。

 吉次が発掘した別の資料によれば、キューバ危機が終息を迎えて二日後の六二年一〇月三〇日、昭和天皇は園遊会の場でスマート在日米軍司令官に直接語りかけ、「アメリカの力と、アメリカがその力を平和に使った事実に対して個人的に大いに賞賛し、尊敬している」と述べ、さらに「世界平和のためにアメリカが力を使い続けることへの希望を表明した」という。

 この天皇の発言についてライシャワー米大使は、「キューバでの基本的問題に対する優れた理解を示している。また、アメリカの確固たる対ソ政策を責任ある日本人が強く支持している証拠である。しかし、この出来事の真の重要性は、・・・天皇やその側近が在日米軍に対する評価と感謝を表明するのにこの時期がふさわしい、と判断したことだ。プレスから常に批判され、その死活的役割が政府高官から公的にはほとんど認められない米軍が、このような並外れた評価をうけたことは喜ばしい」と絶賛した。つまり、ライシャワーにあっては、昭和天皇は安保体制の、〔最大の守護者〕と評価されたのである。

 以上のように、一九五一年に安保条約が調印されて以降も昭和天皇は、安保体制や日本の防衛体制の枠組みがいささかなりとも揺らぐことに強い危機感を抱き、然るべきタイミングに然るべき場を使って、チェックを入れていた、と言って間違いはないであろう。従って、第四次防衛計画をめぐって国会の内外で激しい議論が戦わされていた一九七三年五月に、「内奏」した増原恵吉防衛庁長官に対し昭和天皇が、「近隣諸国に比べ自衛隊がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」「防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず、いいところを取入れてしっかりやってほしい」と発言し、「政治的行為」ではないかと大問題になったような例は、いわば、〔氷山の一角〕と言うべきであろう。・・・ 

   続く。  

   


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