カウンター 読書日記 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』(9)
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●『アメリカン・ドリームという悪夢』(9)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 
 
  ************** 

 
 ◆白い奴隷、白いインディアン、黒い奴隷 (1)
  以下、全文引用です。
 
 
 白い奴隷は「白人年期奉公人」と呼ぶのが普通だが、奇をてらったわけではない。菊池謙一著『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』(末来社、一九五四年、11p)にも「白人年期奴隷」と書いてある。

 ベンジャミン・フランクリンの父親は、英国で年期奉公をして染物の業を身につけ、ボストンに移住して来た(一六八三年)が、それでは家族を養えず、蝋燭や石鹸を製造販売して八人の息子と二人の娘を育てた。男児として末っ子のベンジャミンだけは八歳の時にラテン学校に入れられたが、七人の兄たちはみなそれぞれに違った職業を憶えるために年期奉公に出された。ベンジャミン・フランクリンの『自伝』を読むアメリカ人は、社会の下層から出発して、独立独行、自らの勤勉努力と才能によって、社会的成功の頂点に達した一人の人間、アメリカン・ドリーム実現の見本のような男と、それを可能にした自由平等のアメリカ社会を称え、それと同時に、アメリカ建国の頃の「年期奉公」の社会的な役割についてのおぼろげな概念を頭の中に育てることになる。

 しかし、ニューイングランドから南の英国植民地に視点を移すと、白人の年期奉公制度は悪魔的な陰惨な姿を現す。前出の菊地氏の好著には、その学術的な記述がある。

 アメリカ大陸の英国植民地の特徴は、インディアンさえ排除することができれば、自由な土地が、事実上、無限に広く存在することだった。だから、自由な身分の入植者は、自営農民として、家族的な労働力に依存して適当な広さの農場を経営することができた。しかしタバコ栽培が企業として大きな収益を上げる見通しがつくと、広大な農場(プランテーション)を開き、大規模にタバコを栽培しようとする大地主の企業家現われ、彼らは、必然的に、大量・低経費の労働力を求めるようになったが、周辺に自由な土地がいくらでも存在する状況では、逃亡が許されない束縛された奴隷的労働力がどうしても必要だった。

 有力植民者と植民会社がほとんど初めから依存したのは、英本国でのいわゆる「土地の囲い込み」(エンクロージャー)によって生み出された農村過剰人口だった。この現象は、トマス・モアの『ユートピア』にもその一面が描かれている。

 繊維産業が興って、羊毛の価格が高騰すると、貪欲な大地主たちは何千エーカーもの土地を囲い込んで、小作農民たちを追い出し、牧草地にしてしまった。村や町まで破壊された。零落した人々が都市にも農村にも満ちあふれた。王政政府は、一五四七年の浮浪者取締法やその後の立法によって、その悲惨な農村過剰人口を、大量に捕縛し、強制労働させ、国外に追放するなどして片付けようとした。

 北米のプランテーション所有者(プランター)たちは、その貧窮民たちを年期契約奉公人の制度の下に、輸入して奴隷的労働力を獲得したのである。植民会社の代理人や人身売買商人らは、都市・農村の零落民を年期契約で集めて植民地に送り、五年か七年の年期奉公人(Indentured servants)としてプランターに売った。

・・・ Servantsは、主人の許可なしには物を売ることも結婚することもできず、逃亡をくわだてたときは、笞うたれ、鎖でつながれ、烙印をおされ、デイルなどによれば火刑にも処された。つまり彼らは、年期の間は奴隷とひとしく、年期奴隷とも半奴隷ともいわれた。年期が終ると彼らは、農具、武器、種子と一年分の衣食などを解放給与(freedom due)してあたえられ、土地をえて、自営農民か開拓農民になることができた。だが彼らの小さな過失も年期延長の口実にされ、freedom dueも誠実にはあたえられず、独立できずに隷属的地位にとめおかれる例も少なくなかった。

 契約によらず、ただ渡航費をはらえない移民で、植民地について自分で身請人を見いだせない場合、船長によって任意のプランターに年期奴隷に売られる者をredemptionersと称したが、三十年戦争にふみにじられたドイツ農民らが、多くこの形で、オランダ商人によってアメリカに送られた。これは、自分をせりおとす形で、ふつうより条件が悪かった。

 また、略取や誘拐で植民地へ売られた年期奴隷も多く、一六八〇年ころ毎年イギリスで誘拐される者は一万以上あったといわれた。

 ・・・負債で役獄されたものや政治犯人も、十八世紀はじめから、アメリカに送られ、ジョージアは、それらの囚人の労働で開拓された。植民地時代を通じて、二五~三〇万のIndentured servantsが送られたが、囚人は約五万といわれた。(菊地、8~9p)

 植民地時代のヴァージニアやジョージアのプランテーションでの、こうした無残な白人奴隷労働のイメージに接する機会は、私たちには、また一般のアメリカ人にも、ほとんどない。また、この白人奴隷労働者とその末裔については、絶えて聞くことがない。しかし、こちらから求めれば、文献はたくさんある。例えば、デイヴィド・ゲイレンソンの『アメリカ植民地時代の白人奴隷)』(一九八二年)のような学術書から、ドン・ジョーダンの『白い積荷』(二〇〇六年)のような一般向きの歴史書もある。こうした書物から浮かび上がるアメリカ創設の図は、自由な開拓民として北米東岸に到着した人々が次第にデモクラティックで平等な社会を築いていったという綺麗事のお話とはまるで違う。普通の創設神話から消されてしまっている人々がいやでも目に入ってくるからである。

 アメリカの大農園貴族階級が牛耳るヴァージニア州では、家族系図の先祖に囚人が混ざっているなどもってのほかである。「独立宣言」(一七七六年)を書いた十年後に、トマス・ジェファソンは次のように書いている。
 
 ・・・アメリカに送られた罪人たちはアメリカの植民者の一つの階級として数えるには数が充分でなかった。・・・送られて来た総数は二千人には届くまい。しかも、主に男性であり、疫病に倒れ、彼らは滅多に結婚せず、子孫を残さなかった。彼らとその子孫は現時点で四千人、これは全人口の千分の一ちょっとというところだ。(ジョーダン、17p)

 事実はこれと違う。独立宣言の頃は、毎年約千人の罪人が英国から、主に、メリーランドとヴァージニアに送られて来ていた。一七〇〇年代にメリーランド州だけで三万人以上の罪人が売買されたという記録もある。ジェファソンの時代について言えば、彼の言う千人に一人より百人に一人の方が正しいだろう。ジェファソンは結構達者な嘘つきだった。

 これまで繰り返して指摘したように、アメリカの英国植民地の最も目覚ましい二つの特徴は、植民地の人口の少なさと、インディアンを排除さえすれば、ほぼタダで人手できる無限の広さの土地が存在することであった。この基本的事実が、アメリカ人とアメリカ合衆国の性格のほぼすべてを決定した。ゲイレンソン『アメリカ植民地時代の白人奴隷』によれば、一六五〇年から一七八〇年の期間にアメリカの英国植民地に流入した白人移民の総数は約六〇万人、そのうち四〇万人が、白人罪人や白人年期奉公人という事実上の奴隷労働者たちであった。「ジェームズタウン、ヴァージニア植民地の始まり」の項で描いた初期の窮状を抜け出し、タバコや綿花の大規模栽培に大きな将来が開けた時、植民地指導層が最も緊急に求めたのは大農園経営のための奴隷的労働力だった。

 白人罪人や白人年期奉公人がこの需要に応じたのだが、植民地で受けた彼らの取り扱いは過酷を極めた。過剰労働で疲弊した彼らは、その生活環境の劣悪さも重なって、各種の疾病の犠牲となり、高い死亡率を示した。彼らが大農園経営者の非人間的な支配から、インディアン社会に逃れようとしたことも充分想像がつく。もともと英国の下層白人たちの生活の語彙には「幸福」の二文字などなかったのだ。

 インディアンの世界にはそれがあった。膨大な数の「白いインディアン」の発生の大きな理由の一つが、アメリカ植民地の上層階級の白人(プランターたち)も、故国におけると同様に、下層白人を惨たらしく取り扱うことに躊躇しなかったことにあったことはほぼ疑う余地がない。

 「白いインディアン」がフランクリンやクレヴクールの文学的創作物でなかったことは、例えば、ジェームズ・アクステルの『内なる征服』(一九八五年)をひもとけばわかる。三〇頁を割いたその最終章「白いインディアン」には、この歴史的事実についての詳細な論議が与えられている。最も早い公的記録の一つは、一七四七年、ニューヨーク在住の英国政府官僚・コウルデンの著作にある。

 彼らの多くは、友人や親族の、どんな議論や、懇願や、涙によっても、彼らの新しいインディアンの友達や知り合いから離れて戻って来るように説得されることがなかった。彼らのうちの幾らかは、身内の愛撫にほだされて帰っては来たものの、しばらくすると我々の生活様式に飽きがきて、またぞろインディアンの方へ逃げ戻って、そのままインディアンのところで生涯を終えた。他方、インディアンの子供たちが英国人の間で注意深く教育を受け、衣服を付け、マナーを教えられても、私が思うに、そうした子供のただ一人として、彼ら自身の人々のところに行く自由が与えられ、成人する時が来た時、英国人のところに留まった例はただの一つもない。彼らは、彼らの国に帰り、文明生活のことを何も知らない者たちと同じように、インディアンの生活様式が好きになってしまうのだ。
(アクステル、303p) 

 
 ヨーロッパの伝統にくらべて、インディアン社会の刑罰思想には興味をそそられる。これは未開状態と文明開化の問題ではない。人間観の問題である。北米のインディアン社会(極北のエスキモーを含む)の多くに共通して見られたことだ、が、まず、彼らの社会には「牢獄」がない。殺人に対する罰は犯人が属したコミュニティーからの追放、村八分であり、殺された昔の一族からの復讐が許されることである.インディアン社会が執行する唯一の死刑は女性に対する強姦を犯した男性に対してだった。 

 

    続く。

 

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