カウンター 読書日記 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (8)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (8)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 
 
  ************** 

 
 ◆クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』
  続きです。
 
 
 ターナーは次のように書いている。

 アメリカのデモクラシーは理論家のドリームから生み出されたのではなかった。それは、サラ・コンスタント号でヴァージニアにもたらされたのでも、メイフラフー号でプリマスにもたらされたのでもなかった。それはアメリカの森から出て来て、それが新しいフロンティアにタッチするたびごとに、新しい強さを獲得した。憲法ではなく、それにふさわしい人々に開放された自由な土地と天然資源の豊穣さが、アメリカにおける民主的なタイプの社会を、その帝国領土を占めたこの三世紀の間、形成してきたのだ。

 これは、ターナーの「フロンティア学説」の主張として明快そのものだが、これを、クレヴクールの主張と対比すると重大な問題点が浮上する。ターナーの「フロンティア」はクレヴクールの第二、第三の地域と開拓民を含むと考えるのが自然だが、問題は、第三のフロンティア最前線の人々である。これらの人々に対するクレヴクールの人間集団としての評価は低い。上の引用の末尾には「どんな社会にも除け者にされた人というものはあるものである。けれども、この社会の不純不遇な分子こそ我々にとって前駆者となり開拓者となってくれる人々である」とある。これらフロンティア最前線の人々がアメリカ人の国民的性格の形成に大きく貢献したのか、しなかったのか?私の念頭から振り切ることのできない問題がここにある。ハリウッドの西部劇映画では、こうした荒んだ心の人間に多数出会うではないか。

 私にとって、クレヴクールの第三の手紙「アメリカ人とは何か」よりも遥かに心惹かれるのは最後の第十二の手紙「フロンティアマンの懊悩」だ。新天地アメリカでの小農園経営者としてのクレヴクールの牧歌的な幸福は、一七七六年の独立の内戦の発生によって突然崩れた。それまでの平穏な日々の継続を強く願ったクレヴクールは必然的に親英反独立派とみなされ、反英独立を叫ぶ周囲の農園経営者たちからの激しい敵意を浴びて追い詰められてしまった。一七七八年、クレヴクールは家族の世話を友人に頼み、いったんフランスに帰国するつもりで、ニューヨーク市に入ったが、理不尽にも英国当局から反英の嫌疑をかけられ投獄された。翌年にはノイローゼの状態にまで落ち込んだようだ。この経験は第十二の手紙「フロンティアマンの懊悩」に深く影を落としているが、クレヴクールの分身であるその農民は、反英にも反米にも徹しきれず、両者の板挟みになって懊悩したこのフロンティアの一農民としての、追い詰められた最後の決断として、辺境のインディアンの社会に進んで入り、「白人インディアン」となるのである。苦渋の決意をするその部分を『クレヴクールーアメリカ農夫の手紙』(研究社)から引用する。長いが必読に値する。


 ・・・私は注意深くこの計画を思いめぐらしました。将来の見通しや成り行きに思いをはせながら、塩も調味料も麻布も、その他の衣類もほとんど持たずにやってゆかなければならない新しい暮らしぶりのことを私は考えました、狩りの技術もおぼえなければならないし、新しい慣習も身につけなければならず、新しい言葉も話さなければなりません。子供たちの教育に伴う危険も耐えなければなりません。このような変化はおそらく、遠くから見ているから怖いような気がするのであって、経験して慣れてしまえばさほどでもないのかもしれません。上手に焼き上がった菓子かパウンド・ケーキか、うまく焼けたロースト・ビーフか鹿肉の燻製か、キャベツかカボチャか、どちらを食べたからといって、それが私たちにとってなんだというのでしょう。端正な手織地を着るか上等のビーバーの毛皮を着るか、羽毛のベッドで眠るか熊の毛皮の上でか。どちらにしようと、気にするほどのことではないのです。言葉の難しさ、インディアンたちの酒乱に対する恐怖、そして最後に私の小さな子供たちがあの不思議な魔力にかけられはしまいか、感じ易い年頃だけにいっそう危険だ、といった不安があれこれ思い出されて私ははっとします。
 小さい時にインディアンのあいだに里子に出された子供たちがヨーロッパの慣習をもう一度取り戻すことができなくなるのは、どのような影響力によるものでしょうか。この前の戦争の時、私は心配顔の大勢の親たちに会いましたが、その人たちはふたたび平和が戻ったので、子供たちが連れてゆかれて監禁されているはずのインディアン部落に行ってみると、言葉にも言えないほど悲しいことに、すっかりインディアンになついて親を忘れてしまった子供たちが大勢いたし、また、比較的に年長だったため父や母を想い起こすことのできた子供たちも、父母たちといっしょに帰ることは頑として拒否し、実父母たちが惜しみなく注ぐ愛情の吐露におびえて、保護を得るために養父母たちのもとへ駆け寄ったのです!
 信じ難いと思われるかもしれませんが、これは私が信頼できる人たちから千にものぼる実例として聞かされた話しです。私が行こうと考えている○○部落には、十五年ほど前に一人のイングランド人と一人のスウエーデン人が住んでいまして、その人たちの物語は、お話しする時間があれば感動を呼ぶものと思われます。この二人は連れて行かれた時すでに成人していました。二人は幸いにも戦争捕虜の大罰を逃れ養子として命を助けてくれたインディアンの女性と結婚せざるを得なくなりました。習慣の力によって二人はついに完全なまでにこの野蛮な生活の流れになじみました。私がそこにいるあいだにも、この二人には友人たちから、見受けの身代金として、かなりの額のお金が送られてきました。年老いた主のインディアンたちは選択を二人に任せ、思案の一つもしないまま、君たちはずっと以前から自分達と同じように自由の身だったと、二人に告げました。二人は留まることを選んだのですが、私に話してくれたその理由は、あなたをびっくりさせることと思います。
つまり、もっとも完璧な自由、暮らしぶりの楽なこと、私たちとかくありがちな不安や気の滅入る孤独がないこと、耕作した土地が特に上質であったこと、というのも狩猟に頼りきりにはしなかったわけですが―これらすべての、そのほか私の忘れてしまった数多くの動機が、私たちのこれほどまでにも恐れている生活をこの二人に選ばせたのです。
 ですから、インディアンの生活は私たちが一般に考えているような悪いものであるはずがありません。インディアンの社会的な絆には、特別に魅力的な、私たちの自慢に思っているものより遥かにすぐれたものがあるに違いありません。
 というのも、何千人ものヨーロッパ人はインディアンですし、これら原住民の中には好んでヨーロッパ人になったというのは一人の例もないのですから!
 私たちが暮らしている虚構の社会より、もっと私たちの生来の気質に合うものがあるに違いありません。そうでもなければ、どうして子供たちや、まして大人たちでさえも、短期間のうちにどうしようもないほどインディアンの生活に捉えられてしまうのでしょうか。
 インディアンの風習にはきわめて魅惑的なものが、造物主の手そのもののしるしが消し難くついたものがあるに違いありません。その証拠に、インディアンの青年を一人つかまえて、可能なかぎりの最良の教育をしてやり、愛情を、贈り物を、それで駄目なら富を、与えてみても、それでもこのインディアン青年は、とうの昔に忘れたはずだとあなたの考える故郷の森を、ひそかに思いこがれるでしょう。そして、捉えうる最初のチャンスを逃さずに、あなたがこれまで与えてきたいっさいの物をいさぎよく棄てて、先祖のむしろの上に寝たさに、言いようのない喜びをもって帰ってゆくでしょう。
 ○○氏は数年前、自宅で死んだ善良な老インディアンから、その孫にあたる九歳の少年を迎えました。氏は、立派な人で尊敬にふさわしい彼の祖父の想い出を考慮して、親切にもその少年を自分の子供たちといっしょに教育し、同じように世話をし、優しくしてやりました。氏は少年を立派な仕事につかせるつもりでおりましたが、春の季節になって家族そろって森にカエデ糖をとりに出かけた時、少年は突然、姿を消して、それから一七ヵ月たって初めて、この篤志家は少年がボールド・イーグルの部落に辿り着いて、今もそこに住んでいることを聞き及んだのです。
 私たちがインディアンのことを、身体器官が劣っているの、バンに困っているの、そのほかなんと言ってみたところで、インディアンはヨーロッパ人と同じように頑丈で立派な体格を持っております。寺院もなく、牧師もなく、王様もなく、法律もなくとも、インディアンは多くの点で私たちよりすぐれているのです。そう申し上げる証拠に、インディアンは生きてゆくうえでなんの気苦労も持たず、眠りを妨げる心配事もなく、あるがままに人生を生き、いかなる困窮にも無類の忍耐を示し、死に際しても自分たちがこれまで行なってきたことや、あの世で経験すると思われていることに対してもなんらの不安も抱きません。どのような哲学思想ならば、これほど多くの幸福への必要条件を私たちに与えてくれるものでしょうか。
 インディアンが私たちより遥かに密接に造物主に結びついていることは、いかにも確かなことです。インディアンは造物主の直系の子供たちです。森の住人はその汚れのない子孫です。平野の住人はその本来の掟から、そもそもの意図から、遥かに遥かに隔たった堕落せる種族です。だから決意を固めたのです。(229~232p)・・・

 多くの読者、特にアメリカ人のほとんどは、この手放しの、そして白人の誇りを逆なでする、インディアン礼賛を、
★モンテーニュ以来の「高貴なる未開人」というロマンティックな幻想の近代的な焼き直しにすぎないと受け取りたいだろうが、そうではない。新天地アメリカに流入した下層白人たちが、数千人のオーダーでインディアン社会に吸収されて、「白いインディアン」となる一方、インディアンの白人文明への同化は、少なくとも、初期には、ほぼ皆無であったというのは、まぎれもない歴史的事実なのである。前項で引用したフランクリンの発言もその一部である。

 クレヴクールの『手紙』がアメリカ論に引用される場合にその重心は「第三の手紙」に偏在して、「第十二の手紙」の白いインディアンの問題が本格的に論じられた場合を私は知らない。類似の事情がトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の引用や論議にも見られる。その第一巻の第二部第十章は「合衆国の国土に住む三つの人種の現状と予想されるその将来に関する若千の考察」と題する長い一章で、インディアン、黒人、白人の関係とその将来についての、トクヴィルの九ヶ月という滞在期間の短さを思えば、驚くべき洞察の数々を読むことができる。インディアン論はその最初の部分を占め、インディアンに対するスペインとアメリカの態度の際立った違いを指摘することで終わっている。これについては次の第四章で詳しく取り上げるが、クレヴクールの『手紙』の場合と同じく、北米原住民問題の黙殺の傾向を強く示すアメリカ論一般は、トクヴィルのインディアン論についても、ほとんど言及しようとしない。

 ハンナ・アレントの『革命について』(一九六三年)では、アメリカ革命は輝ける真の革命であり、フランス革命は失敗した革命であることが主張されているのだが、その第一章に、クレヴクールの名が出てくる。

 ・・・新大陸は貧民の避難所であり、「保護所」であり、集会場となっていた。そこでは新しい人類が生まれており、彼らは「温和な統治の絹の絆で結ばれ」、「死よりも悪い絶対的貧困」が払拭された「気持のよい均質性」の条件のもとで生活していた。そこで、このようにのべたクレーヴクールはアメリカ革命に激しく反対した。彼はそれを「ふつうの地位にある人びと」にたいする「貴人たち」の一種の陰謀であると考えた。(志水訳32p)

 ここに、ハンナ・アレントの筆を通して述べられているクレヴクールのアメリカ革命観も極めて興味深い。クレヴクールは、彼の言う第一のグループ、東部沿岸地帯についてはあまり語っていないが、そこでは、すでに大商人、製造企業家、大農園主が出現して、貴族的な上層階級を形成し始めていた。東北部では造船業などに多くの賃金労働者が雇用され、南西部では、ヴァージニア州のジェファソンやワシントンに代表される政治的野心を持った超大農園主の力が強大になっていた。これらの「貴人たち」が、その政治的野心を満たすために「ふつうの地位にある人びと」の「愛国心」を人工的にかき立てて、独立戦争を始めたとするクレヴクールの見解を、一小農園経営者の情緒的反応として庁付けてしまうのは適当であるまい。

 『一米国農夫からの手紙』に見られる、いわば、ジェファソンの「独立宣言」批判と、上述の「白いインディアン」の問題、この二つを軸として以下のアメリカ創設論を展開しよう。
 
 ◆クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』
  <了>。 
 
 ***************

 ★<<参考>> ⇒   Do not close your eyes ! 


スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/810-5b0a17ae



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。