カウンター 読書日記 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (7)
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●『アメリカン・ドリームという悪夢』 (7)
 ●『アメリカン・ドリームという悪夢』 
 
  ************** 

 
 ◆クレヴクールの『一米国農夫からの手紙』
  以下、全文引用です。
 
 
 クレヴクール(一七三五~一八一三)は、独立前後のアメリカを文学的筆致で描写し、洞察を加えた半小説的著書『一米国農夫からの手紙』をロンドンで出版して、ヨーロッパで大いに評判になったが、アメリカでは、初期アメリカの研究者以外はあまり取り上げない。初期のアメリカ論としては、トクヴィル(一八〇五~一八五九)の『アメリカのデモクラシー』があり、こちらは、近頃のアメリカ論一般にわたってしきりに引用されるが、クレヴクールとトクヴィルのアメリカ論をくらべて読むと、実に面白い。トクヴィル(当時二五歳)が親友のボモン(ニ八歳)とともに、アメリカとカナダの一部を視察調査したのは、一八三一年五月から一八三二年二月までの九ケ月余りにすぎないが、新生アメリカとその将来に関する洞察の質と量には驚くべきものがある。

 クレヴクールの生涯は波乱に満ちたもので、一七三五年フランスの貧乏貴族の子として生まれ、一九歳で英国に移り、次に北米大陸にやって来た。カナダ滞在を経て一七六四年にはニューヨークで英国臣民となり、一七六九年から数年間、黒人奴隷を雇って平穏な農地経営に従事した。これがクレヴクールのアメリカ生活の至福の期間であった。アメリカの独立戦争(一七七五~八三年)が始まると、戦争に反対したため、英国軍から投獄されたが、一七八〇年出獄して、家族を残したままフランスに戻った。クレヴクールを一躍国際的な有名人にした『一米国農夫からの手紙』(原文英語)は独立戦争終結前の一七八二年にロンドンで出版された。手紙小説の形をとったこの新大陸紹介の書は二年間に五ヶ国語に翻訳され、ベストセラーになった。

 トクヴィルにくらべてクレヴクールのアメリカ体験がより長く直接的で、個人として、深刻でもあったことは特筆に値しよう。

 『一米国農夫からの手紙』は十二の手紙からなっているが、アメリカ論に最もよく引用されるのは「アメリカ人とは何か」と題された第三の手紙である。当時の英国北米植民地十三州は南から、ジョージア、サウス・カロライナ、ノース・カロライナ、ヴァージニア、デラウェア、メリーランド、ニュージャージー、ペンシルヴァニア、ロード・アイランド、ニューヨーク、コネティカット、マサチューセッツ、ニューハンプシャーと北米東岸沿いに並び、その数百キロ西側には、美しいアパラチア山脈をふくむアリゲニー山系が南北に連なって、東岸地帯と大陸中央の大平原との境をなしていた。クレヴクールはこの植民地空間を三つの地帯に分け、植民地人を三つのグループに分けて話を進める。

 或る有識のイギリス人がこの大陸に初めて上陸したとすれば、彼の心にはさまざまな感情や思想が湧いて来て胸を躍らせるにちがいないが、その感情や思想を親しく知りたいものである。そのイギリス人はこの美しい国土の発見と開拓の時代にめぐり合わせたことを非常に嬉しく思うにちがいない。彼はこの長い沿岸を美しく飾っている一連の開拓地を目のあたりに見るとき、かならず国民としての一片の誇りを覚えるにちがいない。その時彼はこう独り言をいうのである。これが内争にかりたてられ、さまざまな惨苦と欠乏に苦しめられ、不安と焦燥のあげくこの地に避難して来た、同じイギリス人の営みなのだ、と。これらのイギリス人たちはその国民のもつ優れた天分をこの地にもたらしたが、その天分があったがために彼等は今日の自由を享受し、今日の富裕をなすにいたったのである。この地に来ると、このイギリス人は故国のもつ勤勉な性質が新しい形で発揮されているのを見、またヨーロッパで栄えているあらゆる技術と科学と発明がここでもまた芽生えているのを見出す。さらにここには美しい都市、富裕な村落、広い田園、それに見苦しくない家々や立派な道路や果樹園・牧場・橋梁の満ち満ちた広大な国土があるが、そこが百年前にはすべて荒蕪の森林におおわれた未墾の土地であったとは。・・・彼はいまや新しい大陸にやって来たのである。これまで見たこともない別の新しい社会が彼の眼の前に姿を現わしているのである。この社会は、ヨーロッパにおけるように一切のものを所有する大領主たちと、何ものをも所有しない一群の人民から成り立った社会ではない。ここには貴族も下僕も僧正も教会権力もないし、少数者に目に見える権力を与えている目に見えない権力というものも存在していない。また幾戦千の人間を使役する大製造家もいなければ贅沢の極致といったものもない。富者と貧者のへだたりはヨーロッバほどに大きくはない。少数の町を例外とすれば、我々はノヴァ・スコチアからウェスト・フロリダにいたるまですべて上地の耕作者である。我々は耕作農民からなる人民であり、広大な国土にわたって散在し、立派な道路と航行に適した河川によって互に交通し、おだやかな政治の絹のように柔らかな絆によって結合され、法律が公平なので万人がその力を畏れることなくそれを尊敬している。各人が自分自身のために働くので、我々はみな自由で拘束されない勤勉心にもえている。この地に上陸したイギリス人が田舎の地方へ旅行してみたとしても、そこには敵意のある城郭や尊大にかまえた邸宅は見当らないし、またそれにひきくらべて粘土造りの小屋や粗末な茅屋に家畜と人間が一緒になって暖をとり不潔な煤けた貧しい家に住んでいるのも見られない。我々の住居には、どこへいっても相応な資産の快い均一性があらわれており、丸木小屋のうちで最も粗末なものでも乾燥した心地よい住居となっている。・・・   (『原典アメリカ史』第一巻、岩波書店、332~4p)

 英領アメリカは多くの植民地にわかれているが、大きく一つの連合体をなし、海岸に沿って延長千五百マイル幅約二百マイルにわたって散在している。私はこの社会を少なくとも南北の中部に位する諸植民地に見られる状態について検討してみたい。アメリカの社会にはヨーロッパに見られるようなさまざまな包含いや等級はないかもしれないが、アメリカにはアメリカなりの独白の色彩かおる。たとえば、海辺に住む人々が森林地帯に住む人々とは著しく異なっているはずだと考えるのは自然であり、両者の中間地帯はまた別個のはっきりした一群をなしているわけである。・・・

海の近くに住む人々は肉よりも魚をよけいに食べ、またあの荒れ狂う海の天候に見舞われることも少なくない。このことが彼等をより大胆で進取的にし、かつは陸上の窮屈な職業を軽視する風を生ずる。彼等はさまざまな人と会ったり話したりするので、人間の交渉が広くなる。海は人々に交易を好む心、産物を一地から他に輸送する欲求を起させ、またさまざまな資源のあるところへ連れてゆき、そこに労働がはじまる。ところが中間開拓地に住む者は、数からいっても遥かに多いし、海岸の人とは非常に異なった人々とならずにはいない。土地の耕作という仕事は単純であるだけにそれに従事する中間開拓地の人々を純朴にするけれども、政治が寛大で教会の戒律もあまり厳しくはなく、その身分も独立した自由土地保有者であるため、この人たちのもっている気持というものは、ヨーロッパの同じ種類の人々に比べるとほとんど全く別異のものといわざるを得ない。同じ種類の人々とはいったものの、ヨーロッパにはこういう種類の人々はいないのである。・・・勤勉と立派な暮しと、利己心と、訴訟好きと、地方政治と、公民としての誇りと、宗教的自主性とが、これら中間開拓地の人々の特徴をなしている。海岸からさらに奥へ入ると、より新しい開拓地へやって来る。そこには中間地帯と同じ力強い相貌が一層粗野な形で現われている。宗教の影響力は余り強くないように見え、習俗もまだ大分粗雑である。

 いまや我々は大森林地の近く、すなわち、最近に人が住むようになった地域の近くに来たわけである。ここでは人々はさらに一層政治の力がとどかない遥かさきのところに置かれているように見え、そのことが彼等を或る程度自由に放任している。だが、政治があらゆる隅々まで行きわたるなどということがどうしてできよう。人々がここへ追いやられて来たのは、運が悪かったため、何か仕事を始める必要のため、広い土地を手に入れたいと考えたため、仕事がなかったため、いつも経済が苦しかったため、或は昔の借財があったためなどであるから、そういう人たちが集ってみたところで大して愉快な光景を呈するわけがない。不和な、すなわち団結や友情がないとき、或はこうした僻地に泥酔や怠惰がはびこっているときには、口論や不精や不幸な事件が後から後からと起らずにはいないものである。・・・だからアメリカの姿をあるがままに見、アメリカがその開発の端初において微力なまた野蛮な状態にあることを正しく認識しようと思う者は、この延々と連なる辺境を訪ねてみなければならない。辺境は最もあとから来た開拓民の住むところであり、そこに開拓の最初の労苦、すなわち、土地開墾の方法がさまざまな形態をとっているのを見ることができるだろう。また辺境では、もって生れた気質とあまり当てにならない勤労心のままに行動しているが、その勤労心は少しく道徳上の掟の力でもってしっかりしたものにしないと衰えてしまうことが往々ある。ここには、近くに模範となる力や羞恥心による抑制となるものが何もないので、多くの人々がアメリカ社会の最も忌わしい部分をあらわしているが、これらの人々は一種の決死隊ともいうべきもので、あとから来る立派な堅実な人たちの群より十年ないし十二年も先にやって来ているのである。それだけの年月がたつうちには、この種の人のうち、成功して人柄も正しくなるものもあるが、さもない者は悪行を犯し法に触れてその土地を追われ、他の同類と一緒になって、さらに奥地に向って進み、もっと勤勉な人たちに場所を譲ることになるだろう。勤勉な人たちは前の者が手をつけた仕事を完成し、丸太小屋を具合の良い住居に改良し、最初の激しい労働が終ったことを喜びながら、二、三年のうちにはこれまでの野蛮な地域を美しく肥え、より秩序だった土地に変えてしまうであろう。このようにして我々は進歩するのであり、このようにしてヨーロッパ人は大陸の奥地を目指して前進するのである。どんな社会の不純不遇な分子こそ我々にとって前駆者となり開拓者となってくれる人々である。・・・   (339~342p)

 ここに描かれている新しい「アメリカ人」は、海岸地方の住民、海岸と森林山脈との中間地帯の開拓住民である自由土地保有者、その先に住む奥地開拓民の三つのグループからなり、クレヴクールがアメリカ人の代表と考えたのは自由土地保有者たちだった。独立時のアメリカの人口の九割が第二グループの農民であり、当時最大の商業都市でさえ人口は二万にすぎなかった。上の『一米国農夫からの手紙』の第三の手紙「アメリカ人とは何か」の抜粋引用文から読めるように、クレヴクールのアメリカ人社会はあまりにも牧歌的に理想化されているが、第二グループの一員としての文学的体験報告として貴重である。このグループの人間たちが占める地理空間から「アメリカ人」という新しい性格の人間集団が生み出されるというクレヴクールの着想は、やがてフレデリック・ターナー(一八六一~一九三二)の「フロンティア学説」に受け継がれてゆく。

   続く。

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/809-677fe34c



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。