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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45) 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (45)-2            落合莞爾
  -底知れぬ来歴と事跡を持つ怪人・堀川辰吉郎と杉山茂丸 

 
 ★祖父は島津重豪、父は黒田長溥という貴公子 

 
 杉山茂丸は元治元年(一八六四)生まれで、辰吉郎より十六歳年長であった。戦国大名・竜造寺の男系を継ぐ父・杉山三郎平は馬回り組百三十石で、藩主・黒田長溥のお伽衆であった。茂丸の実父は黒田長溥と仄聞するが、七歳時にお目通りした長溥から茂丸の名を頂いた話にもその辺りが窺える。因みに長溥の実父は島津重豪で、茂丸は名君島津斉彬の大叔父にも当たるから、その門地の高さが皇統辰吉郎の傅役を仰せつかった所以であろう。

 自著と伝記の数が多いにも関わらず、茂丸の真相を伝えたものが少ないが、堀雅明『杉山茂丸伝』(平成十八年刊行)は一見に値する。来島恒喜の大隈重信襲撃など幾つかの玄洋社員の要人襲撃件の黒幕を茂丸と指摘したことで、茂丸の曾孫・杉山満丸から、筆者は「杉山文庫」の引用・使用を斯られたらしい。昔も今も政治の主たる手段が暗殺である真実を知らぬ庶民的常識と、殺人を絶対的悪と決め付ける敗戦思想に阿附する限り、さもありなんと思うが、日本近代史上稀有の人物の事蹟を、末裔の故を以て独占するとはいささか了見が狭くはないか。新知見に対して真剣に耳を傾け合理的に判断することこそ、真に遠祖を尊崇する道ではないかと、茂丸末裔の為に之を惜しむ。

 茂丸の若い頃の事績については、堀前掲の年譜に詳しい。数え十七歳になった明治十三年九月、行商姿で初めて上京した茂九は、赤坂の旧黒田藩邸を訪ねて長溥に拝謁した。一介の旧家臣の子に旧藩主が拝謁を賜るのは異例で、武家の旧習たる元服を機に、誰かが茂丸父子の対面を図ったものであろう。堀前掲の年譜に、その年茂丸は上野公園で野宿し、翌十四年は山岡鉄舟の家で暮らしたとあるが、放浪の一少年が天皇側近で侍従番長の山岡家に寄留するなど尋常でなく、黒田家から山岡に秘かに依頼したものであろう。この後、大阪に移った茂丸少年が、賞典禄一千石の功臣・後藤象二郎および西南戦争以来の豪商・藤田伝三郎と会うのも、決して偶然でなく、誰かが謀ったものであろう。華族令が布かれた三年後に、山岡は子爵、後藤は伯爵に叙せられ、藤田も後年男爵になった。当時すでに大物で、その後も事績を重ねていく彼らが、無冠の茂丸に会ったのは、放浪中とはいえその実体が貴公子だったからと視るしかない。 

 
 ★京都皇統と薩摩ワンワールドとの深い縁 

  
 明治十七年、二十一歳の茂丸は伊藤博文を暗殺する目的で再び上京する。旅費を出した肥後人・佐々友房は西南戦争で西郷軍に与し、山獄後に教育者に転じた人物で、警察官僚・佐々淳行と参院議員・紀平悌子の祖父に当たる。茂丸は上京の翌年、山岡鉄舟の紹介状を用いて伊藤に会うが、逆に説得されて暗殺を断念し、北海道へ逃亡した。帰京後に茂丸が頭山満と初めて会う手の込んだ筋書にも佐々は一役買っている。

 明治十六年七月に熊本県学務課長に就いた八重野範三郎が、佐々友房から茂丸の父・三郎平の名を聴き、訪ねた処、茂丸の消息を調べて欲しいと頼まれたので、上京の際に佐々を伴って茂丸を訪ね、次いで茂丸を誘って頭山満に会わせたというのである。頭山と会った茂丸は、以後長州高官の暗殺を罷める決意をし、意識的に長州人脈と手を組むことを頭山に約束した。その後の茂丸の行動が長州一辺倒なのは、頭山との約束を実行したから、と堀前掲は説く。間違いではないがあくまでも皮相で、その根底に京都皇統の戦略があった事は謂うまでもなく、長州人との表面的交際の裏に薩摩ワンワールドとの深い関係があった事は、本稿で立証した。

 頭山との約束の一つが福岡振興のための鉄道敷設である。その資金源として、海軍予備炭田として封鎖中の筑前炭鉱を取得するために、茂丸が元老院議官・安場保和を福岡県令に迎えようとしたというのも皮相であって、その奥を洞察せねばならぬ。天保六年(一八三五)、熊本藩二百五十石の上士に生まれた安場は、戊辰戦争で賞典金三百両を受けた功臣で、大蔵大丞に挙げられた時、上司の大蔵大輔・大隈重信を弾劾するほどの豪胆さがあった。岩倉使節団に参加して中途帰国の後、福島・愛知の県令を勤め、福島県令の時に既成の水運計画を変じて鉄道敷設を進めたことから、鉄道先駆者として知られていた。人材発掘に努め、胆沢県大参事の時、給仕の中から後藤新平(後に安場の女婿、大政治家、伯爵)と斎藤実(海軍大将、首相、子爵)を見出した事は良く知られている。明治十三年から元老院議官を勤めた安場に、佐々の紹介で会った茂丸が、いきなり福岡県令就任を乞うたら、安場は兄事する司法大臣・山田顕義の許可を条件にしたという。しかしながら、二十三歳の茂丸は黒田藩士の倅で玄洋社員と言う以外に、何の後ろ盾もない。既に県令を歴任した上、元老院議官を勤めてきた安場が、普通なら耳を傾けるような相手ではなかった。ここにも、筋書きの無理が露呈しているのである。 

 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(45)   <了>。 
 

 
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