カウンター 読書日記 ●疑史 第71回 
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●疑史 第71回 
 ●疑史 第71回         落合莞爾。
  
 ★清朝宝物の運命 (4)

 
 ごく最近のことに、「乾隆帝が奉天に隠した宝物は堀川辰吉郎が秘かに買い取った」と聞いた。情報源は「その筋」というしかないが、その売主を二代目醇親王、時期を大正三~四年頃とするのは、私(落合)の推測である。清朝末期の光緒帝は明治四十一年十一月十四日に不審な崩御を遂げるが、最高実力者西太后(一八三五~一九〇八)も翌日に他界し、次の皇帝に四歳の溥儀が即位して宣統帝と称し、皇帝の実父で光緒帝の弟・西太后の甥に当たる醇親王が監国摂政王に就いた。清朝の軍権を掌握した醇親王は、戊戌変法の際に西太后に与して兄光緒帝を裏切った袁世凱を四十二年正月に罷免、四十四年五月には軍機処を廃止して責任内閣削を実施し内閣を組織した。辛亥革命が始まると、醇親王は隆裕太后(光緒帝の皇后)の命令により全権を袁世凱に譲らされ、十一月十六日付で袁世凱内閣が成立する。

 イギリスを初め列強は、孫文革命政府のナショナリズムがもたらす排外主義を畏れて、北洋軍閥の総帥袁世凱の保守性に期待した。列強の輿望を感じ取った袁世凱は、自分と反目する醇親王が実権を握る清朝を見切り、清朝政府と南京臨時政府の間に立って妥協を成立させた。条件は、宣統帝の退位と自らの南京臨時政府大統領就任で、宣統帝と醇親王には革命後も安全を保障し引き続き紫禁城の居住を認める優待条件を示した。この案を醇親王は受け入れ、軍事力に不安を抱えた南京臨時政府も従わざるを得ず、宣統帝は明治四十五年(大正・民国元年)二月を以て退位し、以後も満族皇帝として紫禁城に住むこととなり、醇親王はその後見役となった。同年一月に南京で臨時大統領に就任した孫文は前述の条件に従い、三月その地位を袁世凱に譲る。

 清室の中心は明治四十一年末以来醇親王であった。従って四十二年に、訪日途上の英国元帥キッチナーに北京で宣統帝の名で桃花紅合子を賜ったのも、奉天宮殿で江豆紅太白尊を贈呈したのも、すべて醇親王の計らいである。義和団事変の後、ドイツ公使殺害の謝罪使としてドイツに渡った醇親王は、世界の大勢すなわちワンワールドの存在と意志を知って帰国し、開明思想に基づいて清朝の政体を立憲君主制に移行させたが、時既に遅かった。これより前、保守思想の権化西太后も漸く清朝倒壊の時機を覚り、腹心袁世凱を通じて日本皇室に今後の満洲経略を諮ったが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて対応を避け、京都皇統の堀川辰吉郎にすべてを委せた。清朝の中心醇親王は明治十六年生まれで辰吉郎より三歳年下に当たる。同世代の両人はワンワールドに対する認識を共有することからも見識相通じて、爾後の満洲経略を練った。四十二年に中島比多吉が紫禁城に入って溥儀の傳役となり、翌年には辰吉郎が紫禁城の小院に寓居を構えるが、すべて醇親王の計らいであることは言うまでもない。

 粛親王と蒙古族升允が率いた保皇宗社党は、清国領のうち中華本部(プロパー・チャイナ)を中華民国に残し、満蒙地域を分離させる方策を定めたが、彼等の満蒙独立運動を支援したのが陸軍参謀本部と関東都督府陸軍部(関東軍)であった。海洋勢力の本宗イギリスが清国旧領の分割を望まなかったためか、革命政府は孫文の民族主義には背馳する大漢族主義を国体に選んだので、新生中華民国は清国と変らぬ複合民族国家に停った。しかも国家支配層が満族旗人から漢族軍閥に交替したために軍事的にも国家的統一を欠く羽目になり、各省の治安は自立割拠した地方軍閥に依存せざるを得ず、北京政府を守れるのは清朝以来の北洋軍閥しかなかった。要するに中華民国の政体は、帝政でも共和政でもなく、割拠した軍閥による一種の封建政体であった。これらはやがて北京(華北)・広東(華南)・泰天(満洲)の三大地域覇権に収斂して二十世紀の三国時代を現出し、国共内戦を経て国家統一を実現するが、その原動力は何であったのか。一般には、中華民族主義が本来統一国家を悲願としていたと説かれるが、さんざん苦労して実現したものは、近代ナショナリズムの原則とは全く異なる複合民族国体である。識者が、中華思想究極の理想たる大一統(中華文明に因るワンワールドの実現)へのベクトルを指摘し、その序曲としての国内統一と説くのには、やや肯綮に当たる部分もある。私(落合)自身は、この問題はワンワールドの世界経略を抜きにしては考察不可能と思うが、目下それ以上の想像を慎んでいる。

 民国初年、醇親王から乾隆帝の泰天秘宝の存在を明かされた辰吉郎は、西本願寺法主・大谷光瑞師管理下の国体資金を用いて早速買い取った。目的は国事に用いるためで、代金はおそらく、革命後不如意になった醇親王と宣統帝の諸用に供されたのであろう。わが皇室にとって清室所蔵の古陶磁が単なる隣国の珍玩でなかったことは、辛亥革命の直後、泰天宮殿内磁器庫の清朝陶磁が放出されるとの風説を聞いた外務大・臣内田康哉が、「その筋において購入の意志あり。価格などを探れ」との訓電を奉天総領事・落合謙太郎に発した事で分るが、乾隆秘宝はそれよりも更に重大な意味を有していたのは論を挨たない。

 辰吉郎と光瑞師は、買い取った乾隆秘宝中の「奉天古陶磁」をネタに、二つの作戦を建てた。一つは換金して奉天の新興軍閥張作霖の軍資金とすることである。大正三年に奉天の軍権を掌握した張作霖は、丹波皇統奉公衆の出口清吉が明治三十年代から親日傾向に誘導してきた緑林の頭目で、之を養成して奉天に親日的覇権を維持するのが日満合作の基本的戦略であるが、兵器近代化の資金が日本からの援助であることを隠蔽するために、張作霖が自力で乾隆秘宝を強奪した形を装うこととした。そこで張作霖に、大正五年末から六年二月に掛けて七回に亘って宝物強奪(真相は移管)をゆっくり実行させることとし、その都度光瑞師は配下の上田恭輔を立ち会わせた。満鉄調査役兼総裁特別秘書の上田は、満鉄製図工の三井良太郎に命じて、「奉天古陶磁」を一点ずつ測量した上で克明に写生させた。中身は乾隆帝の思いが籠もる清初三代の御窯倣古品が多かったが、それらと唐三彩を除いた伝世の古陶磁四百五十点の図譜を三井は作成した。「奉天古陶磁」を紀州徳川家に嵌めこむ商談を基本任務とする上田が、取り敢えず商品カタログとして作った三井図譜は、実質的寄託先の張作霖を監視するための管理資料としても必要だったのであろう。もう一つは「奉天古陶磁」の報道である。その真の目的を、ワンワールドの文化戦略と推定する理由は、事後的に報道工作に多くの白樺派と共産主義の文化人が関わっているからで、彼らがワンワールドの末端であることは言うまでもない。

 洪憲皇帝に就こうとした袁世凱は五年六月に急死する。これを中矢(伸一)は辰吉郎の工作と謂うが、頗る肯繁に当たる。南方革命派の孫文とも奉天覇権の張作霖とも昵懇だった辰吉郎が、愛新覚羅氏に代って帝政を維持せんとした袁世凱を排除するのは当然である。張作霖による仮装強奪は、袁の死を待って実行されたが、倣造計画は既に袁の生前に始まっていた。そう見る理由は、上田が五年春に支那陶磁研究の必要を説く論文を『明治紀要』に発表しているからで、上田は仮装強奪の直後、満鉄試験場内に窯を作り、京都から名工・小森忍を招いて倣造を始めた。

 大正九年春、関東車参謀長・浜面又助少将が上田恭輔と組み、関東軍として満鉄窯の倣造工作に参加する計画を具申した処、陸軍中央から許可が下りた。浜面の目的は、粛親王に対する戦費補填の資金捻出にあると観るのは、満蒙独立運動の戦費を一人で工面した粛親王に対して関東軍が補償責任を負っていたからである。ところが、陸軍中央の一人上原勇作参謀総長は、九年五月に紀州藩士・貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に任じ、張作霖との懇親と上田がもたついている紀州家商談の促進を命じた。同時に個人付特務の吉薗周蔵を奉天に派遣し、貴志の支援と浜面・上田の倣造工作妨害を命じた。これはおそらく、上原のワンワールドでの同志である光瑞師から内密の依頼を受けたものであろう。関東軍を倣造工作に巻き込んだ上田は気付かなかったが、光瑞師は浜面の真意を「倣造品でなく本物の売却金にまで粛親王を与らしめること」と看破った。関東車の介入が計画全体に齟齬を来たす怖れを感じた光瑞師と上原参謀総長は、表向き諒承しながら裏面で妨害に出たのものと思われる。

 満鉄倣造品の出来栄えについて吉薗周蔵は、大正九年の『周蔵手記』では、「小森の手腕により本物そっくりに出来た」と感心しているが、後年には「上田・小森の作品はどうやら本物になれないらしい」との記述に変わる。これが真相で、倣造工作は結局成功しなかった。九年夏奉天に来た吉薗周蔵が大金を持っていると知った上田は、倣造窯を私営化する資金を作るため、三井図譜を五千円で周蔵に売却する。いずれ再製作すれば良いとの考えであったが、あに図らんやとうとうその機会に恵まれなかった。上田が後年しばしば周蔵を訪れて三井図譜の借覧を求め、買い戻し話まで切り出すのは、小森の倣造品を本物に近づけるためには三井図譜を必要としたからである。

 貴志彌次郎の苦心が実り、紀州家に秘宝が渡ったのは、貴志が中将に進級して下関要塞司令官に転じた大正十三年であった。奉天兵工廠増強のための資金需要が膨らんだ張作霖には結局七百五十万円が渡されたが、紀州家は二百五十万円しか負担できず、残りは光瑞師所管の国体資金で賄われた。当初醇親王に渡した代金と合わせると、国体資金の出椙総額は五百万円を遥かに超え、それを回収するため、光瑞師は「奉天古陶磁」の多くを秘かに売却した。現在世界各地の美術館が、世界の秘宝とか中華文明の精髄として展示する逸品の大多数は、この時に光端師が売却した品である。残った名品を、光瑞師は戦後の日中国交回復に役立てようとしたが、病没のため果たせなかった。

 粛親王らの満蒙独立運動に対し、醇親王が同調しなかった理由について、学校史学で教える処は、満族の漢族化か進み漢族社会を出る気概に欠けたとする。要するに民族的自覚の喪失と解して、満族を「亡国之民」視するのであるが、私見は、実情はその逆ではないかと疑う。つまり清朝二百七十年の間に、満族の一部が将来の漢族自立を見通して漢族社会に秘かに浸透し隠れた支配階級を形成したので、今さら漢族社会を脱却して新国家を建てるのを徒労の暴挙と考えたからではないか。「満漢通婚が許された明治三十五年以後の僅か十年ではあり得ない・・」との批判に対しては、そのずっと以前から満族の漢族進入が進んでいたとする仮説である。

 南北戦争後に出来た黒人国リベリアに帰ったアフリカ系米人も、先次大戦後に悲願が叶ったイスラエル共和国に遷ったユダヤ族も全体の少部分で、多数は現住社会に根差して新社会を望まない。被圧迫民にしてこれだから、清国の支配階級満族が漢族自立後について全然無策であったとは思えない。

  
 ●疑史 第71回  清朝宝物の運命   <了>。
 

スポンサーサイト


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバックURL
→http://2006530.blog69.fc2.com/tb.php/805-c990b27c



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。