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『ニューリーダー』・落合論文。
*ここへ、『ニューリーダー』誌2007年1月号から再開した、落合莞爾氏の
 <日本近代史の真相・陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記>の要点を
 記していく。

 *所謂「差別的用語」もでてくるが無視して書いていく。
  その時点の一般的な「使用語」を現今の「差別意識」から糾弾して  も無意味だと思うからである。 

 (1)2007年1月号 通巻231号

 1)近代史の核心にふれる第一級資料 

かつて本誌に連載した『陸軍特務吉薗周蔵の手記』は、元帥上原勇作付きの陸軍特務吉薗周蔵が自らの経験と見聞を記した手記を、落合が解読して、解説を加えたものである。・・合計117回に及ぶ長期連載であった。(平8年4月号~平17年12月号)・・・

 前稿10年の連載中は 、掲載の後になって新たな情報を得たり、解釈の不徹底に気づいたことが少なくない。それらの新情報と新解を以って補充したした本稿は、内容に深みが加わり、歴史の真相に一層近づいたと自負している。

 ついては、前稿の編年体を紀伝体に改め、以って読者のご理解の得やすきを願った。もうひとつ、吉薗周蔵手記の実在性、真作性の証明はもはや達成されたと思うので、本稿では原文の掲載を敢えてせず、必要のある場合に限りいんようすることとしたい。

 2)日向国西諸懸郡小林村字堤の吉薗家

  手記の記述者の説明

明治27(1984)年5月12日、上記地で、吉薗林次郎と妻キクノとの間に生まれた。周囲を山林に囲まれた小林盆地は島津本家の領地だったから、住民は薩摩人を自認している。豊な土地柄である。(日向米、野菜、葉タバコ、薩摩餅の賃加工、薩摩節=鰹節の一種の加工等で。)

 吉薗家のように「薗」の字のつく姓は、盆地を支配する大隅隼人の末裔である。宗旨は浄土真宗本願寺派である。

 3)周蔵の祖母ギンヅルの生涯

 周蔵の血筋はしかし、吉薗家代々のものではない。周蔵の父は吉薗家のギンヅルが生んだ公家・堤哲長との間の子で、吉薗林次朗と称した。そのギンヅルも都城藩士・四位具張が岩切氏の女に産ませた子で、吉薗家には養子として入ったのである。母のキクノは隼人系の木下家から嫁いできたが、その母系は未詳である。・・・
 隼人族は広義の縄文人で、公家の堤家も縄文血統と推定されるから、周蔵の血脈は縄文系で、それもかなり濃いものである。・・・

 祖母ギンヅルのことは今日まで全く世に知られてはいないが、大正・昭和期の陸軍を20年にもわたって支配した上原元帥の叔母に当たり、幼少から育てた上原を通じて日本近代史を裏から動かしていた人物なので、ここにその背景を詳述しておきたい。
 ギンヅルの生年は天保7年(1838年)と思われ、昭和6年(1931年)に他界した。父は都城藩士四位具張、母は後妻岩切氏(名不明)である。四位家の先妻有馬氏がタカを生んで他界した後を受けて足入れした岩切某女は、双子の女児を生んだため畜生腹(ママ)として四位家をおわれ、妹娘のツルを抱いて入水を遂げた。姉娘ギンは母の実家の岩切家で育てられ、妹の名を貰ってギンヅルと名乗ったという。(落合注:双子の名前がキンヅル・ギンヅルだったフシもある。)
 
 6歳になった弘化元年(1843)、ギンヅルは吉薗喜佐に嫁入りする叔母岩切某女の連れ子となり、喜佐夫妻の養女となった。その際、実家からは20町歩の田地山林のほか、耕作・管理人として木場伊作・トラ夫妻と13歳の息子周作が付けられた。木場家は当地でヤマンゴと呼ばれる山民である。

 翌年、弟の萬助(1844-1901)が生まれた。総領の姉とはいえ、生い立ちの事情もあって吉薗家に居づらかったギンヅルは、自ら志し、15歳にならぬ身で単身京に上り、実家岩切氏の縁を辿って京の薩摩屋敷に出仕した。
 筆も立ち、茶札・立華・作法など教養全般を身につけたぬきんでた才女のギンヅルは、やがて薩摩屋敷の女中頭に昇るが、そこで公家の堤哲長と知り合う。直ぐに哲長の種を孕んだギンヅルは薩摩藩邸を出て京の市中に一家を構えた。

 4)周蔵の祖父・堤哲長は孝明天皇の側近

 堤家は格式を「名家」という下級公家で、江戸中期に甘露寺家から分かれた。家禄は30石3人扶持で、甘露寺の200石、武者小路・勘解由小路の130石と比べても格段に小さく、典型的な貧乏公家であった。公家でも旧家でならば、定まった稼業があり副収入に繋がるが、堤家にはそれがなかった。

 正三位右兵衛督に昇った堤哲長(1827-1869)は孝明天皇の側近で、絵筆も立ち、泉湧寺に今も伝わる孝明天皇像を描いた才子であった。
 哲長が10代の時、ご霊前に住む町医者渡辺家の娘ウメノ(ウネノかもしれぬが、一応ウメノとしておく)が堤家に女中奉公にきた。
 ウメノは数歳年下の哲長とすぐに親密になり、家伝の薬事書を持ち出して哲長に筆写せしめ、医術を手解きした。そのお蔭で哲長は医薬を覚え、医師の副業によって、幕末の貧乏暮らしを凌いだのである。ウメノはやがて哲長の種と称する一子を生み、それを機に哲長の許を去った。

 ウメノの後の妾となったギンヅルに哲長が薬事と医術を教えた処、思いがけない才能があった。江戸時代にひそかに海外と通商(密貿易)していた岩切家では、国分(葉タバコ)栽培の裏作として外国の薬種を栽培し、それを用いた製剤もしていた。そのためか岩切で生まれ育ったギンヅルには薬事の素養があり、おまけに商才もなかなかのものであった。幕末の一時期、ギンヅルは哲長を誘って故郷・小林に赴き、長く逗留して二人で山村医療に携わった。
 
 哲長とギンヅルには二人の子供が生まれた。一人が慶應元年(1865)の生まれの林次郎で、もう一人についてはギンヅルが小林の堤家に入れようと画策したようだが、その間の経緯とその後の消息は不明である。
 哲長は、明治2年(1869)4月、39歳で他界してしまう。
 哲長の死後、様々な混乱も経験したギンヅルは明治5年、吉薗家に戻ってくる。

 (続)

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