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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(44)-1
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  孝明帝の孫にして荒木貞夫の草?「松下トヨノ」なる女性 


 ★紀州に残る奇妙な足跡 「皇室の裏の女官長」

 
 京都皇統の中心人物として、堀川辰吉郎の他にも孝明帝の血を引く貴種がいた。姓名を松下トヨノといい、和歌山市加太に住み、地元では謎の貴婦人として知られていた。私(落合)の先考・井口幸一郎は、知人の元和歌山県警部から聞いたとして、次のように語った。昭和二十二年に昭和天皇が全国巡幸の途中和歌山に来られた時、御召自動車の先導役を拝命した警部のサイドカーに、名乗りもせず勝手に乗り込んできた中年婦人がいた。警部と言えば泣く児も黙る時代だったが、件の婦人は警部の心情なぞ気にも掛けず、「私が指示します」と言いながら、あっちへこっちへと指図する。婦人の威容に押されて従わざるを得なかった警部は、「あんな悔しいことは忘れられん。あの女は一体、何者やったんか」と先考にぼやいた。

 婦人の名を松下豊子と聞いた先考は、以来風聞に注意を払っていたが、ある時南海電鉄の駅員から、「松下さんが和歌山市駅から乗られたとき、赤絨緞が無いからゆうて、駅長と助役がホームに白い砂を撒いてました」と聞き、豊子が皇族扱いを受ける身分であることを覚った。また、高松宮殿下が和歌山に来られた時、出迎えの知事夫人が大きな花束を抱いて国鉄東和歌山駅(現JR西日本和歌山駅)の表玄関で待っていた処、駅の柵の端っこにある木戸に豊子が現れて、「あなたー、こちらよー」と呼んだら、殿下はさっさとその方に向かわれたので、知事夫人は面目を失い暗然と立ち尽くしたことが噂となったとも言っていた。

 先考だけではなく、骨董趣味が嵩じて売買もしていた外祖父・小畑弘一郎も、「これは加太の松下はんから持ってきたが、明治天皇がお使いになったもんやで」と言って、塵紙を見せてくれたことがあった。戦前和歌山市屈指の料亭であった家に嫁いだ叔母も、姑の茶道仲間に、紀州家頼貞公爵の未亡人・岡本連一郎中将未亡人らとともに、松下豊子がいたと語った。

 平成元年、紀州徳川家伝来の紀州古陶磁の研究を引き受けた私(落合)が、当時全く不案内だった古陶磁の手解きを請うたのは、岸和田市在住の市井の研究家・新屋隆夫であった。大正末年に生まれた新星は、旧制中学時代に同級生の紹介で荒木貞夫大将に会い、以後「義理の孫」として扱われていたが、「昭和二十八年頃、荒木からユネスコの東洋部の役職に就けてやると言われて古美術の研究に勤しんでいたところ、紀州家当主の徳川頼貞参院議員が急死したためにその話が消えた」と語った。「戦犯の荒木大将がねえ?」と訝ると、「荒木のお爺ちゃんは、実は六日しか刑務所に入ってませんぜ。チャーチルに手紙を書いたら直ぐに出してくれた、とゆうてました」と説明されたので、私(落合)は初めて荒木貞夫に関心を抱いた。

 新屋は荒木から松下豊子を紹介され、「古美術品の面倒を見てあげて欲しい」と命じられたので、月に一度ならず和歌山市郊外の加太に赴き、豊子の所蔵する古美術品の換金などの処理に当たった。また、高松宮が和歌山に来られた時には、豊子の指示で同じ列車に乗り込み、少し離れた座席から不審者を警戒したこともあったという。豊子からは、戦時中に住友金属和歌山製鉄所の拡張に関与し、南海電鉄にも多大の後援をしたこと、さらに「終戦直後にマッ力―サー元帥と会い、諸般の世話をしたお礼に自動車を貰った」とも聞いたが、その身分については結局、「皇室の裏の女官長」という以外に知らないようであった。

 その後、紀州古陶磁の研究を進めるうちに知り合った岸和田市在住の陶匠・南宗明から、貝塚市の五味紡績という富豪に、以前古陶磁の美術館を建てる話が待ち込まれたと聞き、五味家への案内を請うたのは平成六年頃だった。五味夫人の話では、昭和三十年ころ、加太のK氏に連れられた松下豊子という婦人から、「紀州徳川家伝来の古陶磁を展覧する施設を作るから、協力せよ」と求められて、一年ほど奔走したが実現に至らなかった由であった。 

 
 ★複雑怪奇極まりない ″戸籍ロンダリング″ 

 
 以上の風聞から、松下豊子なる婦人は、男爵・荒木貞夫大将と親しく、何故か皇族同様の待遇を受け、紀州徳川家とも親しかったことが読み取れた。そこで戸籍資料を見ると、本名は松下トヨノで、明治二十四年十月二十五日出生、父松下熊吉・母まつゑの三女であった。東京市赤坂区丹後町四十六番地松下家の女戸主トヨノは、大正十二年九月十二日に、大阪市旭区友渕町六十番地一の戸主・黒板英次郎と婚姻届を出して黒板家に入籍し、松下家を廃家にした。その十年後の昭和八年十月六日、トヨノは英次郎と離婚するが、実家が廃家に付き新たに松下家を創立する。昭和十年四月五日に麹町区永田町二丁目二十九番五の戸主・高木七郎が養女・貞子を連れて松下家に入夫し、トヨノに代って戸主となった。ところが七郎は翌十一年五月二十三日を以てトヨノと協議離婚して松下家を去り、連れ子の養女・貞子も去ったので、トヨノは再び女戸主となった。実家・高木家が廃家だった七郎は、同地に新しく松下家を創立する。

 以上の経緯からすると、麹町区田町二丁目二十九番地五に、松下トヨノ家と松下七郎家が並立していたことになるが、昭和三十二年法務省令第二十七号により同戸籍を改製して編成された新戸籍では、永田町二丁目二十九番地五の松下家は、戸籍筆頭者が松下七郎、妻がトヨノとなっている。問題の本質は戸籍法ではないから、これ以上立ち入らないが、関係者がこれだけ複雑な戸籍ロンダリングを実行したのはトヨノの素性を隠すために外ならない。

 荒木貞夫から「義理の孫」として扱われ、荒木の命で松下トヨノに古美術品掛りとして仕えた新屋隆夫は、トヨノが黒板勝美の弟に嫁したと聞いた。黒板家は大村藩士で長崎県彼杵郡下波佐見村田ノ頭郷に住み、兄の勝美が東大史学科で日本古文書学を大成し、日本史研究の基礎を築いた事で知られるが、弟の伝作は東大工学部を出て月島機械製作所を創設しており、さらに妹・カヨは今里酒造へ嫁して戦後の財界四天王の一人今里広記(日本精工)を生んだ。正に世に顕れた一族であるが、その弟とされる黒板英次郎については、田ノ頭郷誌を見ても存在が確認されない。しかしトヨノと親交のあった加太のK氏が、「松下さんは黒板博士に嫁したことがあった」と語ったことを家人は記憶していて、正確ではないにしても、トヨノが黒板家との縁組を口にしていたことは確かである。因ってこれ以上の吟味は後回しにして、前進することにする。

    続く。 



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