カウンター 読書日記 ●宇都宮太郎日記(2) 引用・紹介。
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●宇都宮太郎日記(2) 引用・紹介。
                       宇都宮太郎日記 写真_1


 ★第二巻解題 <続> 
 
 ④ 上原勇作陸相の擁立

 
 次に政治とのかかわりについて述べていくことにする。

 前年以来、宇都宮は陸軍における長州閥支配の打破と積極的大陸政策の推進をめざし、上原を陸軍大臣に就任させようとして、老朽淘汰=新進抜擢を主張して接近してきた田中義一と連絡をとりながら行動してきた。しかし一九一一年八月の第二次西園寺公望内閣成立の時には、寺内の側近である石本新六が就任して、それは失敗に終わった。ま
た参謀総長にも、一九一一年一月二〇日に長州系の長谷川好道が就任した。ところが陸相に就任したばかりの石本が病気のために四月二日に亡くなったため、上原の陸相就任が実現することになった。三月二九日に田中より知らせが入り、翌日には上原と内相談していることなどが日記からわかる。宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった。

 四月五日、上原の親任式が行われた。その日の日記には、「根本的軍備問題を解決し〔中略〕長州陸軍を帝国陸軍と為し、老境に向ひたる陸軍を若返らせる」機会がようやく到来したと記されている。なお寺内は、この就任には一抹の不安を抱いていたようであり、維新以来先輩が経営してきた陸軍を健全に保持し発展させることが上原の任務であると、あらかじめ釘を刺すよう岡市之助次官に指示していた。

 しかし宇都宮の思い通りに物事が動き始めたわけではなかった。ちょうど同じ頃に参謀次長が、尊敬する先輩の福島安正から大島健一に変わることになった(四月二五日)。大島は宇都宮から見ると、山県と家令的関係を持つ以外は「腹も無く識見も無く、唯だ浅薄なる博識家」で、このような人事では「同志の立場は層一層の困難」を増すものと感じられた。つまり一勝一敗の人事異動だったのである。宇都宮は続けて、「勇気は寧ろ百倍せり。益々奮戦苦闘すべきのみ」(四月一一日)と記し、怒りをぶつけている。

 宇都宮は、上原のもとで陸軍を改革するための第一歩として、上原の周囲に腹心者を配置するよう画策した(八月五日日記)。その第一が、秘書官として上原と同県の井戸川辰三を付けることであり(七月二〇日任命)、第二に藩閥外の奈良武次大佐を高級副官として抜擢することであった(九月三〇日実現)。宇都宮は、一九一〇年の特命検閲の際に奈良の力量を認識したと記している(一一月一〇日日記)。

 
⑥ 二個師団増設問題 

 
 宇都宮が期待した上原陸相による陸軍の改革は、実現しなかった。上原の陸相時代はわずか八か月でしかなかった。上原は、ニ個師団増設問題をめぐって一二月二日に帷幄上奏を行って陸相を辞任し、政友会を与党とする第二次西園寺内閣もそのあおりを受けて総辞職してしまうからである。大正政変と呼ばれている事件である。一九一二年秋からの宇都宮日記は、これに関する記事が中心となる。本日記からは、上原が二個師団増設に固執した理由や、この問題をめぐる諸政治勢力の動きが、これまで以上に明確になる。

 宇都宮の二個師団問題に関する動きを見ておこう。一九一一年八月一七日、参謀本部の部長会議で六個師団増設を至急実施することが決定された。これは一九〇七年に定められた「帝国国防方針」と「国防に要する兵力量」に基づき提出されたものであった。上原陸相実現の日に記されている「根本的軍備問題の解決」とは増師を指している可能性が高い。一九一三年度予算で陸軍が要求したのは、増師計画の一部分、朝鮮に常駐する二個師団の増設であった。

 これについて記事が多くなるのは、★原敬内相が反対しているらしいという記事(八月二四日)以後のことである。九月七日の記事では、増師を必要とする理由を列挙している。日露両国軍の兵力差が甚だしいこと、現在はそういう状況にはないが、もし国交が破裂すれば危険な状態にあること、新師団が完成するまでには長い時間がかかること、二個師団ではまだ不足であることである。また宇都宮が増師にこだわったのは、この問題が国際関係の変調に備えるためだけではなく、これまでそれを阻んできた長州閥が支配する陸軍による消極的な軍事政策の改革と、それを固定化してきた政界状況の変化を表わす象徴的な問題だったからである。

 宇都宮は一一月中旬までは増師を、大蔵大臣秘書官の安倍午生(ロンドンで旧知)や日本銀行副総裁の水町袈裟六(同県人)などの財政当局者や元老の松方正義、さらには小泉策太郎や犬養毅、大石正巳などの政党人に働きかけ実現しようとしている。当時野党の位置にあった国民党領袖の★犬養とは、辛亥革命時に渡清費用を用立てて以来のつき合いがあった。宇都宮徳馬の回想によれば、両者は肝胆相照らす仲であったという。一〇月八日には「政界の将来、中心点の変更、帝国将来の事」に関して意見を交換し、さらに翌月八日にも会談して、軍備拡張が必要な「裏面の理由」を説明している。「裏面に理由」は具体的には記されていないが、政権の枠組変化の可能性も含むものであったろう。

 二個師団問題が政局に関する重大問題の様相を帯びてきたことが窺えるのは一〇月三一日の記事からである。この日、上原に「御参考の為めの囈語」(宇都宮資料)と題するメモを渡している。その内容は、辞職も辞せずという強硬な態度を取ること、そうすれば最後には妥協でき内閣も維持できるというものであった。上原は、宇都宮の意見に同意し、これにしたがって辞職を賭して増師の実現を図ったのである。しかし宇都宮と上原が決定的に違っていたのは、上原がほんとうに辞職に突き進んでしまう傾向があったのに対して、宇都宮は内閣を維持する、つまり妥協するということを前提に強硬な交渉を考えており、最後には上原の辞職を押しとどめようとして動いたことにある(一一月一三日に上原から、進退および後任者について内談を受けた時にも、最後には何らかの妥協ができると進言している)。

 一一月一日、宇都宮は安倍午生の来訪を受ける。妥協点を探るためであった。内閣側の妥協案は、一九一三年度予算に計上することは見合わせ、しかし一九一四年度よりの着手は約束するというものだった。これに対して宇都宮は、たとえ少額でもいいから、今度の予算に継続年度割の頭だけは出すよう要求した。
 宇都宮は、内閣との関係を、内務省警保局長で同県人の★古賀廉造を通じて探っていた。古賀は政友会の中心的人物である原敬内相と、極めて近い間柄にあった。一一月二二日の閣議にあたって、古賀は宇都宮に、上原陸相が閣議で増師案を説明すれば、閣僚は直に否決することは決してないから、軽率に辞表を出すようなことはしないように、上原に伝えて欲しいと伝えた。この日の閣議は、その通りであり、宇都宮はそれをもって内閣には、内心妥協の意が十分あると観察した。

 ではなぜ決裂に至ったのであろうか。そこには三つの原因があったようだ。第一は上原の考え方であり、第二は薩派海軍の独自の動き、そして第三が、宇都宮はこれを最も重視しているようであるが、長閥の陰謀であった。その第一と第三の原因が日記に、はっきりと記されている。

 第一については、一一月二一日の日記が重要である。西園寺首相が上原陸相に対して二二日の閣議の席上で説明して欲しいと要請したことに対して、上原が「兵額を定むるは大権に属し、大臣と総理との間に相談上裁を仰ぐべきものにして、閣議にて決すべきものにあらずと返答」したというのである。これはこの問題が、兵額決定をめぐる権限に関する原則問題であり、上原は内閣にはその権限はないと考えていたことを示すものである。兵額決定に閣僚は関与するものではなく、陸相・首相の相談で行うべきだとする上原陸相の主張は、軍令部と内閣が海軍の兵力量決定をめぐって対立した一九三〇年ロンドン海軍軍縮条約をめぐる統帥権干犯問題を彷彿とさせる論理である(ただしこの時に上原は、首相の関与は認めており、閣議の関与のみを拒否している)。この年の八月に、陸相と参謀総長とが帷幄上奏して、増師について天皇の了解を得ていたということが『財部日記』に記されており(一二月二日)、それが上原の増師にこだわる姿勢と、帷幄上奏による辞職を正当化する論理にもつながった。

 さて事態は、一一月二四日になって深刻化する。薩派有力者の★樺山資英より、西園寺首相が増師提案を拒否することを決心し、衝突は避けられないという情報が伝わってきたのである。そして上原も「陸軍に殉死の決心」(一一月二五日日記)を固める。宇都宮の観察は外れたのである。ただし一方では、増師反対の張本人と思っていた原内相が譲る意思があるようにも観察された(同日)。ここから宇都宮は、薩摩出身で原の信頼の厚い内務次官・床次竹二郎との交渉に入り、二六日に古賀を加えた三者で解決策が検討された。内閣維持を図るという点で意見は一致していた。床次の提案は、一九一四年度(つまり再来年)よりの予算化を約束する、その証拠として閣議での決定、議院での宣言および政友会の党議をまとめることを約束するというものだった。これを上原に伝えたところ、上原は「最早妥協の余地無きものと観念」しているようであった。宇都宮は、その態度が「官僚系長州系に少しく偏傾」していると感じたので、「政友会等非長閥派」に傾くのも、長閥に傾くのも良くないと忠告した。

 床次は二七日上原陸相と終日意見交換を行い、宇都宮は、翌日床次の提案(一年延期)を受け入れることで妥協する腹を決め、★高島鞆之助を通じて上原陸相に働きかけてもらった(二九日)。「御参考の為め」と題する、その時のメモが残されている(一一月二八日付、『上原文書』にもある)。その要点は、辞職すれば二、三年増師は不司能になり、また多数党(政友会)と終始敵対関係になるから、内閣が妥協を欲している以上、一九一四年度からの約束で妥協するのが良いというものであった。上原は気持ちが動き、閣議では依然として主張を変えなかったが、一日の熟考を首相に請求した。まだ妥協の道は残されていた。宇都宮は、上原が意見を変えないよう、他人との接触をしないよう求めた。

 妥協の可能性があったにもかかわらず、決裂を決定的にした第二の要因は薩派海軍の動きであった。これは宇都宮日記には出てこないが、海軍次官の財部彪、薩摩出身の官僚・山之内一次と押川則吉、大久保利武などが、原内務大臣、床次内務次官、牧野伸顕農商務大臣(牧野も薩摩出身)ら内閣側の妥協工作を妨げる方向で動いており、西園寺はそれに従っていたことが『財部日記』からわかる。★薩派も一枚岩ではなかったのである。宇都宮は、陸軍内では上原派とされ、上原派は薩派と位置づけられている。しかし上原派の実態はかなり不鮮明であり、かつ薩派の分裂からも、宇都宮を薩派として片づけてしまうことはできない。確かに薩摩系軍人と深いつながりはあったが、宇都宮は独自の道を探っていたように思われる。

 決裂を決定づけた第三の原因は、宇都宮が最も意識していた長州閥の動きであった。山県、寺内、岡、田中らが、この時に意識されていたメンバーである。上原が妥協も考えた一一月二九日、岡陸軍次官が小田原に山県を往訪した。この時の山県の意見が、決定的であったようである。夜一〇時、宇都宮が田中を訪問して、その後の様子を窺ったところ、★田中は一意突進の意見を語り、上原も突進案に変化していたというのである。この変化に裏面の事情があると宇都宮は感想を記しているが、それは山県の意見が岡を通じて上原に伝わったという意昧であろう。山県は強硬な増師論者であった。

 一一月三〇日、決裂が決定的となった。宇都宮は早朝に上原を訪ね、妥協して内閣を維持し、たとえ一年延期でも増師案を成立させることが有利だと「最后の進言」を行った。しかし一二月一日午前の上原・西園寺会見で、上原は増師をあくまで主張することを伝え、宇都宮に辞職を明言し、二日午前参内して天皇に直接辞表を捧呈した。その際に、以前八月に参謀総長と連署上奏した二個師団増設案が閣議では容れられなかったと、直接天皇に謝る帷幄上奏の形式をとったのである(『財部日記』一二月二日)。 

 
 ⑥ 大正政変 

 
 ここに内閣は危機に陥った。宇都宮は日記に「政局は是れより一転、天下再び彼等官僚、即長閥の有たるに終はるを免れざらん乎」と記した。長閥にしてやられたという感想なのである。

 辞表が提出された一二月二日の夜、宇都宮は★樺山資英より一つの提案を受ける。高島鞆之助、床次が相談した結果として、上原に来年度実施を黙契した上で増師案を撒回し、「政友会と結び飽まで長閥と決戦」する意志があるかどうかを尋ねて欲しいというものであった。これに対して宇都宮は、成功するか疑問であり、それより政友会の意気込みがあるなら、今回は政府をいったん長閥の手に渡して、「上原とは将来を黙契し、国民党の犬養等とも連合し、政友会内の官僚分子は其去に任せ、大挙咆哮捲土重来の策を至当とする」という意見を答えている。ここから、この時期の宇都宮が、政友会・国民党と結んだ政権の組み替えを構想していたこと、それに対抗するものが長州派と政友会の官僚分子の結びついた政権であったことがわかる(ただし政友会の官僚分子が誰かは不鮮明)。

 上原の辞職を受けて後任陸相捜しが始まった。しかし山県は後継陸相の推薦を拒否し、西園寺内閣は大臣を揃えることができず、五日に総辞職を表明することになる。これは田中義一が案出した可能性の高い西園寺内閣を倒閣に導くシナリオに沿ったものであった。六日から、後継首相奏薦のための元老会議が始まった。このシナリオでは、後継首相に寺内正毅を山県が推し、寺内内閣が成立して増師問題を解決することが想定されていた。しかし会議では大山巌がめすらしく異議を申し立(★大山が反対したことは知られていたが、その発言の重みを指摘したのは、この日記が初めてであろう)、松方の推薦に傾いた。会議の様子は、大山から井戸川、上原という経路で宇都宮に届いていた。

 宇都宮が、長州閥による「内閣乗取の為めの陰謀」(つまりシナリオがあったこと)に気付いたのは、日記によると七日の日に寺内に宛てた「秘電」を見たからである。たぶんこの電報は、七日午前○時二分に田中から発せられたもので「寺内文書」に残されているものである。その電文には、「何等協定スルコトナク」とか、「成功無覚束」などの言葉があり、それを読んで、その筋書きを理解したようである。

 宇都宮は、松方の組閣を応援する方向で動き始めた。床次に、松方の参謀役となるよう要請し(一二月七日)、増師一年延期、海軍も多少の延期もしくは繰り延べ整理等を実行するという条件で政友会と妥協し、原、松田、牧野の入閣、上原陸相、斎藤海相の留任が良いという意見を伝えている(一二月八日)。宇都宮は政友会や原を敵とは見ていなかった。しかし一〇日、松方は組閣を辞退した。病躯老齢を理由としたが、宇都宮は、別の理由が恐らくあったであろうと記している。まさにそれは山本権兵衛らが、山県が我が儘を働いている間は上手くいかないと松方に忠告したからであった(『財部日記』一二月九日)。

 宇都宮の政局に関する記述は、それ以後一七日に桂が内閣を引き受けることが明らかになるまで、ぷっつりと途絶える。また記されても内閣のメンバー以外、出てくるのは上原の行き先捜し(教育総監か待命か)程度である。桂に政局担当の野心があったというのは、一二月二日・一七日に記されているが、それを特に咎めだててはいない。宇都宮は、松方辞退後の桂内閣に向けての動きとはコネクションを持っていなかった。

 以上のように、大正政変の背景には、いくつもの勢力対抗があった。政友会と陸軍省の対立、長州閥と薩摩閥との対立と単純化することはできない。この日記からは、複雑な対立関係のなかで、上原陸相を補佐していた宇都宮や井戸川が妥協に向けて動いていたこと、これに薩派の一部が呼応していたことがわかるのである。

 なお一二月一〇日に参謀本部の部長会で国防方針と用兵綱領に関して審議が行われ、変更しないことが決まったと記されているのが注目される。もともと二個師回増設要求は、国防方針実現の一環として提出されたものであり、それに変更を加えないという決定は、増師案にこだわるという決意の表明であったといえよう。なおその後に「但し対米作戦を一層具体的に立案するの要を認む」という記述がある。議事内容なのか宇都宮の単なる意見なのか明確ではないが、いよいよ陸軍も★アメリカを想定敵国として意識するようになりはじめたことを語っていて興味深い。これに関して資料中に参謀本部「未来の米国大統領ウイルソン氏の略歴並同氏の標榜する新政策の米国に及ぼすべき影響の判断」(一九一二年一一月)と題する書類がある。 

 
 ⑦ その他 

  
 その他、一九一二年の日記で注目される記事、および宇都宮の身辺のことについて記しておく。家族関係では、三女となる峯子が五月二〇日に誕生した。これで家族は、子供五人、夫婦二人の大家族となる。宇都宮は、仕事に忙殺される中で、家族と連れだってしばしば東京の郊外を散策し、子供たちと一緒に過ごす時間を大切にしている。大演習での出張から帰宅したときに、子供らが歓声を挙げる様子に、「門外の事は兎に角、家庭に在ては吾ながら吾が身の幸福少からざるを感ず」(一一月一九日)と記す宇都宮。なかなか自分の思い通りに物事が運ぶことのなかった宇都宮にとって、暖かい家庭の存在が、行動力の源泉になっていたことを感じさせる。

 宇都宮は前年(一九一一年)の一一月二二日に★東宮御用掛を命じられた。その実際の仕事は軍事学の進講で、はじめて御殿に参上して行ったのが、二月一九日であった。宇都宮は、その時のことを「無上の光栄」と記している。その後進講は八月二四日の御用掛罷免まで、三月四日、五月一五日、同二二日、六月五日、同一九日、同二六日と計七回行われた。短期間であったのは、七月三〇日に明治天皇が亡くなり大正天皇が践祚したからであり、宇都宮に問題があったわけではない。むしろ大正天皇が宇都宮のことを気にいっていたらしいことは、一九一四年一月一二日に天皇自らの指名により小鴨五羽を下賜されたり(「異例なり」と記している)、第七師団長時代に天皇が御料馬の試乗を命じたり(一九一五年四月一〇日)、宇都宮にかけた言葉から想像できる。一九一六年四月の師団長会議の時の陪食後、特別にお召しがあり「北海道のサル蟹を献上せよ」と言われ、健康などを尋ねられたのである(四月八日)。「サルカニ」は色々な書き方で出てくるが、「ザリガニ」の一種で、宇都宮もわからなかったようである。大正天皇の様子がわかり面白い。なお天皇関係の記事として、この他、明治天皇薨去および大喪、大正天皇即位式の模様が日記には詳しい。

 この年(一九一二年)、宇都宮は、ある会に入会する(五月二八日)。これは毎月二八日に赤坂三河屋で行われる会で★二八会といい、会の目的は特にない。ただし全会一致で推薦された者しか入れないもので、会費は一〇円(したがって重縁会ともいう)であった。宇都宮は、誰かに田中義一と同時に推薦され入会を許されたという。「何人の悪戯にや」と記しているが、たいへんこの会が気にいったようで、旭川に赴任するまで、毎月のように出席する。そのメンバーは、後の記述も総合すると、外交問題に深い関心をいだく代議士・ジャーナリスト・運動家・外交官・軍人・実業家であった。この会は、宇都宮の人間関係を拡大する役割を果たした。宇都宮が旭川に赴任する時には早川千吉郎宅で送別会を催してくれ、内田康哉、後藤新平、倉知鉄吉、福田和五郎、大谷誠夫、安藤保太郎、井上敬次郎、寺尾亨、内田良平、林田亀太郎、長島鷲太郎、小泉策太郎、秋山真之らが集まっている(一九一四年五月二一日)。ただしその後に出席したことが確認できるのは、一九一五年一一月の一時帰京の時と、朝鮮から戻った一九二一年六月の二回あるだけである。 

 
 
 第二巻解題  <了>。

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