カウンター 読書日記 ●宇都宮太郎日記(2) 引用・紹介。
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●宇都宮太郎日記(2) 引用・紹介。
 ●陸軍大将 宇都宮太郎日記(2)より、当該部分の引用・紹介。

 ************* 


 ★第二巻解題 
  大正時代初期の宇都宮太郎―参謀本部第二部長・師団長時代   櫻井良樹 



 本巻(2巻)で扱う一九一二(明治四五)年から一九一六(大正五)年の五年間は、宇都宮太郎の人生においては五〇歳台前半の五年間にあたる。一般にこの年代は、それまでの職務経験を活かして責任ある地位につき、組織を動かしていく時期である。その期間のちょうど中頃の一九一四年五月一一日に、宇都宮は陸軍中将に任ぜられるとともに、長くつとめた参謀本部第二部長から旭川の第七師団長に補せられ、ついで一九一六年九月には大阪の第四師団長に転じる。

 本解題では、一九一二年と、一九一三年から一九一四年の転任までの時期、さらにそれ以後の師団長としての時期の、あわせて三つの部分に分けて、日記を解説していく。また付論として、久保田文次氏の文章を付した。そこでは、宇都宮の活動の中心となった辛亥革命前後の中国情勢への対応を、前巻の終わりから本巻にかけて登場する何人かの中国・アジアと関係の深い人物を取りあげて紹介する。なお註について、本日記を出典とするものは、文意から年月日が判明するためにそれを省略し、そうでないものは月日を適宜括弧内に付した。宇都宮資料中の書類・書簡についても本文中に記し詳細は省略した。 


 ★ 1 一九一二年 ― 参謀本部第二部長

 ① 辛亥革命の展開と宇都宮太郎 


 一九一二年一月、宇都宮は海外情報を扱う参謀本部第二部長として、それまででたぶん最も忙しい正月を迎えていた。前年一〇月に勃発した辛亥革命への対応に追われていたからである。前巻(1巻)解題でも述べられているように、宇都宮の革命への処方箋は、前年一〇月一五日に起草した「対支那私見」(第一巻四八三頁参照)にもとづき、それを事態の推移にしたがって修正しながら展開していくというものであった。

 中国清勢は、めまぐるしく変転しつつあり、一月一日に孫文を臨時大総統とし、中華民国が南京を首都として建国された。その一方で清朝側と革命派との間の講和交渉も進展しており、一月二〇日には清帝の退位条件が出されるなど、清朝の崩壊が目前に迫る状況となった。日本政府は、この間、前年末の閣議決定によって事態を静観していたが、革命が満州地域へ波及しそうになると、山県有朋や寺内正毅などは、満州秩序維持のための出兵を唱えるようになる。それは動員寸前にまで進行しており、宇都宮も、派兵予定師団の参謀に会ってアドバイスを与えていることが、一月二一日の日記からわかる。

 宇都宮は、この時に際して「尚は及ばざるにあらず」(一月二一日付)という意見書を記して各方面に働きかけている。その意見は一月二八日の日記に詳しい。宇都宮は、清国皇帝の退位決行前に居中調停を行うこと、南方派を承認して建国に助力し各種の援助を与えて良好な関係を結ぶこと、北方に関しては満州朝廷の崩壊をくいとめ兵力を派遣して防御的に擁護し事実上の保護国とするという意見(つまり中国二分策)を内田康哉外相に語ったのだが、内田は絶対に不可能だと反対したというのである(資料中にも「支那関係にて内田外務大臣柴五郎への信書」がある)。

 宇都宮は、この時には派兵を主張しており、前月の意見書「居中調停に付」では否定していた出兵を主張しているのは奇妙に感じられる。しかし前月のものは革命派を圧迫するための攻勢的動作を取る兵力使用であり、今回のものは清朝擁護のための兵力使用であった。宇都宮の狙いが中国における勢力均衡状態を維持させること、それにより日本の影響力を高めることにあったことがわかる。

 しかし二月一二日、とうとう宣統帝は退位し清朝は滅亡する。革命派と袁世凱との間に妥協が成立し、孫文は臨時大総統を袁世凱に譲り、袁は清朝の滅亡と中華民国の成立を承認することで革命は収拾されることになったのである。清朝の崩壊を目の当たりにして宇都宮は、一人の義士も起って殉ずることがない満州朝廷の腐敗を嘆くとともに、ここまで日本外交が失敗に失敗を重ね好機を逸したことを遺憾であると記した(二月一三日)。

 この間に宇都宮が深くかかわったことに満蒙工作がある。これは一般的に第一次満蒙独立運動(満蒙挙事)と呼ばれ、宇都宮資料中に残されている意見書によると、満蒙の分離独立により清朝の維持を図るもので、趙邇巽などの勤王党あるいは適当な満州族・蒙古族の親貴(粛親王・喀拉沁(カラチン)王など)を擁立した挙兵計画であった。前年中に満蒙に派遣した特務機関の多賀宗之少佐、それに一月末以後新たに派遣した高山公通・守田利遠大佐、蒙古調査から帰朝したばかりの松井清助大尉や大陸浪人の川島浪速を通じてなされたものである。鍵となる人物である川島の名前が、革命勃発直前の一九一一年一〇月七日の日記に登場している(初出は一九一〇年三月一四日)。このときに宇都宮は、川島を「粛親王等の顧問として信用ある」人物として認め、対清意見を語り協力を求め、共に尽力を約束していたというから、まるで革命勃発を予期していたような絶妙のタイミングであった。

 一月下旬から本格的な工作が始まり、二月二日に川島は北京から粛親王を旅順に脱出させた(二月四日大連着、その後の生活費の面倒もみていることが八月一三日の日記からわかる)。また、二月一日に開元へ向けて小銃五〇〇挺・弾丸二〇万発の送付が決定され、同時に蒙古王への借款供与に向けた動きが開始された。しかしこの挙兵計画は、二月二〇日に閣議で厳正中立が決定されたことにより中止される。宇都宮は高山等に傍観を指示、川島を召還する電報を発した(二月二六日日記)。後に川島に対して、その尽力のためとして五〇〇〇円という大金を振武資金より贈与しているのはその労をいかに宇都宮が多としていたかを示すものである(五月四日日記)。ちなみに振武資金とは、清国からの陸軍留学生を教育するために政府が一八九九年から一九〇九年まで、成城学校(後に振武学校)に補助していた年額一万円の資金が積み立てられていたものである。

 なお一九一三年一二月一七日に川島浪速が来訪した時に、粛親王の子供を日本に留学させること、宇都宮自身が世話をすると語っている。川島が粛親王の子供を芳子と名付け養女として育て、その芳子が後に「男装の麗人」と呼ばれ活動したことは有名な話である。宇都宮の言う粛親王の子供が川島芳子のことであったとしたら面白い。もっとも
芳子が日本に来たのは一九一五年のことであり、もはや宇都宮は援助できる位置にはなかった。ただ同年四月一四日に宇都宮が師団長会議で上京した時、粛親王の王子輔国公憲徳に面会して、決して悲観せず、修養し時の到るのを待つべきだと激励しているのは、この時の関係からだろうか。

 三月一〇日に袁が、いよいよ大総統に就任する。その日の日記に宇都宮は、袁のことを、あらゆる詐術を用い世間を欺いて天下を盗んだ悪運の強い人物と記し、それが可能であったのは満州王朝が漢人に嫌われ、失政の結果天下の人心を失い、いっぽう漢民族には適当な統治者が無く、列国の態度もあって袁の野望が実現したのだと分析し、そしてまだまだ問題はこれで結了したわけではなく、これから益々やらねばならないことがあるが、これまでは日本の対応は全くの失敗であったという感想を記している。

 この三か月後の六月、奉天近郊の鄭家屯付近の遍照というところで、蒙古王への武器輸送をめぐる日中両国人の衝突による日本人の死亡事件が起きる。満蒙独立運動を引き継いだものであった。宇都宮が多賀少佐や守田大佐に関与させていたことが七月二二日の日記や「支那事変に対する発電案」という宇都宮資料の中の記事からわかる。

 一方、前年以来の華南方面工作も進められたが、これも実りはなかったようである。一月に嘉悦敏中佐が雲南へ、井上璞大尉が広西へ、三月には岩本千綱退役中尉が雲南・貴州へ派遣された。彼等に対する訓示類が宇都宮資料に残されている。たとえば嘉悦に対するものの要旨は、干崖の刀安仁を援け雲南方面に独立国を作り、勢力をなるべくベトナムのトンキン湾方面に伸ばし、将来必要の場合にはイギリス領ビルマまたは清国を衝かしめるという壮大な構想にもとづくものであった。さらに五月二一日には、日野強中佐を陜西・甘粛省に、水町竹三少佐をインドに、武田額三大尉をカムチャツカ方面に密派するという決定がなされている。日野の派遣は「中華民国と相容れざる有力なる一勢力」との連絡を図ろうとするものであった(約一年後の一九一三年五月三一日の日記によれば失敗に終わった)。このようなところからは、参謀本部が北方や雲南・貴州といった全中国を視野に入れて動いていたこと、その動きを資金面も含めて宇都宮が組織化していたことがわかったのである 

 
 ② 革命後の対中政策 

 
 革政派と袁世凱との当初の約束では、首都は南京に置かれ、袁も南下することになっていた。しかし二月二九日に起こった北京・天津の兵乱を口実に、袁は北京にとどまることになった。この兵乱に際して宇都宮は、再び情勢が紛糾する好機と一時は期待したようである三百一日日記)。ところが混乱は拡大せず、以後中国情勢の展開は袁に握られていくことになる。そして革命は一段落を告げ、宇都宮も猛烈な忙しさから開放されることになり、四月ニ八日からはようやく日曜休暇が取れるようになった。

 四月一二日に宇都宮は、一時帰朝中の駐清公使・伊集院彦吉に面会した。これは、北京で革命の推移を実見して来た伊集院から詳しく情勢を聞くためであったろう。宇都宮は外務省の対応に不満を持っていたため、伊集院の行動についても不審を抱いていたようであるが、それが誤りであり、意見も自分と大同小異であったことを知る。そして翌年の日記(一九一三年一二月一六日)では、外交上事実上の顧問と言うまでになり、信頼し合うようになる。

 袁による権力の掌握と中国の統一は、宇都宮にとっては、理想と最もかけ離れたものであった。したがってそれ以後は、袁に対抗する南方革命派勢力の拡大に再び期待すると同時に、南満州および東部内蒙古における日本影響力の確保と拡大を目指して行動して行くことになる。それは、たとえば四月二〇日付の「支那分割の止を得ざる場合に於ける我占領地域」という意見書に見ることができる。そこではタイトルとは異なり、中国の領土的分割はなるべく避け、市場として重視し、特に東部内蒙古に日本の地歩を築いていくことが必要だという主張がなされている。宇都宮が希望していたものは、日本人の移住権・土地所有権と商租権(営業権)の獲得であった。

 革命派の軍人である藍天蔚と会談した七月一一日の日記は興味深い。宇都宮は白人勢力と対抗するために日中の提携を主張し、中国が強くなることの必要を論じた。藍も日中提携論で応じたという。そしてそれは以前に張之洞に説いたものと同じだったという記事である。しかし宇都宮が張に説いたのは日露戦争以前であり、日本は、その時とは違って中国大陸に多くの利権を有する国になっていた。したがって同じような論でも日中提携の位相は異なっていた。だから宇都宮も藍に、「両国の一致を害するものは満州問題也」と語っているのである。「満州問題」というのは、日本が日露戦争の勝利によってロシアから譲り受けた南満州における権益の問題であり、その中心は期限付きであった関東州租借権と南満州鉄道経営権の延長を指すものである。宇都宮は、日本がそれを放棄することはできないが、双方の顔の立つようにすることが必要だと語り、それを蘇丹(スーダン)式という語句で表現している。スーダンは、この時期、イギリスとエジプトとの共同統治であったが、実質的にはイギリスの影響下にあった地域である。宇都宮は満州を同様な地域とすることをめざしていたのである。

 満蒙利権の拡大については、四月一一日の日記が一番理解しやすい。喀拉沁王や巴林王、さらには東翁牛特(オンニュート)王など蒙古諸王へ借款を与えて、牧畜業の経営権や鉱山の採掘権を獲得しようとするもので、資金は満鉄・外務省・参謀本部・岩崎久弥からの提供資金などによるものであった。これにかかわったのが、前巻でも登場する片谷伝造という人物であり(その報告書が宇都宮資料に存在する)、片谷は、この年さらに援助を得て事業を進めたのである。

 また熱心に取り組んだことに、蒙古探検計画がある。これは参謀本部の黒沢主一郎中佐を団長とし、川島浪速も同行する蒙古地域の資源・利源調査である。七月二二日の日記には、陸軍大臣官邸に三菱商事・三井物産・大倉組・本願寺の有力者を集めて会議を行ったことが記されている。ずいぶん大がかりな計画であった。しかし警戒した外務省の反対により実現に至らなかった。八月九日の日記では、中華民国承認以前(日本が列強諸国と共に中華民国を承認するのは翌年のことである)に蒙古探検を決行して蒙古に地歩を進めることは、最も必要だけれども、内閣の決心が無ければ厦門事件と同様の失態に終わるだろうから中止も仕方ないと、閣議の事なかれ主義を批判している。厦門事件は一九〇〇年北清事変の際に、台湾から対岸の厦門に向けて派兵が行われた事件で、その直後に、列強の批判を恐れた日本政府が帰還を命じて中止された事件である。それとこの探検を並べて語っているのは示唆的である。

 いっぽう華南方面に関して注目されるのは江西省への働きかけで、日記には台湾銀行頭取・柳生一義や大陸浪人の中野二郎の名があがっており(一九一二年五月二四日、一九一三年五月一九日、七月一五日)、また白岩竜平の江西鉄道借款についての記述もある(一九一二年八月二日)。これも成果はなかったようである。

 ところで宇都宮は、中国から来日する陸軍留学生と長くかかわりをもっていた(第一巻解題三〇頁参照)。またなるべく多くの応聘将校を中国に送ることを主張していた。しかし革命の勃発と混乱により、応聘将校の派遣は難しくなり、留学生も急進帰国し学生を収容した振武学校も閉鎖されてしまった。それらの復活を宇都宮が推進していた形跡を見ることができる。一九一二年三月二五日、田中義一を訪ねた日に、日中関係がどうなろうとも、なるべく多くの将校を送ることを語り、同意を得ているし、おしつけがましく行うことはだめだが、どの官庁でも好機を捉えて積極的に応聘を行い、武官は中華民国承認前でも語学研究という名義で派遣すべきだという意見書も書いている(宇都宮資料)。たとえばその一つが国際法学者である有賀長雄の袁世凱顧問への応聘を進めることであり、宇都宮は説得役をつとめている(一九一二年八月九日、九月一日、ニ日)。

 また振武学校学生監の水村宣明に学校再開の準備をさせ(七月一五日)、駐日公使館一等書記官郭左洪から留学生について相談を受けた時、再開できると語っている(九月三日。一二月になって学生が派遣されてきた(一二月二七日)。日記には湖北省からの学生五十余人、あるいは黎元洪、黄興、蘇陽等の依頼で来た学生九十余名と記されている(一九一三年一二月一一日)。これらの学生は、振武学校ではなく、東亜同文書院の中学部に預けられ、日本語の研修が行われた(一九一三年一月一四日)。日記には、東亜同文書院院長の根津一や東亜同文会幹事の柏原文太郎の名がしばしば登場する。将来は陸軍士官学校へ進ませる心算であったと思われるが、約一年後の一九一三年一二月に、中国政府の命により召還され、進学者は出なかったようである。一九一二年に編纂が開始された『支那陸軍学生教育史』もまとめられ、いよいよ再開の見込みがなくなった振武学校は、一部が日中両国軍人関係者の会館(振武義会付属倶楽部)にあてられ一九一四年四月二九日日記)、他は陸軍省あるいは関係学校等に寄付されることになった(同年一月一六日日記)。 

 
 ③ 南洋事業とベトナム 

 
 ここで辛亥革命以前からの動きである南洋とベトナム関係の記事をまとめて紹介しておこう。一九一〇年以来の小山秋作によるインドネシア諸島租借事業は、一九一二年に入っても継続していた。二島について許可証を得たという記事が一月一〇日に見え、七月一〇日には南洋企業という会社を設立するにいたったことが報告されている。同じ頃から始まった佐野実という人を使用してのインドネシアのセレベス(現在のスラウェシ島)での実業開拓に関しては、一九一三年三月二七日に約三年振りに来訪を受け、多少有望の事実を聞き、さらに援助を行っている。

 興味深いのは、★柳田国男の名前が出てくるところである。一九一三年九月一一日、床次竹二郎の紹介で倉田隆吉という人物が南洋事業に志して来訪した。それに関して二九日に、法制局参事官兼内閣書記官であった柳田が床次の代わりを兼ねて倉田のために旅費を出してくれるよう相談に来ているのである。五〇〇円を振武基金より与えているが、この時与えた訓示(一一月四日)の中で、イスラム教徒の支持を得るように学校を造ったり事業を興したりすることを要求している(不成功だったようで一九一六年一一月六日に大阪の宇都宮のもとを訪れ報告している)。このほかにボルネオ島に関して雑貨商村田与吉に対する援助が一九一二年七月末に始まり、中井喜太郎の南洋(インドネシア)調査にも機密費を支出している(一九一二年五月二一日)。

 ベトナムについては、宇都宮が第二部長時代に参謀本部に安南班を設け、松井石根を同地に派遣したことが伝えられている。松井が派遣を命じられたのは一九一三年四月二五日のことだから、それはこの頃のことであろう。

この他、一九一一年に始まった高月一郎というフランス領東京(トンキン)で事業を経営している人物との関係が、資金援助という形で継続している(一九一二年七月四日に七〇〇円、ただし翌年は断っている)。さらに東遊運動で来日し、その後、日本を追い出されることになったベトナム人留学生の何人かが、振武資金から補助を受けて滞日し続けていることが記されている。★東遊運動とは、日露戦時に浦佩珠(ファンボイチャラ)がベトナム独立運動の援助を求めて来日したことをきっかけにして行われたベトナム人の日本留学運動である。日仏協約締結(一九〇七年)後、フランス政府からの要請もあり、日本政府が留学生団の解散を命じたことにより、留学生の多くは日本を去っていった。一九一〇年五月に東亜同文会の柏原文太郎に相談を受けたことがきっかけであったようだが、一九一二年九月三日の記事では六人の学生に学資の援助をしていたことが記されている。それが陳有功(大阪高等医学校)と玩典であり、阮典には毎月一五円ずつ与えていたことがわかる。陳有功(後に陳仲克と改名)は、一九一二年越南光復会設立に参加、一九一三年には中国の官費留学生として東京高等師範に入り、その後ドイツに留学して医学を修めた人物である。また少し後の時期には黎野臣というベトナム人学生の名も見える(一九一四年五月一八日、一九一六年四月一六日)。

 なお、宇都宮が大陸浪人たちに資金援助をしているという話は、いつの間にか広まっていたようで、怪しげな人物が色々な伝手を使って宇都宮に接近してくる様子も日記から窺われる。

 
      続く。

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