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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-2 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)-2           
  史的知見の上位集合体「薩摩ワンワールド」の具体像

 
 ★孝明天皇-堀川氏-玄洋社 京都に秘匿された皇統勢力 


 その理由を第十四条に、「水戸宰相・頼房は副将軍を賜るが、その意味は、将軍が国政を誤った時には老中・役人をして評定せしめ、水戸家の指図を以て尾州・紀州の両家から適任者を選び、将軍相続を奏聞することにある。万一両家に其の任に応ずる人が居ない時は、いずれの諸侯からでも天下を鎮めるべき器量を選んで奏聞すべきである。ただし奏聞者は水戸家に限るものとする」と規定している。この規定により、恰も「神聖ローマ帝国における選帝侯」の立場に就いた水戸家では、二代藩主・光圀以降、将来有り得べき将軍選定作業に備うべく、ひたすら歴史研究に勤しむこととなった。蓋し、水戸藩が彰考館の開設と「大日本史」編纂を始めた所以である。

 『南紀徳川史』の編者・堀内信が、「『公武法制』の原本は、ある秘本より抄出したものだが誤字が多い。秘密だったために転々筆写して来たものと思われる」と謂う通り、『公武法制』は江戸幕府の極秘法規であった。政体たる幕府将軍職の変更手続きを明定するその内容は、時の国家憲法そのものであるが、法制史上これを論じた学者を見ないのは、極秘に扱われてきたために、今日まで憲法学者がその存在を知らながったからであろう。

 ともかく、その内容を漏れ聞いた雄藩が、幕府将軍選定の事態に備え、秘かに対応策を巡らせたのは当然である。対応策の主柱は、南朝皇胤を秘密裏に確保し保護することにあった。蓋し、幕府将軍職が天子の信認を基とすることは国體上自明であって、そのために雄藩は自前の天子候補の確保を図ったのである。

 その天子候補が悉く南朝皇胤であったのは、選帝候たる水戸家が大義名分論に立ち、南朝正統説を宣揚したからである。彦根・井伊氏が擁した三浦氏は宗良親王系で、また防長毛利氏が保護した地家氏(大室氏)は護良親王の後裔が入った名和氏系と推量され、仙台伊達氏が擁した小野寺氏は長慶天皇系である。親藩では、水戸徳川家が会津藩に匿わしめた熊沢氏は、後亀山系信雅王の後裔で、熊沢蕃山の外祖父もその系統であった。紀州徳川家が、護良親王が調月村井口左近家に遺した子孫縁類を探索して異例の厚遇をしたのも、同じ意図であろう。

 維新を推進した薩長土肥の四藩では、長州藩が元治元年に楠公祭を挙行し、薩摩藩も同年楠公社の創建を企て西郷隆盛らが奔走した。肥前藩では副島種臣の実兄・枝西神陽が楠公義祭同盟を始め、土佐藩では武市瑞山が土佐勤王党を興して楠公精神を追慕した。維新の大業漸く成り、明治政府は国家を挙げて湊川神社を祀り楠木正成を顕彰したが、南朝皇統復活についてはどのようになされたか。これに関しては巷間数多の著書が出ており、インターネットにおいても盛んに論じられている。教科書史学とは氷炭相容れざる内容であるが、要約すれば、護良親玉五代孫を始祖とする地家作蔵の子の大室寅之祐が、長州藩の計らいで孝明帝皇太子・祐宮親王と入れ替わったと謂うものである。細部においては正鵠を得ないにしても、最表層より数層深いレヴェルの歴史事象が顕れたと観るべきであるが、その当否の判断は諸賢に俟つこととする。

 明治四十三年の教師用統科書の改訂に関して浮上した南北朝正閏問題が、明治末期の朝野を揺るがしたのは、翌年の大逆事件裁判で、幸徳秋水被告が南朝正統論と明治皇室の関係に言及したためであるが、問題の根底には世俗的勢力争い、即ち両皇統の配下の末端における角逐があったものと考えられる。とかく分業体制は末端における統合を避けられないから、東京皇室と京都皇統の二元体制の下で、実行勢力の間に軋轢が生じるのはやむを得ない。

 序に言えば、大正三年、中山忠英が★大日本皇道立教会を創立して初代会長に就任した。忠英は、文久三年(一八六三)天誅組の乱を首謀して失敗、亡命先の長州で十九歳で暗殺された中山忠光の遺児である。同会は、南朝を正統としてその皇道に沿う教育を行う主旨を掲げたが、真の目的は南北朝の融和、つまり東京皇室と京都皇統の末端に於ける親和にあった。歴代会頭には、大隈重信を初めとし大物華族が任じたが、創立者の中山忠英が急死したために、その業績は進展せぬまま昭和五年十一月十八日を以って創価教育学会に変身する。即ち後の★創価学会である。

 明治三十七年の日露戦争に際しては、玄洋社員が企画した満洲義軍を称する特別任務隊が、大本営参謀・福島安正少将の承認の下に、ロシア軍の後方を撹乱した。満洲義軍は、軍事探偵と特別任務(特務)に止まらず清人有志との提統をも図り、大本営幕僚・花谷仲之助少佐(陸士旧制六期・三十八年四月中佐)の指揮の下に活躍した。軍人・通訳五十五名に加えて、玄洋社員十四名が参加した満洲義軍は、明治三十七年六月には遼東半島安東県に入り、現地馬賊に呼びかけて四個隊を編成したが、その数は最盛時には五千人を数えたという。

 当時の現地馬賊の頭目には日本人が多く、「江崙波」こと辺見勇彦、「天鬼」薄益三、「鉄甲」根本豪などの名が巷間の馬賊書を賑わすが、彼等は満洲軍総司令部附・橋口勇馬少佐(陸士旧制六期・三十八年三月中佐、のち少将)の指揮下に入り、配下の満人たちを率いて活躍した。

 満洲一円の緑林(いわゆる馬賊)に日本人が多かったのは、満洲を対ロシアの地政学的最重要地とする国家的見地から、玄洋社が国事のために送り込んでいたのだが、同じく緑林でも、王文泰について知る人は稀である。王文泰は、後に大本教の開祖となる出ロナヲの次男として明治五年に生れた本名・出口清吉である。正に丹波大江山衆であるが、実は公卿・嵯峨家の出自と謂われる。嵯峨家は、当主・実愛が王政復古に尽力した上、嫡子・公勝の室に中山忠光★の遺児ナカ(南加)を迎えており、伏線が感じられるが、仔細は窺う由もない。

 日清戦争後の台湾島平定に際し、近衛上等兵として出征した清吉は、凱旋の帰途輸送船内で蒸発するが戦病死として扱われ、母・出ロナヲに弔慰金が支給された。五年後の義和団事変で、王文泰と称する日本人軍事探偵が顕著なる功績を挙げたと「京都日出新聞」が報じたが、それが出口清吉であった。その後満洲で緑林に投じた清吉は、三歳下の張作霖と出会い、頭目仲間として行動を共にする。清吉の活動が辺見勇彦らのように詳しく伝わらない理由は、辺見らと異なり日本陸軍に所属しなかったからであろう。張作霖と歩調を合わせた清吉は、満洲義軍に加わらず日露開戦時に旗幟を鮮明にしなかったが、これにも理由があるものと思われる。 

            
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(43)   <了>。 

  ★創価学会 等については、後ほど。

 
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