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●疑史 第69回 清朝宝物の運命(続)
                       真珠湾の審判 _1


 ●疑史 第69回 清朝宝物の運命(続) 

 明治末期、海洋勢力と大陸勢力の地球的規模の角遂、即ちグレートゲームが織り成す世界史は、従来両勢力の緩衝地帯であった中近東を統治していた中世帝国オスマン・トルコの解体に向かっていた。複合民族国家オスマン・トルコの支配階級はトルコ種で、スラブ・アラブ・イランなどの諸種族を統治していたから、海洋勢力の本宗イギリスは、民族自決を標榜してこれら諸民族にオスマン・トルコからの独立をけしかけ、封建領主に対する露骨な軍事援助により、多くの民族国家を樹立せしめた。

 同じく複合民族国家の大清帝国は、支配階級は満族及び縁戚関係にある蒙古族であったが、領土領民の大部分は漢土漢族であった。客家の孫文が革命を指導し漢土(中華本部)における漢族の自決を実現したが、旧清国はあたかも乗っ取り合併によって成立した企業集団を再分割するにも似た状況となり、漢族自治から排除される側の満蒙族の故地と人民に付する統治権の帰趨が問題となった。

 矢田行蔵・『満蒙独立秘史・紀州出身軍人の功績』によると、辛亥革命から三ヶ月経った明治四十五年の初春、北京では川島浪速が粛親王を擁し、満蒙を打って一丸とする新国家建設の計画を建て、蒙古王族のカラチン王やバリン王と往来して議を進めていた。粛親王の義弟カラチン王の所論は、「元来蒙古は支那の一部ではない。清朝そのものから恩顧を被った為、その統治に服したのであって支那の国家そのものとは何らの関係はない。今、清朝が亡びた以上、蒙古は当然支那とは関係なしに、独立すべきものである。しかしながら、蒙古にはその実力がないから、日本の支援によって、それを実現しなければならない。仮に民国が満洲朝廷を倒して、漢人の土地を快復するのは当然とするも、その為に蒙古まで自国の領土と見るようなことは、丁度他家の遺産を自分の所有とするも同然で、甚だしい誤りと云わねばならない」と謂うもので、パリン王も之に共鳴し、また自領が満州に接していたヒント王も同様であった。

 海洋勢力の傘下に入り、大陸勢力の本宗たる帝政ロシア及び黄河流域勢力に対抗して極東の確保を担った日本は、漢族革命後に対処するため同年一月、参謀本部が高山公通大佐を参本付に補して北京に派遣すると、川島浪速が上の計画を明かしてその賛意を取り付けた。ここに日本は、中近東におけるイギリスの相似象を成すこととなったのである。高山大佐の指揮下に入った多賀宗之少佐と松井清助大尉は、宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞き、身柄を途中で奪取して満蒙新国家の君主と仰ぐ計画を立てたが実行できず、代案として世襲親王家の粛親王を二月六日に旅順に落とし、之に応じて奉天将軍兼東三省総督・趙爾巽が起つことになった。高山大佐は参謀本部次長・福島安正中将に、
「粛親王兄弟は満洲蒙古において勤皇軍を起し、祖先の地に拠り他日民国の離散するを待たんとす。この北方に興る一国は一に我国の援助によるに至らんとす。右につき内地当局にたいし適当の御尽力ありたし」 

 と打電したので、福島次長は高山らを奉天に移転させて、配下の人数も増やした(これを以って奉天特務機関の嚆矢となす)。漢族の養子だが祖先が満族の趙爾巽は、国体護持を主張して清朝支持を明確にし、歩兵統領・張作霖・呉俊陞に命じて革命派と対立させ、満洲の革命派をほとんど消滅せしめた。

 ところが二月十二日宣統帝が退位し清朝が崩壊すると、趙爾巽は機敏に袁世凱支持に回り、新政府の奉天都督(東三省総督の後身)に就いた。呉俊陞・張作霖も軌を一にして、袁世凱と趙の新体制を支持したので、粛親王・川島らは一挙に孤立した。

 北京では松井清助大佐と木村直人大尉が蒙古独立工作を画策していた。カラチン王・パリン王・ヒント王ら蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、日本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を中華民国政府から独立させて新政権を建てる計画で、新たに派遣された貴志彌次郎中佐が多賀少佐と協同して日本での武器調達を担い、松井が武器の秘密輸送計画を練り、これに日本人馬賊薄天鬼(益三)が加わった。五月二十五日に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主領を出る。多賀少佐も追って公主領を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐と貴志彌次郎中佐に会って画策した。

 しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、奉天都督・趙爾巽の知るところとなった。蒙古独立軍は、趙都督武力阻止命令を受けた鄭家屯の歩兵統領・呉俊陞とタイシャポーで衝突し激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。この時貴志と高山が時計その他貴重品を売り払って仕入れた阿片を賄賂にして、ようやく簿天鬼たち捕虜を救出することができた。銃殺寸前九死に一生を得た松井らは六月二十六日生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日に関東都督・福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明した。

 以上が第一次満蒙独立運動(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間数説ある。
  その一は、漢・満・蒙の一体国家を望んでいた英国が満蒙独立を妨げるため誘導したもので、日本政府日英同盟の下で海洋勢力(在英ワンワールド)の指揮に従わざるを得ず、支那通軍民の活発な活動も政府の外交方針に影響を与えることはなかったと謂う。
 その二は、陸軍中央が革命政府を支持しており内政干渉を避けたとの説であるが、革命により漢族主権を恢復した中華本部の安定が海洋勢力にとって望ましいにしても、元来中華本部に含まれない満蒙の独立は漢族自立にはむしろ資する筈で、その点で肯い難い。さらに日本政府が日露協商に向けてロシア側に配慮したとの説は一応理に適うにしても、所詮イギリスの意向を無視して出来ることではない。

 注目すべきは、海洋勢力は当時から満洲をユダヤ族究極の安住の地として予定しており、その大目的のために日本の関与による満蒙独立を排除したと謂う説で、その後イギリスがバルフォア宣言によりパレスチナにユダヤ国家を作ったのを見ると、あながち否定できない。

 高山は独断専行の咎めを受けて同年九月、歩兵第二連隊長として内地に召還され、多賀少佐が残って(表向きは九月付で福州駐在)蒙古諸王との連絡に任じた。多賀は辮髪に支那服を纏って賀忠良と名乗り、その後も大正二年十月から数ヶ月の第三連隊付少佐以外は、漢土に常在して軍政官や軍事顧問を務めた。正にアラビアのロレンスの相似象である。

 手元に、昭和九年頃に作成された『粛親王家對川島家事件概略』と題する文書があるが、書き出しは「明治四十四年清国の崩壊により、故粛親王は難を旅順に避け、密かに清朝の再興を謀りたり。大正四年に至り、当時の総理大臣・大隈伯の斡旋により、大蔵喜八郎男より金百万円を借りて、いわゆる蒙古軍事件を起したりしが、不幸にして失敗に終れり。その後日本国軍部より粛王府に更に軍事費補償の意味で五十万元を支給せり」とある。

 第二次満蒙独立運動は大正四年、袁世凱の帝政復帰に反対する大隈内閣の方針を受けて、川島浪速が企てたもので、関東都督府陸軍部(後の関東軍)をはじめ、現役・予備役の軍人と民間の志士浪人が多数加わっていた。入江種矩大尉指揮の下に粛親王の第七王子・金璧東を奉じる馬賊隊が、打倒袁世凱の義旗を挙げる一方、青柳勝敏大尉が蒙古の英傑パプチャップの軍政を指導して満洲に侵入、その虚に乗じて木澤暢大尉が一挙奉天城を占領するという計画で、これに先立って、袁世凱と通じる奉天督軍・張作霖の暗殺を予備役少尉・三村豊と民間志士伊達順之助・志賀友吉が企てたが、失敗した。

 挙兵に先立つ六月六日の袁世凱の突然死により、大隈内閣は方針を一変して満蒙独立計画の中止を命じたが、パプチャップの蒙古義軍は既に活動を開始していた。七月二十二日に内蒙古の突泉県で洮南鎮守使・呉俊陞
麾下の民国官軍と衝突した蒙古義軍は、以後連日の戦闘の末、八月十四日に郭家店を占領したが、日本政府の変心により、進退窮まるに至った。参謀本部は閣議決定を受けて、蒙古軍を無条件で撤兵させるため、支那課長・浜面又助大佐を急遽現地に派遣した。孤立無援となり武器もない蒙古義軍を素手で放置すれば、帰還の途上で民国官兵により殲滅されるのは必至と見た浜面大佐は、職を賭し独断を以って砲四門と小銃二千四百挺を義軍に与える。九月二日に郭家店を出発した蒙古義軍は、途中民国官兵と戦いながら林西城に至り、十月六日熱河都督麾下の林西鎮守使軍と交戦するが、この戦闘においてパプチャックが戦死し、第二次満蒙独立運動は終わりを告げた。

 この混乱の中、八月付で西川乕次郎少将に替わって歩兵二十五旅団長・高山公通少将が関東都督府参謀長に補せられた。関東都督は二年前に福島安正から中村覺に交替したが、関東都督府を策源地として粛親王と同心の上満蒙独立運動を推進した彼らは旅順派と呼ばれた【先月号で大連派としたのは誤り】。浜面又助もその一人で、七年七月付で高山に替わって関東都督府参謀長となる(八年四月に関東軍参謀長と呼称変更)。

 『粛親王家對川島家事件概略』には、満蒙独立運動の結果、粛親王府に残ったのは、政商大倉喜八郎からの資金と陸軍機密費を合計した百五十万円から諸費を差し引いた四十五万円であった。粛親王側ではこれを年八分で満鉄に預ける案を立てたが、川島浪速が反対し実弟の鉱山事業に投資すると称して費消してしまう。これを座視できない関東軍参謀長・浜面又助は、粛親王ら宗社党の支援のために関東軍で裏金を作った。大正八、九年頃、関東庁殖産課長・黒崎貞也とともに関東軍司令官・立花小一郎に談じて賛同を得たうえ、司令官より関東長官・林権助に商談して貰い、大連の土地五万三千坪を粛親王に貸下げ、その又貸しで親王に利益を得せしめるに至った経緯が述べられている。

 粛親王を担いだ旅順派に対して、張作霖を支援したのが奉天派である。奉天派の頭領は明治四十五年四月から十二月まで陸相に就いた上原勇作で、一年余の病臥の後大正三年四月に教育総監、四年二月に参謀総長と陸軍の中枢にいた。上原が奉天派たる所以は高島鞆之助の後を継いで在英ワンワールド薩摩支部のグランド・マスターであったことにある。実効支配に重きを置く国際法からして国際社会が認めた民国政府を混乱させるのは得策ならずとする外務省も奉天派に与した。

 上原の上には京都皇統の堀川辰吉郎が居たのだが、それを知る者は極めて少ない。辰吉郎は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王と秘かに結んでいて、ここから「乾隆秘宝」問題が生じて、大正九年奉天特務機関長・貴志彌次郎少将が活躍するのだが、今月の紙数は尽きた。 

 

  ●疑史 第69回 清朝宝物の運命(続)  <了>。
  

 

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