カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)-2 
 
 ★原敬暗殺を嘆く周蔵 頭山満が漏らした一言 


 昭和八年十一月八日上原は他界したが、周蔵は裏の配下の立場上表立って葬儀に出られず、翌年の命日に上原邸を訪ねると、同じ立場の人物が来ていた。

 ■『周蔵手記』別紙記載(原文カタカナ/縦書き)
 閣下の葬儀には 堂々と出る訳にもいかん と思ひ、翌年の今 自宅を訪ねると 偶然中野と頭山が来てゐたのに驚く。こいつらも 全く表にはやふ見えんから、今頃閣下の墓に腹探りの挨拶だらふが、金目の物でも捜すつもりか、何ぞ 家捜しをしたらしい。
 帰りがけ 「お前の調査だったらしいな。あの原敬事件の基は。上原さん あれ 俺に流して呉れて 俺が一寸動いたよ」と云はる。
 調査によって あんな立派な首相を死なせたかと 後悔す 後悔す

 玄洋社の巨頭・頭山満と議会政治家として鳴らした中野正剛が、上原の一周忌を待って故人邸を訪れ秘かに弔意を表したのは、それほど玄洋社は上原ないし薩摩ワンワールドとの関係を表面に見せたくなかったのである。これが、私(落合)が洞察によって得た史的知見の上位集合たる薩摩ワンワールド説の一証を成すが、薩摩と玄洋社の秘密関係を裏付ける事実は、この他にも『周蔵手記』の中に断片的に出てくる。即ち、玄洋社軍人・明石元二郎が上原の股肱を自任し、長州閥を心底無視していたことで、これを証明するのは日露戦争時の秘話である。ロシアの後方撹乱を担当したスエーデン大使館付武官の明石大佐が、参謀総長・山県元帥はじめ長閥が支配する参謀本部に対して、工作資金として百万円を要求したが、参謀本部には秘密裏に、西本願寺の大谷光端師から一千万円を受け取っていた。明石は、光端師の資金は全額を費消したのに、参謀本部の資金は二十五万円を使い残して返金したのである。

 つまり明石大佐は、表面上では参謀総長・山県元帥に服従したかに見せ、心底で真の上官と仰いでいたのは別人であった。その後の人間関係から観て、其の人は上原勇作(当時、少将で野津第四軍参謀長)と見るしかない。この知見から洞察されるのが、後に上原を首頭と仰ぐ薩摩ワンワールドの存在で、そこで上原の経歴を閲すると上原を育てた高島鞆之助中将が浮上し、高島に焦点を当てると、高島こそ明治中期以後の薩摩ワンワールドの首頭であったと断ずるしかなくなる。更に遡れば薩摩三傑の生き残り吉井友実に行き着き、これにより、史的知見の上位集合体として、薩摩ワンワールドの具体像が把握されたのである。


 ★忘れられた重要人物・杉山茂丸と【謎の貴公子】堀川辰吉郎


 薩摩ワンワールドが在英海洋勢力の一角を担い、英露の地球的規模での地政学的対決いわゆるグレート・ゲームとして日清・日露の両戦役を遂行したことは容易に洞察されるが、両戦役に至る過程を閲すると、これに大きく関わった怪人物が目につく。即ち杉山茂丸である。その事績は明治期のどんな大政治家、いかなる大実業家よりもよりも広範囲で、しかも国事に偏っている。唯一の異例は、元老・井上馨の協力を得て安場保和を福岡県知事に就け、石炭の大鉱区を玄洋社に払い下げさせて、その財源を作ったことである。しかし玄洋社は、政府や正規軍が表向き関与できぬ大陸政策の実行部隊として作られた民間国事結社であるから、その財務基盤を創ったことは、やはり国事中の国事である。更に特筆すべきは、日本の工業化を進めるための興業銀行創設を叫んだことで、渡米した茂丸は金融王・J・P・モルガンに直接会って、巨額の融資予約を取りつけた。外交政策では、軍備拡張を唱えて薩摩派を支援し、敢えて選挙大干渉を行わしめた。しかも戦後の講和談判において、伊藤内閣の方針であった遼東半島領有に反対を唱え、外相・陸奥宗光の宿舎に押し入って、講和案の動向を監視した。以上すべてが一介の黒田浪人の着想すべき事ではなく、仮りに着想したとしても当路や周囲が相手にする筈なく、茂丸の本姓の鑑識が必須となる。以下は私(落合)の洞察でなく、さる筋からの伝達である。洞察だけでは細部を特定できぬ故、最後は伝達を仰がざるを得ない。

 茂丸は、実は福岡藩士黒田長溥の実子で、したがって島津重豪の実孫であった。つまり茂丸は裏の黒田藩士として玄洋社のオーナーとなり、国事を推進したのである。島津氏から養子に入った長溥が藤堂家から養子を迎え、実子・茂丸を竜造寺氏男系の杉山氏に入れた所以は、「明治維新」というヨリ高次元(上位)の史的知見集合体に属するというから、目下の本稿の範囲でなく、ここで述べることが出来ない。

 かくして、『周蔵手記』から得られた薩摩ワンワールドと謂う史的知見の集合体を、更に上位に進めるには、杉山茂丸を洞察する外ないことが分かった。そこで杉山の事績を閲する時、特異な位置に在るのが、謎の貴公子・堀川辰吉郎である。幼時玄洋社で育てられ、長じて学習院に入学した辰吉郎は明治三十二年弱冠二十歳にして、日本に亡命してきた清国の革命家・孫文の秘書となった。以後は形影相伴う辰吉郎を孫文が「日本皇子」と紹介したため、清人間の孫文に対する信用が飛躍的に高まり、革命の実現性が高まったことが知られているが、これは孫文を支援した玄洋社の計らいであることは明らかである。

 ここで辰吉郎の本姓鑑識が必要になるのは当然である。結論から説くと、辰吉郎は明治十三年に堀川御所で生まれた。実父は孝明帝の血筋である。堀川御所は堀川六条の日蓮宗本圀寺の旧境内に、明治天皇の京都行在所を名目として設けられたが、その実は、維新後も京都に留まった孝明帝の京都皇統の住居であった。明治二年、宮廷改革を図った薩摩三傑即ち西郷隆盛、吉井友実、大久保利通により、孝明帝以来の古参女官が宮中から追放されて京都に留められたとされるが、実は京都皇統に奉仕するため、堀川御所に入ったのである。辰吉郎は井上馨の兄・重倉の五男として戸籍を作ったが、生地に因み堀川姓を称した。以上は、私(落合)の洞察ではなく去る筋からの伝達である。さらに興味のある人は月刊情報誌『みち』★の栗原茂論文を参照されたい。

 明治以後のわが国体は、明治皇室と京都皇統の二元方式によって運用された。京都皇統こそ薩摩ワンワールドと杉山茂丸、玄洋社などを下部集合として含む史的知見の上位集合である。薩摩ワンワールドは在英海洋勢力の一角を占めるが、その本質は国策遂行団体で、英国筋からの伝達は杉山茂丸を通じていた。茂丸が薩摩ワンワールドの誘導者になったのは、辰吉郎に最も近かったからである。京都皇統に属する下位集合として、他には大谷光端師が率いた京都社寺勢力、孝明帝と同系の鷹司家を初めとする旧堂上の一部、光格帝の生母・大江巌代(大鉄屋岩室氏)に由来する丹波大江山衆(穴太上田氏・大本教)、公武合体を進めた会津松平氏・紀州徳川氏が存在した。その実態と活動を追究するのが、今後始まる本稿第三部の作業である。 


  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(42)  <了>


  ★『みち』 月2回刊
  発行:文明地政学協会 TEL・FAX 03・5951・2145 




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