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●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命    
  ●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命    落合莞爾 

 前月まで二回に亘り奉天宮殿の清朝秘宝について述べたが、実はこの他に、成立の経緯を異にする宝物が奉天にあった。それは乾隆皇帝が極秘に隠匿秘蔵した数千点に及ぶ各種美術品で、成立の時期を「四庫全書」が完成した乾隆四十七(一七八二)年と推定する根拠は、乾隆帝がこの年に奉天に文遡閣を建て、宮殿の改装など大工事を行っているからである。つまり、奉天宮殿の大工事に紛れて宮殿外の数か所に宝物の秘納庫を設けられたものと推量するのである。

 正確な場所は分からないが、天正五年暮れから六年二月にかけてその宝物を接収した奉天省長兼督軍の張作霖が、一部を奉天軍司令部(張氏帥府)に移したものの、残りを北陵内の番小屋に保管していたことから見て、秘納庫は元々広大な北陵の中に、数か所に分けて設けられていたものと思う。奉天北陵は清朝第二代皇帝皇大極の廟所であって、清朝時代には番兵が常駐して厳しく警護していた。例えば紀州藩が下津長保寺を、金沢藩が卯辰神社を重代の宝物の秘庫としたように、秘宝の隠し場所は古今東西に亘り、古社寺と相場が決まっているが、蓋し北陵は宝物隠匿に最も相応しい施設であった。

 宝物の倉庫として既に奉天宮殿を利用しているのに、乾隆帝がわざわざ隠し蔵を設けた理由を、皇帝が漢族意識に染まったからだと吉薗周蔵は説明している(『周蔵手記』)。則ち、表面に見せる何倍もの財貨を隠す漢族富豪の風習として、貴重な財物は絶対他人に見せないが、それにも法則がある。所有財物を四級に分け、A級は存在さえ絶対に見せない。B級は、普段は隠しておき必要に応じて敵の上使(交渉相手)にやや見せる。相手に褒めさせて強引に押し付けるという巧妙な贈賄が目的である。C級は日頃から応接間に飾り、D級のごときは居間に転がしておいて、客の目に留まったら躊躇なく与える。清朝の支配者満洲族も永年漢族に囲まれて暮らす裡に漢族の気質に染まり、紫禁城にはC級を日常に飾り、B級を秘蔵し、A級宝物にあっては存在そのものを隠す癖が付いたと云うのである。

 大正九年七月奉天に派遣された吉薗周蔵に上記の説を吹き込んだのは、既に紹介した満鉄総裁秘書の上田恭輔であった。それを聞いた周蔵が、漢族特有の財貨隠匿習慣だけに絞ったのは説明として不完全で、その根底にある面子―メンツー意識を知らねば、完全な理解は無理だろう。識者によれば、面子意識の本質は、極度に形骸化された虚栄心が漢族の根底的行動規範として固定したものらしい。虚栄心には様々な形態があるが、その最たるものは磊落を気取る事で、要するに吝嗇の謗りを受けたくなく、その結果として「他人に所有物を褒められたら無条件で与えよ」との行動規範が固定化したが、形骸化した虚栄心に過ぎず、本音は与えたくない。そこで、絶対に他人に与えたくないA級品は、その存在を隠すことで、規範と本音の矛盾を回避したわけである。乾隆帝の如く一天万乗の主であっても、意識が漢族化したからには、その根底的行動規範に従わざるを得ず、因って自らA級品を選んで泰天城に送り、厳重に隠匿した。上田のそんな説明を、周蔵は単純化して理解したのである。

 乾隆帝の奉天秘宝は、A級品ばかりであるから、愛親(新)覚羅氏の中でも本流しか存在を知らされていなかった。明治四十四年、辛亥革命の結果清朝が倒壊した時、その存在を知っていたのは幼帝溥儀の実父・醇親王と僅かの側近だけであった。前年紫禁城に入り、内廷の小院に住んでいた堀川辰吉郎がその存在を告げられたのは、愛親覚羅氏の本貫の地たる満洲(清朝の東三省)の宗主権を確保するための原資として、その活用を委ねられたのである。

 既に観たように、奉天宮殿と熱河避暑山荘の清朝什宝は革命直後、早くもその処置が列強の関心を呼び、陶磁器と文遡閣の書籍に対してはわが皇室も取得希望を漏らしたが、大正2年に大総統・袁世凱が国務総理・熊希齢に命じて北京に移送させ、終に放出しなかった。乾隆帝の奉天秘宝がその間も奉天北陵に静まり返っていたのは、それだけ秘密が保たれていたのである。大正三年欧州大戦が勃発、日本の対華二十一箇条要求や袁世凱の帝政復帰工作が進む中で、堀川辰吉郎の命を受けた大谷光瑞が、乾隆秘宝を用いた工作を秘かに立案していた。

 この辺で堀川辰吉郎の正体を明かさねば、本稿はもはや諸賢に認めて貰えまい。辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官を京都に留めたことは周知であるが、その女官たちは、維新後も京都堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は明治天皇の行在所を名目に設けられた施設で、堀川通り六条の日蓮宗本圀寺旧境内にあった。足利尊氏の叔父・日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移し、皇室鎮護の霊場として本国寺と称したが、水戸光圀により本圀寺と改めたこの名刹は昭和四十六年に山科区に移転したが、旧境内は実に広大で、現在の西本願寺もその一部を割譲されたものである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。

 京都皇統の中核的人物として生まれた辰吉郎は、井上馨の実兄・重倉の籍に入ったが、生地に因み堀川姓を称した。(重倉については未詳だが、玄洋社員と聞く)。幼くして玄洋社に預けられた辰吉郎は、上京して学習院に入る。皇族・華族の子弟教育の機関で一般民の入学を初等科に限っていた学習院に入学したことは、辰吉郎の貴種たるを暗示する。明治三十二年、清国の革命家・孫文が日本に亡命した時、その支援を図る玄洋社は、実質社主・杉山茂丸の計らいにより、弱冠辰吉郎を孫文に付して、その片腕とした。

 ここに至り、杉山の本性も明かさねばならぬが、茂丸は実は福岡藩主・黒田長溥の実子で、島津重豪の実孫に当たるが、長溥が実子・茂丸を杉山(竜造寺氏の男系)の籍に入れながら、藤堂家から養子を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮を解くには紙面がない。ともかく、常に伴う辰吉郎を日本皇子と称したことで、孫文の清人間に於ける信用が俄かに高まったのである。

 杉山は玄洋社の石炭貿易を通じて、明治二十五年から上海の英国商人と相識り、在英ワンワールド勢力の実体を深く認識し、海洋国日本としては彼らとの提携に賭ける他ない事を覚り、以後は彼らの意向を日本政界に伝達すべく、渾身の力を注いでいた。近世史は、地政学でいう海洋勢力大英連邦と大陸勢力露西亜帝国によるグレート・ゲームの展開に他ならず、玄洋社の孫文支援は、海洋勢力の元締めたる在英ワンワールドの意向に沿うものであった。日清・日露の戦争も正にその一環で、海洋勢力の戦略上其の不可避なることを知る杉山は、ややもすれば非戦主義に傾く長州閥を調略・分断し、これも在英ワンワールドの薩摩支社となっていた薩摩閥の三巨頭、松方正義・樺山資紀・高島鞆之助を側面支援して開戦に踏み切らせたのである。

 愛親覚羅氏が日本に接近するのは、日本の実力を目の当たりに見た日露戦争の後である。接近は西太后の側近・袁世凱を通じて行われたが、東京皇室は固より、政体・桂太郎内閣も敢えて対応を避けたのは、東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があり、皇室外交と国際金融は京都皇統の分野だったからである。愛親覚羅の意を受けた杉山は、明治四十三年に辰吉郎を紫禁城に送り込むが、前年には中島比多吉が紫禁城に入り、幼帝溥儀に仕えて事前準備をしていた。

 辰吉郎を盟主と仰ぐ京都皇統の芯核は孝明帝の祖父・光格帝由来の宮中勢力で、光格帝と実賛同血統の鷹司家を始めとする旧堂上の一部である。之に加えて、孝明帝の皇妹・和宮が将軍・家茂(紀州慶福)に降嫁した公武合体に発する紀州藩・会津藩の勢力もあった。辰吉郎傘下の実行部隊は玄洋社だけではなく、京都に根拠を張った寺社勢力がそれで、東西本願寺が当時の棟梁格であった。外郭の中で、最も強大な勢力は前述の薩摩ワンワールドで、在英海洋勢力の支部として杉山茂丸の指示に従いながら、辰吉郎の経綸を実行していた。また丹波大江山衆は、光格帝の実母・大江磐代(大鉄屋岩室氏)に由来する禁裏の外郭で、亀岡穴太村の上田吉松を頭として江戸時代から禁裏の諜報に携わっていたが、多くは玄洋社に誘われて満洲に渡って馬賊となり、或いは清国本部に潜入して国事に備えていた。彼らが創めた大本教が、玄洋社と並んで辰吉郎支援の実行部隊となり大正時代には民国内に実質支部の紅卍会を建て、辰吉郎はその日本総裁となる。

 上田吉松と結んで大本教を開いた綾部の出口ナヲの次男・清吉は、高島鞆之助の計らいで近衛に入隊し、日清戦争後の台湾土民平定に参加したが、凱旋中の輸送船上で蒸発し、北清事変で軍事探偵・王文泰として手柄を挙げた後、満洲に渡って馬賊に投じた。この王文泰が馬賊仲間で三歳年下の張作霖を指導し、親日に誘導して日本陸軍の支援を取り付け、満洲の覇王に養成するのである。堀川辰吉郎は辛亥革命後、しばしば満洲に赴いて張作霖と慇懃を通じ、長子・学良と義兄弟の盟約を交わしたと謂う。

 辰吉郎は、漢族自立を図る孫文、満洲保全を望む愛親覚羅氏の双方と親しく交わったが、その立場に毫も矛盾はなかったのは、蓋し双方とも満漢分離で一致していたからである。革命後の中華民国が民族独立に傾かず、旧清国領を保全して多民族の合衆国となった理由は良く解らないが、やはり在英ワンワールドの意向であることは間違いない。粛親王の宗社党と結び、満蒙独立を図った陸軍内の大連派は、このために大きく当てが狂ったのである。新生中華民国が群雄割拠となったのを国情の必然と覚った袁世凱は、共和政は不可能として帝政復帰を図るが、これを孫文にとって重大な障害と観た辰吉郎は、革命党に手を回して大正五年に袁を毒殺させたと聞く。袁の暗殺に先立って、乾隆秘宝を用いた張作霖支援を企てていた辰吉郎は、西本願寺の実質的法主・大谷光端を語らい、秘宝中でも価値の高い歴代の古陶磁を用いた作戦を立てさせた。大正三年から大連に移り現地の文化人を配下に収めた光端師は、満鉄秘書役・上田恭輔に古陶磁研究を命じ、これを受けた上田は大正五年の春、『明治紀要』に「支那陶磁ノ研究ヲ薦ム」を発表した。

 宗社党の満蒙独立運動を支援した大隈内閣が、袁世凱の急死と同時に方向を転換し陸軍内大連派に撤兵を命じたのは、在英ワンワールドの意向に基づくものと思われる。そのため、粛親王と宗社党を支援していた日本陸軍内の大連派には、彼らの損害を補填すべき義務が生じ、参謀本部支那課長の浜面又助大佐は、その財源探しに四苦八苦していた。在英ワンワールドの戦略に従う辰吉郎は、張作霖を地方政権として育成し、満洲を特殊地域化する戦略を立てた。張作霖が乾隆秘宝を接収したのは大正五年十二月で、大連派に対するジェスチュアとして、秘宝強奪の形を取った。         [この項続く」


 ●疑史 第68回  ★清朝宝物の運命  <了>。
 

 
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