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●疑史(第67回)  清朝宝物の運命
                             張家三代の興亡 古野直也_1



 ●疑史(第67回)  清朝宝物の運命 評論家・落合莞爾

 先月は奉天宮殿の宝物に関するキッチナー元帥の逸話を紹介したが、今月も政清権力と文物の関係の一端を述べる。国立国会図書館のアジア歴史センターに「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」と題した一群の文書がある。最初は辛亥革命の二か月後の明治四十四年十二月二十日付のロンドンの山座圓次郎臨時代理大使から外務大臣・内田康哉に宛てた電報で、内容は以下の通りである。

 ①清朝が先月約四〇万ポンドの「宮室財宝」を売り出し、独亜正金・香港上海及び露亜の各銀行が買い取ったが、右はほんの一部に過ぎず、義和団事変の際、英米軍が監守してそのまま清国宮廷に引き渡した財宝は殆ど九百万ポンドに値した。

 ②しかも、その後西太后が蓄積した財貨は莫大で、今後数年間外国借款の支払いに充てるに充分の余裕がある。現に今回売り出された砂金のごときは、一八七〇年代に広東省より北京へ貢いだものを三十年間も手を着けず、当時の封のままを渡したのである。

 ③右の財宝は勿論国家に属すべきもので、それは清国皇帝=清国政府だったからであるが、それだけでなく、従来の外国借款は元利支払いの全てを皇帝の上諭を以て保証しているから、当然その支払いに充てらるべきものである。

 当時の金本位制で一ポンドは約一〇・六五円であるから、清室が十一月に売却した砂金は邦貨四百二十六万円に当たり、現代の物価では四百億円を超す。一九〇〇年の北清事変の際に、英米軍が守って清室に引き渡した財宝の価値たるや邦貨にして九千五百万円、現価で一兆円に近い巨額であった。革命により大清帝国は崩壊したから、政体が作った借款(国債)の弁済を債権者は懸念したが、清国は皇帝=国家であって皇帝が借款を保証していたから、皇室財産による代位弁済は充分可能であった。その事を山座大使は外相に報告したのである。

 明治四十五年一月六日、参天総領事・落合謙太郎は内田外相に「奉天宮殿二於ケル官物二関スル件」を報告した。「北京政府ハ過般、当奉天ノ宮殿二保存シアル諸種ノ宝物ヲ調査シ、至急報告スヘキ旨、趙総督二命令シ来リタルハ事実ト認メラルル」も、「右ハ売却セムカ為ノ調査ナルヤ、将又整理ノ為ナルヤハ、世上斉シク疑問ト為シツツアリシ」が、「当館警察署員ノ探知スル処ニヨレバ、右調査ハ全ク売却セムカ為ニシテ、該宝物ノ購入二関シ清国人ハ勿論、殊二近来諸外国人ノ競争ガ甚ダ熾烈」で、中でも「英国人某ノ如キ目下各方面二盛二運動を試ミツツアリ」との内容である。

 次いで一月十七日、落合総領事は内田外相に宛てて「宮殿二於ケル宝物調査二関スル件」を報告した。要約すると「趙総督は先般北京政府より宮殿在庫宝物の調査の内命を受け、総督公署内政科に於いて衛兵十五名が警戒する中で其の品目・価格等の調査を急いでいる。書籍は既に調査を終了し、目下は諸器物を調査中である。調査官の言では、宝物中で最も価値のあるのは書籍で、低く観ても千二百万両の価値がある。その他の器物・金銀宝石等は調査未了なるも、約一千万両の価値があるとのこと。調査の目的を聞くと、単に例年の調査に過ぎないと云うが、実は売却のための調査らしい。先般清国官憲が外人に鑑定させたら三千万両の価値があることが判明したと各新聞紙上に報道するのは事実無根で、清国当事者は秘密裏に宝物の調査を行っている」となる。

 銀一両(テール)は邦貨一・六円に相当し、一千万両は現在の邦貨千六百億円にも及ぶ。落合総領事は早速、東三省総督・趙爾巽に会見して風説の真偽を確かめた処、総督は一応否定したが、一月二十三日に至り秘書官を遣わして落合総領事に伝言させた。「実は、北京政府の内命により、当地の宮殿に在る陶器類だけ成るべく一括して売却したいので、希望の向きには内覧させる。尤も売買の決定は北京政府が行う。また、この話は内うちの事である」と。

 この知らせは同日、第四〇号の電報で内田外相に届く。日本政府は、宝物の中でも特に陶器類に関心を寄せたと見え、内田外相は二十六日落合総領事に対し、「貴電第四〇号ノ陶器類ハ大体価格何程ナルヘキヤ電報アレ」との第四二号電を発した。これに対し落合総領事は、「貴電第四二号に関し、陶器類の価格は判明せず。試みに交渉使に見積りを問いたるも、分り難しと答たり。二十三日米英仏独人等、該陶器を見物に来るもの多し。交渉使に聞けば未だ売買を話し入りたるものなしとのこと。並に、交渉使より陶器及び銅器の目録を得たるに付、早便を以て郵送すべし。銅器及び書籍も、或は売却の意あるにあらずやと思わるる事実あり」と返電してきた。交渉使の名は明らかでないが、東三省総督・趙爾巽の幕僚であろう。

 落合がこの時、早便で外相に送った目録は、先月稿で上田恭輔が「偶然そのコピーを入手した」と述べたのと同じもので、款銘別に分け漢式名称の品目が並ぶ。数量は康煕款だけで百三十四類・個数は三四、六六七件に及ぶが、その中に上田がキッチナー元帥に話した「黄南京の丼一、九四四件」も「黄釉中碗一八四四件」として確かに記されている。

 先月稿のテーマの「江豆紅太白尊」と「江豆紅八道碼瓶」も記載があり、その両方に、「内於宣統元年九月十三日総督錫・巡撫程奉諭旨提出二件、送英国元帥希基拉将軍」の但書が確かにある。目録の内容は康煕・錐正・乾隆の款銘品が各三万作を超え、嘉慶款は少なく、他に無款品と明代の青花品がごく僅かにあり、合計では十万件を超す。陶器目録の他に銅器目録があり、商・周・漢併せて青銅器は数百作に及ぶ。

 明治四十五年二月九日、内田外相は「四庫全書売却ノ風聞アリ、若シ事実ナルニ於テハ、其筋二於テ購入ノ希望アルニ付、事実ノ真偽及ビ値段返電アレ」との第六八号電を発した。「其筋」とはわが皇室であろう。これに対し落合は、交渉使を通じて先方の意向を聞き、「『四庫全書』は多分売却しない。陶器と銅器は売却することに決したが、南方から反対を伝えてきたので、どうなるか解らない」との答を得て、二月十五日付で返電した。

 辛亥革命により共和政に移行した清国は、この年一月一日を以て国名を中華民国と定め、年号を民国元年と称した。孫文が南京で臨時大総統に就任したが、行政の実権は清朝末期以来北洋軍閥が支配する北京政府にあった。二月十二日を以て宣統皇帝が退位し、満洲族の帝政は崩壊したが、奉天の文武官僚は、趨総督以下清朝の旧臣がそのまま革命新政府の官僚に横滑りした。「四庫全書」と陶器・銅器の売却に関する方針とは、北京政府の方針で、清室の意向も斟酌しているから、革命派の南方政府が異議を唱えたのである。

 革命直後、新生中華民国の政権が今後どう転ぶか予断を許さない中で、莫大な価値の奉天宮殿宝物の帰趨は、満洲皇室と民国政府だけでなく列強の関心を惹きつけたが、結局、この後二年間は動かなかった。民国の政権は大正(=民国)二年二月の総選挙における国民党の圧勝をよそに、北洋軍閥の袁世凱に帰したので、これを不服とする革命派は七月に第二革命を起こすが、直ちに失敗して孫文は台湾に亡命する。この動きは奉天宮殿の宝物にも及び、大総統袁世凱の意向を受けた北京政府の国務総理熊希齢が、熱河避暑山荘と奉天宮殿の所蔵宝物の北京移動を命令したのである。

 関東都督府司令部付で満鉄奉天公所長を兼ねる佐藤安之助中佐は、大正(=民国)三年三月十一日付の電報を以て、参謀総長・長谷川好道大将に以下の報告をした。「奉天宮殿宝物の北京輸送に関し、多分その一部は奉天に残すものと地元は期待していたが、実際にはすべてを北京に運び、将来一点たりとも奉天に残さない事に決定したとの噂に、地元の官民が北京政府の暴挙として憤慨している」と。

 帝政復帰を図る袁世凱が、新皇室を建てて洪憲皇帝に就き、清室の財宝を引き継ごうと謀った。しかし満洲族の旗挙げの地奉天は、大清帝国の陪都として三百年間泰天府と呼ばれ、住民は清室から農地を賜った満洲族が多く天領民の気風があった。辛亥革命後も実質的に清朝支配が続き、奉天都督・張錫営以下清朝の旧臣であったため、奉天の官民は、漢族主体の北京政府が満州族の愛着する奉天宝物を根こそぎ奪い去るのを是としなかったのである。奉天の軍権を実質的に掌握していた馬賊上がりの漢族張作霖は革命反対・清朝存続を唱えたが、この北京政府命令には従った。かくして奉天宮殿と熱河避暑山荘の清家宝物は、悉く紫禁城に遷され、武英殿を含めた外朝の一角に新設された「古物陳列所」に展観された。「四庫全書」も北京へ運ばれ、結局、日本政府も皇室も望むものを購入できなかった。

 「大日本窯業協会雑誌」三四四号に、大正九年十二月の小森忍の論説「昌徳官と武英殿の古陶瓷器」を掲載する。日く「武英殿の古陶器は、実に其の数、数千を数ふべく、陳列諸宝器の冠たるものであろう。まづ後周の柴窯より、宋の粉定、均窯、龍泉窯、哥窯、汝窯あり、元均窯あり」と列挙し、続けて「明末、嘉靖、萬暦の五彩あり、宣徳、成化の霽紅あり・
・・その他明清朝に於ける・・・研麗眼を奪うの彩磁が又雑然と並んでいる」とあるが、前に観たように、奉天宮殿の陶磁目録に明代彩磁は一件もないから、これらはすべて熱河避暑山荘のものである。熱河は皇族が毎年夏を過ごす建物であるから、小森の挙げた宋定窯・宋均窯・龍泉窯・哥窯・
汝窯や明代の五彩・宵紅などは、室内を飾る装飾品か秘蔵を目的に収蔵されていた品である。これに比し奉天宮殿は実質的には倉庫で、清初三代の款銘品を主に貯蔵していたが品目的にはかなり偏っていた。

 革命により民国政府に譲与された紫禁城は外朝と内廷に別れていた。儀式の場であった外朝は革命直後に民国政府に明け渡されたが、生活の場の内廷には宣統帝溥儀が民国十三年までそのまま住み、皇帝の称号と宣統の年号を保持し、独自の廷臣と千二百名の衛兵を従えつつ、経費を清室財産から支弁していた。すなわち溥儀は清国の皇帝を退位したが、満州族及び蒙古族にとってはいまだ皇帝であった。民国政府は、領土の真中に居住する溥儀を遜帝(引退した皇帝)と呼び外国君主として扱ったのは、一応の理に適っていた。

 民国十三(一九二四)年十一月五日、「国民軍」を率いる西北のクリスチャン将軍馮玉祥がクーデタにより北京に入り、溥儀の退去を強請した。「政変ごとに帝政復活の動きがあり、共和政の体制に有害」との理由を掲げたが、「事実は馮玉祥が清朝の財宝を奪って換金するのが目的であった」(古野直也『張家三代の興亡』)。この後、内廷の文物の大部分は政府に没収され、故宮博物院の収蔵となり、奉天宝物とともに台湾に移った。革命後に千二百万両(現在の物価で二千億円)と言われた『四庫全書』は結局奉天(瀋陽)に返されず、甘粛省博物館に在る。


      疑史(第67回)   <了>

   

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