カウンター 読書日記  ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)―2
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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)―2
                          美は乱調にあり_1

                           瀬戸内・『美は乱調にあり』
                           ・・野枝の二歳年下の妹によれば、
                           大杉と伊藤野枝も「転向の用意をしていたんですよ」という。


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)―2 


 ★キリスト教化を装い中国人を利用したワンワールドエ作


 大正十一年には労働問題が深刻化した。前年のワシントン会議で軍縮が決まり、多数の軍人と海軍工廠、造幣廠で除隊、解雇が発生し、民間でも失業が増加した。十月には東京の下町の労働者が競合関係にある民国人労働者の退去を陳情した。民国人労働者の存在は大きな社会問題化しつつあった。この過程で王希天は確かに目立った働きをしていた。国外退去命令を出す警察署への交渉には、多くの場合王希天が登場した。

 僑日共済会の母体は中国青年会(YMCA)である。仁木前掲には、「十一年九月五日、青年会、学生総会、聖公会の代表は、中国人労働者の多い大島地区の状況視察に出かけ、さらに王希天は(・・中略・・)労働現場の視察を重ね、中日各団体の指導者たちと討論を重ねて、僑日共済会発足となったのであった」とある。

 中国留学生か政治運動、社会運動に動員される例は、先般の北京オリンピックの聖火リレーに際し、その一端を顕したが、これは中国人社会固有の特徴らしい。当時も、民国人労働者の退去、排斥問題に留学生が介入した。日本人でこれに加担したのが、陸奥広吉伯爵を筆頭に、救世軍の山室軍平、明治学院の賀川豊彦、沖野岩三郎らのキリスト教徒であったが、それとは別に★聖公会の名が上げられている。

 関東大震災後で倒壊した聖路加病院の再建に尽くしたポール・ラッシュは、震災後に初渡来したように言われている(尤も、インターネット検索なので保証の限りではない)が、この頃すでに日本に潜入していた。陸奥広吉は、有体に言えば、ポールのスパイであったと聞く。カミソリ大臣の嫡子でベルギー大使までした伯爵がと、周蔵ならずとも情けないが、これはワンワールド内の序列の然らしむる処かと思う。当時、ワンワールドはキリスト教化の外形を採りながら、中国人労働者の日本進入に乗じて日本社会に対する工作を図っていたことが歴然である。

 ともかく十一月二十七日、規約改正によって希天は会長になり、中国青年会の仕事を辞めて僑日の方に専心することになった。この間、警視庁外事課の極秘文書『大正十一年六月十五日現在 支那関係事務概要』には、民国留学生中の要注意人物の名前が挙げられている中に、王希天は特記されているが、呉達閣は全く見えないのは、役割を分担したのであろう。
 
 
 ★大震災を奇貨に死亡を装う甘粕正彦「王希天偽装襲撃」


 そうこうしている間に、九月一日、関東大地震が起こる。王希天は神田のYMCAから大島町の僑日共済会に通っていたが、YMCAは地震で倒壊し、住んでいた留学生たちは中華聖公会に避難した。王希天は民国公使館、教会、留学生総会などと対日震災救済会を組織してひとまず留学生たちの救済に当たり、九日になって大島に出かけた。そこから先はいろんな証言があるが、主として民国労働者や陸軍の下級兵士・久保野茂次の伝聞で、断片的で思い込みも激しく、全容を伝えるものはない。

 王希天襲撃の実行に当たったのは第一師団隷下の野戦重砲兵第三旅団第七連隊所属の垣内八洲夫中尉(後大佐)であった。紀州藩で貴志彌次郎や私(落合)の生家・井口家と同輩の紀州根来者の後裔で、連隊第一の剣道の達人であったから、この任務を受けたのであろう。真相は、佐々木兵吉中隊長の命を受けた垣内中尉が、九月十二日の早暁、中川堤防の上、逆井橋の近くで王希天に背後から一刀を浴びせたが、止めは刺さなかった。そう命じられていたからである。

 すべては王希天本人の希望で、大震災を奇貨として死亡を装い民国留学生の日本工作隊長から足抜けする目的で、渋谷憲兵分隊長兼麹町分隊長の甘粕正彦大尉に依頼したもので、襲撃は甘粕の計らいによるものであった。甘粕は、愛人が上原勇作とポンピドー牧師の妹との間の混血娘であったから、ポンピドーを介して王希天と極めて近い関係にあり、大正十一年頃から王希天を調略していたが、国事の為でなく、甘粕個人のための調略であったという。しかし、突然の大地震の下では憲兵分隊長の甘粕には、公私ともにやるべきことが多すぎた。

 甘粕の王希天偽装襲撃工作を支援したのは、野戦重砲第三旅団参謀の砲兵大尉・遠藤三郎であろう。甘粕と同じ山形出身で陸士は二年後輩である。後にフランスに留学した時も、刑余の甘粕を支援している。戦後、反戦将軍として持て囃されたが、在仏ワンワールドとしても甘粕の下位で在ったものと思われる。 


 ★フランスで得たあるネタ 大杉栄惨殺の真の理由


 上原勇作の後継候補として、秘密裏に渡仏して在仏ワンワールドに入会した甘粕が、その事実を大杉栄に握られたのは、大杉が青山教会に潜入させていた女間諜・伊藤野枝の働きによるものである。大杉はこのネタを、上原勇作の政治的ライヴァルでもあった後藤新平に売り込み、裏付けを取るために、後藤の資金を得て十一年十一月に密出国し、上海経由で渡仏した。十二年五月にはメーデー集会で演説して逮捕され、フランスを追放されたが、帰国後後藤に報告を提出したので、当然、上原・甘粕から監視を受ける立場となった。そこへ突然発生した関東大地震は、大杉と伊藤を始末する絶好の機会となった。大杉と伊藤野枝の動向を追っていた甘粕は、大杉らを麹町憲兵分隊に拘留している間、フランスで探索した証拠品を求めて家探しをしていた。大杉らが殺害されるのは十六日である。

 辛うじて一命を取り留めた王希天を、急場に駆けつけて救助した甘粕
は、応急手当てをした上、野方村上高田の第二救命に送って、渡辺政雄の治療を依頼した。渡辺は正式医師免許を持つ外科医である。渡辺の治療を受けた王希天はやがて回復したが、片脚を失っていた。その身体になっても、「これくらいはやらなくちゃ、足抜けなんてとても出来ないから」と言い、甘粕はもとより、垣内など襲撃者を恨むことはなかったと云う。思えば、王希天が周居應の変名を用いるのは三年前からである。その時から足抜け計画を持っていたとも思えないが、去年からは、四谷では王さんと呼ばず周居應と呼ぶように「タノンマス」と念を押したのは、既に実行の段階に差し掛かっていたからであろう。だからこそ、日本官憲を刺激するべく活発な行動を取ったのである。

 ところで呉達閣の動きはどうか。現在台湾で発行されている人名事典によれば、大正十年に東京帝国大学法学部に入った呉達閣(別名・呉瀚濤)は十三年に卒業して大学院に進み、一年で修士号を得た。十四年には吉林省の官費を以てアメリカに留学する。当初はシカゴ大学の大学院に入るが、一年後にイリノイ大学の大学院に移り、公法学・外交学・国際関係論・世界史を専攻して、昭和五年にphDの学位を得た。同年七月、瀋陽の東北大学からの電報で招聘された達閣は、文法学院専任教授として政治思想史・国際公法・憲法・英文政治学・経済学原理を教えた。翌年、満州事変が勃発、東北大学の北京移転に伴い、呉達閣も北京に遷って授業を続け、市政及び行政学を教え、また国立北平大学法学院教授を兼ね、憲法及び政党概論を講じたという。公式記録は上の如きもので、<何でも来い>の学風は、正に大道芸人風である。


 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(40)  <了>。

 


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