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●疑史 (第66回)
 ●疑史 第六十六回  

 ★キッチナー元帥と奉天の古陶磁    評論家・落合莞爾 


 近来、中国政府は流出文物の回収に血眼である。新興財閥を使い、蒐集した文物を政府に寄贈した場合に税制の恩典を与える仕組みで、政府が労力を煩わさずに済むが、評価の公正を確保するために公開オークションによることが条件らしい。そこで各財閥は続々と独自のオークション会社を設立している。

 中国からの古文物の流出は一九一一年(明治四四年)十月十日に起きた辛亥革命により本格的に始まった。元来貿易収支の恒常黒字国であった清国は、アングロ・ユダヤ商人が持ち込んだアヘンにより逆調化し、一九世紀の後半は完全に赤字になった。以来貧窮化した民間から家什民具の如きは流出したが、古文物の目ぼしい物は悉く清朝皇室に集中していたから、日清戦後の列強侵略に遭った期間も、辛亥革命前では離宮が外国軍に襲われた義和団事件だけが例外で、目立った流出はなかった。

 明治四十二年、イギリス国王エドワード七世は、同盟国日本が宇都宮で陸軍大演習を行うに際し、皇族の名代としてインド軍司令官・キッチナー元帥を派遣した。中国陶磁の蒐集家であったキッチナーは、その機会を利用して北京に立ち寄り、次いで戦史研究の目的で旅順・南山・遼陽の日露の激戦地を視察するため、駐満第十一師団長・伊地知幸助中将の遼陽の宿舎に泊った。接伴の任に当ったのは満鉄総裁特別秘書の上田恭輔である。

 上田は『支那陶磁雑談』で当時を追憶する。アメリカに留学して博士号を取り、パリにも遊学した上田は美術に詳しかったから、奉天宮殿の磁器庫に康煕以後嘉慶までの歴朝官窯の御窯品が千六百六十種類、数量にして一万個を超すことを元帥に話した。すると元帥は興奮し、見学が許されるかと聞くから、遠来の貴人を断る筈はないと上田は答えた。重ねて元帥が、「もし見学に行ったら一点位は呉れるだろうか」と問うので、「歴代の御物ですから、それは無理でしょう」と上田は答えた。それが常識だったのである。しかしキッチナーが「いや、必ず呉れる筈だ」と自信ありげに云う。実は、北京では国賓待遇で幼帝溥儀主宰の宴会を受け、卓上に出た「桃花紅」の香合を褒めたところ、思いもよらず贈呈されて味をしめたからだが、上田はそれを知らなかったらしい。

 元帥から、「見学に行けば必ず一点を頂戴出来るように交渉せよ」との要請を受けた上田は、困惑しながらも満鉄奉天公所長・佐藤安之助中佐に斡旋を依頼し、奉天駐在英国領事・ウイルキンソンにも頼んで、東三省総督兼管三省将軍の錫良に一品下賜を懇請せしめた。錫良としては、下賜はともかく、奉天政府の極端な財政難の折から、元帥の突然の来奉を賄う費用(現時の邦貨で二~三億円)の目途が付かぬため、「北京に伺いを立てたが返事がまだない」との口実を構えて、おいそれと返事をしない。元帥は元帥で「頂戴出来ぬとあらば、見学には行かない」と不機嫌で上田に当たる。その場合には、一行は奉天の手前の蘇家屯駅から安奉線に乗り、朝鮮を経由して日本へ向かう予定で、明日は遼陽を立つと云う段になった。

 何とか接待費の遣り繰りを付けた錫良総督は、急遽進元帥一行の宿泊施設を奉天宮殿内に新設し、天津のアスターハウス・ホテルから多数のボーイを呼ぶ段取りを付け、北京からようやく一品贈呈の許可を得たと報じてきた。その吉報は、伊地知師団長主宰の送別宴会の席上に、奉天英国領事館と満鉄奉天公所の双方から同時に電報でもたらされた。忽ち上機嫌になった元帥は、一行を引き連れて奉天に向かい、宮殿内域の商品陳列所を改造した俄か迎賓館に入ることとなり、独りで磁器庫の見学に向かった。


 上田が同行しなかったのは、元帥一行の旅程を朝鮮総督府と打ち合わせることと、折から、ロシア蔵相・ココツェフトとの非公式の会談のためにハルビンに向かう枢密院議長・伊藤博文に随行していた満鉄総裁・中村是公に(おそらく電報で)報告する必要があったためで、満鉄奉天公所に留まった。時に旧暦九月十三日、新暦では十月二十六日であった。午前九時に伊藤の乗った特別車両はハルビン駅に到着し、降り立ったプラットホーム駅でロシア儀杖兵を閲兵している時に伊藤は暗殺される。犯行は、伊藤に随行していた貴族院議員・室田義文の証言を無視して、韓国人テロリスト安重根によるものと看做されて、今日に至っている。

 ところが、キッチナー元帥の如上の行動を、日本陸軍が偶然を装って伊藤博文と遭遇させ、互いに面晤させて伊藤の進める日露協商に対する海洋勢力側の意思を伝える目的があったとする解釈がある。国際協調主義の信念を強く保持していた伊藤は明治三十四年、後任首相桂太郎の策によって日露協商推進のためにペテルブルグを訪問中、突如日英同盟を締結されて政治的権力を失ったが、ロシアの蔵相兼首相(大臣会議議長)ココツェフとの非公式会見は後藤新平の周旋によるもので、日露戦後の満洲・朝鮮問題を話し合うためと推測されていた。真相は分からないが、とにかくイギリスを本拠としたワンワールド海洋勢力系の意向には合致しないことは確かである。もし偶々にせよ、キッチナーが奉天に滞在中なら、特別列車の運行予定を変更して短時間の表敬会見はむしろ当然で、その機会に率直な意見交換が有り得た状況であった。実際は、伊藤一行は一日違いで奉天駅を通過し、キッチナーが奉天に着いた時にはハルビン駅で襲撃された後であったが、或いはこれは、錫良が面子にこだわったために奉天宮殿の磁器庫見学が一両日遅れ、それにより生じた齟齬かも知れないし、この企みを事前に察知した伊藤が、奉天での元帥との邂逅を故意に避けたとの見方もあろう。

 当時の人的配置を見れば、キッチナー一行の接遇に当たった伊地知中将は、紛れもなく薩摩ワンワールドの一員であった。当時、薩摩ワンワールドの総長は高島鞆之助で、その地位を間もなく上原勇作中将に譲ろうとしていた。満鉄総裁・中村是公は、台湾総督府以来の後藤新平の腹心である。後藤は、岳父・安場保和が杉山茂丸の要請を受け、福岡県知事として石炭採掘権を玄洋社に払い下げてその財政基盤を創造したことから、当然玄洋社との関係が深く、また上原勇作とは、後の原敬暗殺に際して、手を取り合って玄洋社員を使嗾した仲で、さらには、後の大正十四年の事ながら腹心・中村是公の五女愛子が上原勇作の長男七之助と結婚する間柄でもある。

 上田恭輔は、日露戦中に児玉源太郎の奏任通訳となり、満鉄設立のためにイギリス東インド会社の研究をした事で知られているが、台湾総督府以来の後藤・中村ラインで、後藤の関与が濃厚な児玉の急死により満鉄の初代総裁に就いた後藤が、二代目総裁に据えた中村是公の特別秘書となっていた。伊藤を実際に銃撃したのは、韓国駐箚軍参謀長兼憲兵隊長の★明石元二郎少将が選抜した狙撃手と見られる。明石は玄洋社系軍人で、上原勇作の股肱であった。こうして観れば、上田恭輔が中村是公の意を受けて、キッチナーの奉天訪問を企んだ仮説にも根拠はある。

 ともかく、伊藤博文が明石少将の指揮でハルビン駅頭に倒れたその日、キッチナーは単身奉天宮殿内の翔鳳閣の二階の磁器庫でほとんど半日を費やし、午後四時になると大きな箱を二つぶら下げて意気揚々と迎賓館に帰ってきた。「オヤ元帥閣下、あの電信には一品とあったじゃありませぬか?」と訝る上田に、キッチナーは、「ソーさ。支那古来の風習に因って一品と言へば一對のことであり、一個のことでは無いじゃないか」と即答したので、その厚顔ぶりに上田は二の句が次げない。

 上田は、この事件でもう一度驚かされた。後日偶然に奉天宮殿の古陶目録の台帳のコピーを入手し、多大の興味を以て通覧していると、「江豆紅太白尊一百四十八件」の項目の下に細字を以て「内二件、宣統元年九月十三日に於て総督・錫良、巡撫程徳全偏旨を奉遵して英国元帥・希基拉(キッチナー)将軍に送る」と記入してあった。ところが同頁の「紅豆紅八道碼瓶二十八件」の下にも同じ文句が書いてある。電文をかざして、「一品は一対だから二個寄越せ」と強請したキッチナーに清国大官が便乗したのだ。しかも「八道碼瓶」は「太白尊」より遥かに巨物で、その価値は計り知れないのである。正に、上には上があることを、上田は実感した。

 第一次大戦中の大正五年六月五日、特命を受けて装甲巡洋艦ハンプシャーでロシアヘ向かったキッチナーは、ドイツ潜水艦によりバルト海で沈没し(ウィキペディア)、幕僚と乗組員六四三名が死亡したが、キッチナーの遺体は発見されなかった。その後、元帥の遺言状に基づき、遺産を処分して幕僚の遺族に分配するため、中国陶磁のコレクションを競売に付した処、「江豆紅太白尊」一対が四千五百ポンドで落札された。金兌換停止当時の事で正確にはいかぬが、当時の英貨一ポンドは本位制下の金含有量で一〇・六五円に当たり、これを適用すると四万八千円になり、今日の物価では四億円を超すことになる。とすると、総督と巡撫が横領した「八道碼 瓶」は(どんなものなのか私には分からないが)どれほどの価値があるのか。それが市場に出ないのは不思議である。

 前に、北京でキッチナーが、皇帝溥儀から「桃花紅合子」一対を頂戴したとの推測を述べたのは、★細川護貞・『怡園随筆』に以下の文があるからである。

 昭和三十一年十一月十日、パーシヴァル・デヴィッドと細川護貞は博物館の一室で会った。初来日のデヴィッドは護貞の父・細川護立侯の蒐集品を見に来たのである。護貞が持参した父の遺品「桃花紅」の対の香合を眺めていたデヴィッドは語りだす。「キッチナーはインド駐在から格下げの中国駐在を自ら希望した。ある時、清国皇帝の招宴に連なり、宮殿の名器に嘆声を発した処、高官から《何かお気に召されたか?)と問われ、桃花紅の香合一対と花瓶一対が好みに合うと答えた処、下賜されたので、二対の名品はキッチナーの所有となった。その死後、この二対はパートリッジ氏の所有となり、次いでワイドナー・コレクションに入り、現にアメリカのナショナル・ギャラリーの所有に帰している。

 実は、上田が見た奉天の古陶台帳の写しは日本にもある。国立国会図書館アジア歴史センターの「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」と題した記録の中に在り、上田の云う贈呈の記録もそのまま書かれている。他には、そんな記録はないから、北京ではともかく、奉天では余程の例外だった。その中に香合一対の贈呈記録はないから、元帥遺品の中に在る香合は、北京でせしめてきたもので、両者をまとめた話になったのだ。

 『怡園随筆』のこの項には間違いが多いが(例えば戦前も日本に来ているデヴィッドを初来日としたり、キッチナーが中国駐在になったり)、おそらく護貞の聞き誤りであろう。こうして訛伝が生じて世人を惑わすが、決して意図的ではないので、偽史ではない。むしろ史実を立体的に見る材料となるなど、書き遺してくれたことを感謝すべきであろう。  
 

 ●疑史 第六十六回    <了> 


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