カウンター 読書日記 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
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●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)ー2
   

 ★「まだ同じ奥さんですか?」周・呉 再会の場の空気が凍りついた。

 達閣と丹波衆の秘められた関係を、周恩来がどこまで知っていたのか知る術はないが、王希天を含めた三人はワンワールド南開支部員として、生涯秘密を分ち合ったと思われる。ウイルソンによれば,昭和十一年(1936)の西安事変の後、共産軍ナンバー2の周恩来に、国民党側の停戦条件を持ってきた使節団の中に呉達閣がいた。

 呉達閣と再会した周恩来は、久闊を叙した後、「奥さんはお元気ですか」と尋ねた。
「何とか元気で」
「お子さんは?」
「一人います」
 とのやり取りまでは良かったが、周が「まだ同じ奥さんですか?」聞いた途端、達閣の態度が冷たくなった。ウイルソンはこれを、「国民党員の生活が腐敗している」と共産党が常に非難していたことから、誤解を招いたものと解しているが、浅見であろう。

 台湾の人名事典によれば、これに先立つ昭和五年イリノイ大学で博士号を取った達閣は、七月に張学良の要請で瀋陽・東北大学文学院の専任教授となり、六年九月の満洲事変後は東北大の北京(北平)移転に伴い北京に移り、北京大学法学院教授を兼ねた。同年東北軍が国民党と合体し、陸海空軍副総司令に就いた張学良の北平司令部ができると達閣は上校機要秘書に任命される。

 昭和八年関東軍に熱河を陥された張学良が引責辞任して出国した後は、達閣は国民党員として活躍することになる。

 達閣は最初の妻・朱との間に一子を成したが、朱の死後に苑潤蘭を娶って二女を得た。つまり、「子供が一人」とは朱の子のことであるが、「まだ同じ奥さんですか?」と突っ込まれた達閣は、京都での秘事の暴露を警戒して、咄嗟に冷然たる態度を装ったものと推定される。

 大正六年の夏休みに京都に逗留した達閣が、同族の看護婦と同棲した丹波衆の定宿に渡辺政雄が住んだのも、達閣と親しくなったのも、すべて丹波衆の意図であろう。九月に初来日した周恩來が、東京に落ち着かず京都へ移ったのは、最大の保護者・達閣が、夏休み以来京都に行ったままだったからである。

 周蔵はこの時、周を観察して「京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じやふだ。多分、日本を偵察してをるのであらふか」と記した。予備役陸軍少佐・石光真清は、血液型分離法の探索のために五年から六年にかけて欧州に行った周蔵の道案内をしてくれたが、貨客船が停泊するたびに上陸して港街を観察していた。毎日京都を見物して回る周の姿が、石光を髣髴させたのである。

 秋も深まり、同棲相手を京都に残して達閣は帰京して一高特別予科に戻り、周も東京に戻って東亜高等予備学校に通った。達閣と周が十月になっても東京に戻らず、定宿でゴロゴロしていたからたまたま周蔵に会うこととなり、周蔵の手記から、九十年後に秘密の一角がこうして崩れたのである。
 
 ★願書を書いただけで京大に入学しなかったのはなぜか


 周と京大について、「政治、経済の授業を受けるために、東京の神田の住所で願書を書くには書いたが、実際に提出したかどうかは分からない」とウイルソンは言う。「周恩来は京都大学の聴講生になりはしたものの、時々授業に出ただけ」とはハン・スーインの言である。折から京大でマルクス主義を宣伝していた河上肇と周の結び付きが注目されるが、結論から言えば、周は京都大学にいかなる形でも入学していない。

 ウイルソン説の根拠は下記である。京都北郊の山口村の山林業・大田貞次郎は戦時中、野菜などを京都市内の親類知人に配っていたが、昭和十九年秋に一軒から礼に貰った和紙の束に墨色良く字体も見事な書付があり、しまっておいた。それは周恩来の署名がある履歴書と京大入学願書で、昭和五十四年に来日した周未亡人が真筆と認めた。

 願書は京大法学部の政治経済科選科に入学するためのもので、時期を大正七年とし日付を記入していないので、七年春の入学試験のために準備したものと分かる。住所は「東京市神田区表猿楽町三番地竹村方」となっており、全体の経緯が研究者にとっては謎であった。

 創価大学の上記研究を基に私(落合)が推量するのは、「六年九月に初来日した周は、一旦上京して神田表猿楽町の友人の下宿に逗留したが、東亜高等予備校に籍を置くや、直ちに京都に向かい、達閣の下宿に居候した。京都では、来春京大の法学部政治経済科選科を受験したいと考えて例の願書を準備したが、下書きなので住所はとりあえず猿楽町の友人下宿とした。その頃、渡辺政雄を訪ねてきた周蔵と知り合ったが、京都の大学に行く権利とは、来春の聴講生計画を周蔵が錯覚したのである。やがて一高予科在籍の達閣が帰京するので、周も同じく帰京した」というものである。

 創価大の研究者は、「来日間もない六年の後半に周恩来が京都まで旅行したということは考えにくいので、その年の末頃に、先に京大に留学していた南開学校の同窓の友人に預けたものではないかと考えられる」とする。研究者は、常識による先入観から六年秋の京都滞在の可能性を否定してしまい、京都逗留は八年だけとする誤った結論に達したのだが、「周蔵手記」を見ていないから、こんな特殊事情に想い及ばないのも当然で、已むをえまい。

 大正六年九月に初来日した周恩来が東京に落ち着かず、一旦京都へ向かったのは、頼るべき保護者の達閣が、夏休み以来京都に行っていたからである。一高特別予科に合格していた達閣が京都に逗留していたのは、前述した丹波衆との関係が根底にあるが、河上肇がマルクス主義を講義する京大を念頭に置いて、一高から三高への転校を図っていたとも思われる。事実、達閣は翌年三高に転じた。吉田阿達町の下宿に例の看護婦を置いたままだったのかも知れない。
 
 ★ワンワールド中国支部 「南開中学」の実態 


 達閣の勧めで、翌春の京大選科受験を予定した周は、入学願書の下書きを書いたが終に使うことがなかった。この願書は、他の荷物と一緒に、達閣が定宿に預けておいたのだろう。七年になり、一高と東京高師の受験に失敗した周は一時帰国し、九月に再入国するが、以後八年春までの動向は明らかでない。

 南開同学との間の書信の往来から見ると、東京に下宿していたことは確かであるが、下宿の所在すら明らかになっていない。前述した大工・八代氏の下宿に居たのは、或いはこの時期かも知れない。前年(大正六年)の秋とすれば、僅か二ヶ月ほどの東京生活の中で下宿の移転があまりにも頻繁で、また矢代氏下宿の時間があまりにも短く、女房たちの噂になったとは考えにくいからである。因みにその噂とは、ある種尾篭なことで、周の大物振りが取り沙汰されて他日を期待されたという埒もない一件である。

 ともあれ、周恩来は八年の春、前年に一高特別予科から三高文科に転じていた達閣の下宿に居候して長逗留する。達閣と住んでいた妻をウイルソンは「政府の給費生」と説くが、当時の民国政府の給費制度は女子を対象にしていない。ハン・スーインに至っては、達閣の妻が「南開時代からあなたのお酒好きは度が過ぎていたわ」と周を諌めた、と謂うが、南開は男子校であり、周や達閣らが校外で女学生と交友していたとは考えにくいから、これは舞文曲筆以外にあるまい。

 すべてを解く鍵は、達閣と丹波衆の秘められた関係にある。呉達閣は、実は清国に潜入した丹波衆が、満洲に遺してきた血統と仄聞する。それは、愛親覚羅氏の大陸統治が終焉に差し掛かったことに対応して、京都堀川御所の皇統が秘かに打った手であった。相手も相手で、南開学校の三羽烏と謂うべき呉達閣・王希天・周恩来が揃って日本に留学したのも、決して偶然ではあるまい。キリスト教メソジスト派の支援を表看板に、近代教育のために建てられた南開中学の実態は、ワンワールド(国際秘密勢力)が中国に置いた重要拠点の一つであった。創立者が日本の学生を基準にしたのは、卒業生を日本に送り込む目的を秘めていたからである。南開中学の設立自体、日本調略のために特務を養成する目的でもあったと見て不自然ではない。

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 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 (37)
     <了>。
 
 

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